2.オーボエより高価な楽器
本日も島原大学との合同練習の日だ。
前回の顔合わせでは、ほかのパートは大学生たちから優しくもてなされた。お菓子も出してもらい、大学にまた辿り着いた現在も海は上機嫌だった。
「合同練習って、楽しかね!」
練習というほど吹いていないのだが、彼女はもう満足そうである。
「実音のところは? 何しとったの?」
海の質問に、実音は目をキラキラさせる。
まるで「よくぞ、訊いてくれた」とでも言うかのような反応の速さで振り向く。
「リードの調整してもらったの! 最近いまいちだったんだけど、復活してすっごく助かった! あとね、身体の使い方を直してもらったり、生でいい音聴けたり! CDとはやっぱり違うよね! 勉強になった! それで、つい吹きすぎて、久しぶりに目の前が真っ白になっちゃった! あの感じ、懐かしかったなぁ」
「……」
テンション爆上げの実音に、海は若干引いている。
初回からガチレッスンを受け、酸欠になったことを嬉しそうに語る彼女は、イカれているとしか思えない。
大三東に来てからは指導ばかりで、実音には自分の練習を見てくれる人がいなかった。個人練習では、苦しくなったら吹くことを一旦やめて、身体の中の余った息を吐き出せる。しかし、レッスン中は本人も技術を盗もうと必死で、ちょっとした立ちくらみ程度では吹くことを止めない。
以前の学校でも、部員同士の練習で何度も酸欠で危ないところまでいっている。
強豪校のオーボエ奏者としてはあるあるだが、人間としては異常である。慣れというのは恐ろしい。
せっかく大三東に来て忘れかけていた感覚が、ネロによって呼び起こされてしまった。
この日の午前中は、またパート練習だ。
オーボエの教室には黒田宙矢の姿もある。彼は前回のようなことが起きないように、見張り役としてここにいる。
「こっちのリードも調整しといたから」
「ありがとうございます!」
ネロは、コールアングレと専用のリードを渡した。
「コールアングレ」とは、別名「イングリッシュホルン」とも呼ばれるオーボエの仲間だ。「アングレ」と省略されることが多い。
オーボエよりも長い楽器で、低い音が出る。リードもオーボエのに比べると大きい。その分息の通り道ができるため、楽器は大きくなるが意外と吹きやすい。重さもあり、支えるためにストラップをつける。
実音は軽くリードを鳴らすと、ボーカルと呼ばれる細い管に取りつけ本体と繋げた。
手の位置はオーボエより下がる。指遣いは同じで、久々の楽器を難なく吹いてみせる。
「雅楽川ちゃん、アングレも上手いね」
傍で聴いていた黒田がそう言うが、彼女は曖昧な表情をする。そして、ネロに意見を求めた。
「どこか、直す箇所ありますか?」
「んー」
ネロは唸った後、楽譜を押しつける。
どうやら、ソロを吹くようにという指示のようだ。
「もう曲ですか? もっと基礎とかは?」
前回は、同じ音をひたすら吹き続けたりした。それなのに、どうも今日はネロにやる気が見られない。
実音は、彼にお手本で良い音を聴かせてほしかったため残念がる。そんな彼女の想いはネロも感じ取っており、少し迷ってから「じゃあ、あれやる?」と言った。
「あれ」とは、実音が楽器に息を吹き込むのだが、指を動かすのをネロが行う練習である。無意識に指に集中して無理に音程を調整してしまっていないかや、隣の音とのバランスを確かめるためのものだ。
「お願いします!」
この練習で、実音は前回倒れた。それでも前向きにお願いする。
ネロは溜め息をつきながら、実音を座らせた。そして、その横に自分は膝をついて楽器を持った。
音階を下から上へ、上から下へとネロが指を動かす。それに、実音は息を吐き続ける。
一通り終え、実音はネロにボソッと呟いた。
「ネロさん、もしかしてアングレ苦手ですか?」
「うっせー!」
どうやら図星のようだ。
オーボエの時より、彼の指はたどたどしい。
「仕方ねーだろ! 同じ指でも違う音が出るのが気持ち悪いんだよ!」
オーボエはC (ド)管。ピアノと同じ楽譜を吹いている。
