3.エルザの大聖堂への行列
午後の練習は、特別講堂での合奏だ。
午前中に優しく楽しく雑談を交えたパート練習を体験した海は、ワクワクしながら次の場所へと向かう。
「大学って、面白いね」
隈部満や紣谷秀奈や縫壱月たち大三東のメンバーに訊くと、みんなも頷いた。
移動中に大学生にも話しかけようとする海。しかし、彼らの様子はさっきまでと違った。どこか強張っていたり、息が荒かったり、震えたりしている。
「あのー、大丈夫ですか? どっか、体調でも悪かですか?」
ひとりではなくパートのほぼ全員の顔色が悪いのだが、海は一応尋ねてみる。
すると、クラリネットのパートリーダーの女子部員が、小声で教えてくれる。
「いい? これから行くのは地獄よ。本来、うちはさっきみたいのが普通なの。あいつがおかしいだけだから。何言われても、心を強く持ってね」
「?」
これから、ただ合奏をするだけだ。それなのに、大学生たちはまるで行きたくもない戦地に向かうかのようだった。
それでも海は、実音の合奏で鍛えられた経験から、大学の練習も乗り越えられると思っていた。
「おい。なんだよ、その腑抜けた音は。トランペット、トップ代わって」
「ハマ、チューニングちゃんとやった? トロンボーン、全員裏で合わせてきて」
「ねぇ、なんでバスドラムとティンパニ、ずれてんの? ……いや、謝られても困るんだけど」
「ファーストクラリネット、アタックがキツい。ひとりずつやって」
「チューバさぁ、メトロノーム見えてる? 遅いのわかんない?」
実音並み、いやそれ以上に容赦のないネロ。しかもその言葉はかなり乱暴だ。
あまりにもできていないと判断すれば、合奏から追い出す。ホールの舞台裏の楽屋で練習させるのだ。言ったことができるまで、彼は戻らせない。
相手が上級生でも遠慮はせず、指揮台に置いた椅子に座りながら思ったことをどんどん指摘する。
普通合奏を指導する者は、自分は吹かない。だが、ネロはオーボエで一緒に音を出す。向かい合う部員たちにダイレクトに響いてくるため、それもプレッシャーになる。
初めてネロを見た大三東の生徒たちは、その見た目のインパクトもあってか怯えていつもの音が出せない。それを彼が見逃すはずもなく、ギロッと睨みつける。まさしく、蛇に睨まれた蛙の気持ちだ。全体から個人で抜き出され、指導が入る。
そんな恐怖の合奏で、いくつかわかったことがある。
まず、大学の所有する楽器の豊富さが異次元であること。
大三東では所有していないファゴットやコントラバスはもちろん、コントラファゴットなどの特殊管も普通に使用している。マイ楽器の者もいるが、こういった特殊楽器を購入できるだけの余裕があるのが羨ましい。さらに、大学所有の楽器のメーカーはどれも一級品で、プロが使うものと変わりがない。
また、島原大学の部員たちのレベルは確かに高いが、逆にそうでもない者も多い。
基本の合奏メンバーは、コンクールにも出場するAチーム。そこに何人かのBチームのメンバーが、曲によって人を入れ替えながら入る。大三東が参加する曲にも何人かBチームが入っているのだが、そのレベルが高校生と同じくらいの者もいる。大人数の部活のため、そういう部員がいるのもわかる。そして、ネロはできない部員を中心に取り出すのではなく、前回言ったことが直っていない者や、それをそのままにしたAチームの者を叱る。
次に、練習内容は実音とさほど変わらないということだ。
去年までの大三東では思いつかないような練習方法も、全国レベルでは大体どこも同じだった。ただ、同じ練習でも要求される質の違いはある。
そしてその実音はというと、合奏中に立ち上がって大三東の部員たちのフォローをしていた。ネロの言ったことを理解できていなさそうな部員の横に行って教えたり、威圧的な視線で反応ができていない者を落ち着かせたりした。これは合奏を止めないための行動だ。
それから、メトロノームの予備を隙を見て交換し、空いた方のネジを回しておく。途中でメトロノームが止まってしまわぬように、一番近くに位置する彼女は頼まれてもいないことをやってのける。
もちろん、自分が吹くタイミングではアングレに集中した。その音に、ネロは特に言うことはない。
「基礎は次で終わり。『エルザ』の楽譜はもらってるよな? ミオ、今日はオレが吹く。次から、お前に吹かせるからよく聴いとけ。オーボエ、用意しろよな」
多くの団体は、基礎合奏の最後にコラールを入れる。簡単なゆったりとした曲で、表現力やたっぷり歌いながら吹く技術を身につける。大抵、毎回異なる曲を演奏することが多い。
一方島原大学では、いつも最後にドイツのリヒャルト・ワーグナーの『歌劇 《ローエングリン》より「エルザの大聖堂への行列」』を演奏する。
ちなみに、「ローエングリン」の中には『婚礼の合唱』という曲もあり、「ワーグナーの結婚行進曲」として有名である。
この『エルザ』は、とにかくキツい。ゆっくりで音程を合わせながら演奏するのは、ある意味一番難しい。それを基礎合奏の最後の唇が疲れた状態で行う。これで嫌でも口輪筋が鍛えられる。
それから、最初の方にオーボエのソロがある。これを、ネロは余裕で吹く。実音はこの曲を演奏したことがあるが、その時は最後の方はバテて大変だった記憶しかない。だがネロは曲の終わりまで、しっかり音を響かせていた。
