9.ローマの松
本日も、島原大学との合同練習の日だ。
前回と異なり、大三東の部員たちの足取りが重い。誰も好きでネロのスパルタを受けたいと思わない。
ただし、実音は例外だ。彼女だけはうきうきしている。
大学到着後は、パート練習。そして、昼休憩を挟んで午後は合奏だ。特別講堂に集まる。
「次『エルザ』」
基礎合奏の最後に、『エルザの大聖堂への行列』を演奏する。
この日のオーボエのソロは、実音が吹いた。それをネロはジーッと見ている。
一曲吹き終わり息を切らす実音に、ネロは「ソロはいいんじゃね?」とだけ言った。一発合格だ。
褒めることの少ないネロの発言に、客席で聴いていた指揮者の黒田宙矢は驚く。隣に座る顧問の文に話しかけた。
「雅楽川ちゃん、やりますね」
「そうなんだよねー。僕いらないんじゃないかなぁって、いつも思うんだ」
「あはは。それはこっちも同じです。一応音楽監督なんですけど、俺の出番ほぼないですから」
「一緒だね」
ふたりの指揮者は、意気投合する。
共にオーボエ奏者に逆らえないという共通点があり、慰め合った。
基礎合奏の後は、オータムコンサートで披露する曲の練習だ。曲は『交響詩《ローマの松》』。
この曲は、イタリアのオットリーノ・レスピーギが作曲したものである。特徴としては、「ボルゲーゼ荘の松」「カタコンバ付近の松」「ジャニコロの松」「アッピア街道の松」の四つの構成となっている。長い間、ローマで時代の生き証人としてそこにあったイタリアカサマツを通して、古代ローマに想いを馳せる曲だ。同じ作曲家の『ローマの噴水』と『ローマの祭り』と合わせ、「ローマ三部作」と呼ばれる。
島原大学では、この三部作の中からひとつを毎年このオータムコンサートで披露することになっている。今年は「松」の年だ。
ちなみに、コンクールでは「アッピア街道の松」が人気である。
「ホルン、ひとりずつ吹いて」
早速、曲の最初のホルンが抜かれる。
「ダメ。次。……下手。次。……せめて音当てろよ。次。……ダメ。次。……ねぇ、テンポ悪いんだけど。さっさと吹いてくんない? ……話にならない。次。……OK。次。……」
順番に同じ箇所を吹かせ、大学生も含めたほとんどが不合格になる。そして裏の楽屋で練習をさせられる。
そこに、ひとり残った者がいた。プリンスだ。
彼は合格したものの、そのまま指導は続けられる。
「同じ音で刻んで吹いて。……音変えて。……楽譜どおりで」
ほかの奏者たちからの視線も浴び、ネロから出る要求に次々と応えていく。追い出されるのも精神的に参るが、残されるのも地獄である。
「よし。今のを教えてこい」
「はい!」
プリンスは、急いで楽屋へと向かう。その間に、ネロは次のパートを抜き出していく。
いつ自分がターゲットになるかわからない状況で、合奏中は全員気が抜けない。
ネロの指導では、ソロ奏者が決まっていてもその場でほかの者に吹かせることがある。もし別の者の方が上手ければ、そこで交代する。この大学ではトップが変わることがよくある。学年は関係ない。完全実力主義だ。
「クラリネット、ソロやって」
かなり目立つソロを、またひとりずつ吹かせるネロ。
海も綺麗な音を響かせようと、必死に吹く。
「音、締まりすぎ」
結果は不合格だ。
ソロは元々担当予定の部員のままとなった。
(悔しい!)
威圧的な視線に耐えて吹いた海は、今は恐怖よりも怒りが大きい。頬を膨らませて、ネロを睨む。
「…………っ……」
すると、すぐ後ろから誰かの泣いている気配を感じた。
海は、紣谷秀奈がまた泣いてしまったのではないかと心配になり、パッと後ろを向いた。
「え!」
彼女の目に映ったのは、泣いている大学生数名と、目に涙を溜めている隈部満と紣谷。隈部に関しては、アホ毛がすごいことになっていた。
(大学生も泣くんだ!)