(無理)
こんな曲を毎日基礎合奏後にすれば、これだけの体力はつくのだろう。
しかし、さすがの実音でも慣れるまでは唇の周りが最後まで持つ自信はない。リードの消耗も激しそうだ。できるなら、ずっとアングレで吹きたいと思った。
『エルザ』の後は、演奏会の曲合奏だ。譜読みから始める。
その譜読み合奏の方法は、実音の教え方と全く同じだった。全部の音楽的表現を無視して、テンポも遅くする。
この練習で、休符の多いパートで出る場所を間違う者がいた。そういう時、恐くてネロの顔が見られない。
譜読み後は、細かくネロの指導が入る。
「次、アングレ」
「はい」
ネロに言われ、実音は周りの伴奏に乗せて臆せずにソロを吹く。大学生相手でも、自分の中の一番の歌い方をぶつける。
その演奏に、Aチームのメンバーでさえも驚いた。今すぐに本番に出ても問題のないレベルだった。
「色気が足んねぇー」
「……色気?」
ネロの感想の一言目はそれだった。
「エロさだよ。わかんだろ?」
(わからない)
基本はできている実音に、ネロが要求するものは実に難解だ。彼は、ハーモニーディレクターも使いつつ、微妙なニュアンスの違いを伝える。
あまりアゴーギグで激しく揺らしたくない実音に対し、やり過ぎじゃないかと思うくらいの大胆さを求めてきた。
そのとおりにすぐ直すとOKが出る。その対応の速さに、ほかの大学生から「あの子、何者?」という声が出た。
本日の練習が終わると、大学生たちからは安堵の声が漏れた。「今日を無事に終えられた」という安心感が伝わってくる。
「ネロさんの合奏、しんどかったー!」
海も思わずそんな発言をしてしまう。それを本人が聞き逃すはずもない。彼女は慌てて口を塞いだ。
「ばってん、あの曲は好きかもです。大変だけど」
今度は小声で隣の大学生に同意を求める。
「それって『エルザ』のこと?」
「そうです! いつか、自分の結婚式で流そうかなと思いました」
「それはやめた方が……」
「?」
「ローエングリン」というのは主人公で、「エルザ」はヒロインの名前だ。
このふたりは結婚するのだが、最終的に別れる。しかも、そのヒロインは死亡してしまう。
結婚式では有名な曲を含む歌劇であるが、その内容を考えると不吉で使用したくはない。
「やめとこ!」
「流すならメンデルスゾーンがオススメだよ」
「そうします!」
内容を教えられ、海は忘れないように楽譜に「結婚式で禁止」と書いておいた。
楽器を片し終えたネロは、傍にいた実音に視線を送る。それに気づいた彼女は、一旦動きを止めた。
「何か?」
「この間のデータ、全部観た」
ネロが言っているのは、大学祭の時に渡した大三東の過去の演奏のことだ。
「去年のは、ありえないくらい酷い。でも、今年のは少しだけ面白かった」
「ありがとうございます?」
意図がわからず、とりあえず実音はそれだけ返してみた。
「ここの奴らは、気が利かねぇ。自分以外のことは無関心で、下手な奴の面倒をちゃんと見られない。演奏もつまらねぇし」
ここで、同じ大学生への愚痴が溢れる。
全く小声ではなかったため、それは全員の耳に届いた。
「お前さ、何やってんの?」
「え?」
「ミオはさ、ちゃんとした場所でやってきたんだろ? その結果がこれ? リミッター、今まで外してなかったよな? それでこの先、戦えると思ってるの?」
「……」
「お前、頑張ーー」
「わー!」
ネロの言葉を叫び声で遮ったのは、海だった。
実音の嫌いな言葉を言いそうな彼を、全力で阻止する。
「あ゙?」
海の奇行に、機嫌の悪くなるネロ。
「なんだよ」
「え、あ、あの、その……えっと」
思いきり睨まれ、彼女の目が不自然なほどよく泳ぐ。
「海、大丈夫。ありがとね。ネロさん、続けてください」
海が自分のために立ち向かってくれたことに感謝し、実音は覚悟を決めてその言葉を受け入れようとした。
「は? なんなの? オレはただ、ミオが頑張りすぎだって言おうとしただけなんだけど?」
「え?」
思っていたのとは異なる言葉が出てきた。似ているが、意味が違う。
「よくひとりでレベルを上げたなって、思ったんだよ。でも、自分を犠牲にしすぎ。それじゃ、全国でほかのソリストに勝てない。だから、もっと早くからオレの所に来てればよかったのにな」
ネロが伝えたかったのは、まさかの実音への褒め言葉だった。
まだ出会ってからそんなに経っていないが、彼は彼女を気に入っていた。
「ネロはもっと優しくしろ」
「イテッ」
そこに黒田宙矢が現れ、ネロの頭にチョップを入れた。
文と共に客席で見学していた彼は、威圧的に周りに接してしまうネロの態度を正そうと、今日も保護者役を買って出る。
「さっきの発言も、あれ、セクハラだからな」
「何が?」
「『色気』とか、『エロさ』とかだよ」
「そんなの普通じゃん」
「普通じゃねぇよ。少なくとも、女子高生に言っていい発言ではない!」
「はぁ?」
また言い合いをしているふたりを見て、構えていた実音の力が抜けた。
自分より上手い人から認められ、これまでのことも評価されたことは普通に嬉しかった。大三東が上手くなるために様々なプランを考えていたが、ここを選んで正解だと思った。