そんな異変はここでは珍しくなかった。ほかの大学生たちは下を向いてネロと顔を合わせないようにしている。
ネロも泣いている部員に気がついているが、特に何も言わない。パートリーダーへ対しての言葉がキツくなるだけだ。
そこに、実音が静かにフォローしに席を立った。隈部と紣谷とついでに大学生たちの肩に手を置き、彼女たちを落ち着かせた。そして、小声でアドバイスをしてあげる。ソロを吹くチャンスはもうないだろうと考え、この先の取り出されそうな箇所の注意点を伝えた。
実音の登場に、隈部のアホ毛も次第におとなしくなった。それを見届けて、彼女は自分の席へと戻った。
その後も、このような感じでネロが指導し、問題が起きたら実音が席を離れてフォローをするという場面が多く見られた。
「アングレ」
「はい」
コールアングレのソロになると、実音は切り替えてそちらに専念する。
「ファゴット、負けてんぞ」
この実音が吹く「アッピア街道の松」のソロは、とても有名だ。太陽を浴びながら軍隊が遠くから行進してくる場面で、アングレが怪しい旋律を吹く。
ファゴットとの掛け合いも見所で、抑揚を効かせた彼女のソロは、大学四年生の吹くファゴットを消しかねない演奏だった。
ネロはアングレをそのままにさせて、周りに対して彼女にテンションを合わせて上げるよう指示を出した。曲はここからラストに向けて盛り上がっていく。
「そのバンダ、なんなの?」
ここで抜かれたのは、トランペットとトロンボーン。
「バンダ」とは、ステージ上で吹く編成メンバーではなく、「別働隊」として舞台裏などで吹く奏者のことだ。九月の定期演奏会で、造酒迅美が『カヴァレリア・ルスティカーナ』で吹いたソロもこれに当たる。
『ローマの松』では「カタコンバ付近の松」でトランペットのソロがこの形式で吹く。また「アッピア街道の松」のラストでも、トランペットとトロンボーンが「バンダ」として登場する。今回は、舞台の花道で吹く予定だ。
「ひとりずつやって」
ここは、曲の最大の見せ場と言っても過言ではない。大三東の生徒と補助として大学の学生を入れたメンバーで、大事な「バンダ」をさせる。
これは、高校生とのコラボをアピールするための演出でもある。そのため、大三東の金管に大きなプレッシャーがかかる。本来は、レスピーギの指示どおりの古来の楽器を使用したかったが、慣れない楽器で吹かせるよりいつもの楽器でやらせた方が音が鳴るだろうからと、この形になった。
緊張しながら、造酒から吹いていく。
有馬咲太郎は、自信たっぷりだ。得意のファンファーレは、誰にも負けるわけにはいかない。
「えっと、ミキ?」
「はい!」
ネロは実音が作成した座席表を見ながら、名前を呼ぶ。
「これ、吹いて」
彼は、ハーモニーディレクターを使って『スーパーマンのテーマ』を弾く。
楽譜と違う曲が流れて困惑する造酒だが、言われたとおり吹いてみる。
「これできるまで、練習してきて」
「え? あ、はい!」
その意図がわからず、首を捻りながら彼女は楽屋へと向かった。
「アリマはこれ」
次にネロが弾いたのは『ハトと少年』。
有馬はこれも堂々と吹いてみせる。
「ナシだな」
「は?」
吹き終わった彼に、ネロははっきりと告げる。
「朝に聴いたら、うるさくて無理。できるまで練習してこい」
その感想に、有馬は頭に血が昇るのを感じた。
音程は合っている。自分では完璧に吹けたと思った。それを否定されてしまった。
彼はドンドンと足音を立てながら、ステージを後にした。
ネロは一回休憩を入れた。
そのタイミングで有馬も楽屋から戻ってくる。だが、その表情はとてもイラついていた。
造酒はパートリーダーとして、そんな彼を注意した。
「ちょっと。そんな態度でいたら、また捕まるでしょ?」
「は? 曲と関係のないやつ吹かされてしかもダメ出しされるとか、マジで意味わかんねーっすよ」
「わかるけど。その不機嫌そうな顔はやめなさい」
「……」
「有馬!」
「……はーい」
「ねぇ。ちょっとごめんね」
その声が聞こえたホルンパートの大学生が話しかけてきた。
「ネロの奴、たまにああいうのやるんだよね。その人に足りない技術を身につけさせるためにさ。たぶん、造酒ちゃんのは『華やかさと勢い』で、有馬君のは『もっと力抜いて、自然で豊かな音』かな? たぶん。ふたり共、別に下手じゃないよ。でも、ネロの課題をクリアすれば、もっと上手くなれるのは保証するから、とりあえず従ってみて」
「はい、ありがとうございます!」
理由を聞いて、造酒はやる気を出す。一方、有馬は不貞腐れたままだ。
休憩が終わり、ネロはまた「バンダ」を取り出す。
先ほど出した課題を確認していく。
「ミキ、OK。アリマはまだダメ。ちゃんとやった?」
「……はい」
「それでこれ?」
「……」
「もっかい練習してきて」
彼も、サボっていたわけではない。言われた曲を楽屋で吹いてから、ここに戻ってきた。それをまたしても否定され、さっきよりも音を立てて去っていく。
今度は実音も付き添おうと席を立とうとするが、その前にネロから「お前は行かなくていい」と言われてしまう。
「次の曲やるから」
「……はい」
楽屋の方を向いて心配そうな表情をしつつ、実音はネロに従った。