一方、アングレはF (ファ)管。オーボエより完全五度下の音が出る。
吹奏楽もオーケストラも、同じ音を吹いていたとしても、見ている楽譜の音符の位置は楽器によって異なる。とてもややこしい。
「でも、ネロさん指揮してましたよね? スコアを見るのは問題ないじゃないですか」
「それとは別! 慣れた指で本来出る音が出なかった時、ゾワゾワする!」
「リコーダーも一緒ですよね? ソプラノとアルト。小中、どうしてたんですか?」
「あれはいいんだよ。そんなに身体に染みついてないから」
実音は彼の気持ちが少しはわかる。しかし、オーボエ奏者がアングレに持ち替えるのはよくあることだ。大抵二番手や三番手が担当する。
「オレはトップしか経験してないからな。練習で吹いたりはしたけど……。吹かなくていいなら、アングレはやりたくない!」
「こいつ、我儘で本当にごめんね」
そこに黒田も入ってくる。
「四年のオーボエがいつもアングレやってんだけど、その人基本練習来ないんだ。本番は来ると思うから、今回も一部は出てくれると信じてるけど。ネロもさ、自分で『イーゴリ公』を選曲するなら、アングレの面倒もちゃんと見ろよな」
「クロの知り合いにでも、またエキストラで出てもらおうと思ってたんだよ」
「やめて! 俺の友達減るから!」
「あ゙?」
持ち替えが多いアングレ。しかし、その楽器が登場するソロは、かなり重要なものばかりだ。よって、団体によっては、他所からプロのアングレに特化した奏者に頼むこともある。
以前、島原大学では黒田の伝手で外部の人間に出演をお願いしたことがあった。その時は歌手とピアノ奏者だった。しかし、ネロの細かすぎる注文や横暴な態度に、最後は険悪なムードになった。そして、黒田は友人をふたり失った。
「とにかく、演奏の表現ならいくらでもアドバイスしてやるから、曲の練習するぞ!」
まだまだ基礎をしたい実音だが、仕方なく楽譜を用意した。
「……お願いします」
パート練習という名のネロによる個人レッスンを終え、お昼休憩に入った。
アングレはオーボエよりも酸欠になりにくい楽器だが、ずっと座っての練習でも実音はかなりの疲労を感じていた。
「雅楽川ちゃん、大丈夫?」
「はい、大丈夫です! 勉強になりました!」
今の彼女は、疲労よりも学びが多かったことによる嬉しさの方が優っている。これくらい、大したことではないと思った。
「そう? ならいいけど。じゃ、お昼食べよっか」
黒田もここで一緒に食べることになった。持ってきたお昼ご飯を広げる。
実音は実音ママの作ったお弁当。ネロと黒田はコンビニで購入したおにぎりだ。それを、三人は黙々と食べる。
「なんか喋ろうよ!」
静かな空間に耐えきれず、黒田が突然叫ぶ。
交流も目的のはずの合同練習なのに、全くその雰囲気がない。別の教室からは、楽しそうな話し声が聞こえてくる。
「お互い興味持って! 『趣味は?』とか『休みの日は?』とか、いろいろあるでしょ!」
合コンで耳にするような質問の例だが、訊いたところでこのふたりには意味がない。どうせ「趣味は音楽。休みの日も音楽」なのだ。
「ほら、ネロ。雅楽川ちゃんに、訊きたいことないのか?」
「別に」
「雅楽川ちゃんは? こいつに質問ない?」
「あ、じゃあ」
実音は絞り出して、手を小さく挙げた。
「ネロさん、リードはどこで買ってますか?」
「高校の時の講師から、送ってもらってる」
「結局、楽器のことじゃん!」
何気ない普通の会話ができないふたりに、黒田は突っ込むしかない。
お互い相手のプライベートを知りたいとか思わないため、これは仕方がない。実音はそんなことより、貴重な合同練習ではどうせなら身のためになることを聞きたい。
「大学では、外部講師の方に頼ってないんですか?」
「いたけど、合わなかった。もう学ぶこともなかったし……。昔、リードの削り方を間近で見る機会があって、その人から道具はもらった。その頃は、まだオーボエ吹いてなかったけどな。で、高校で世話になった講師からリードだけもらって、自分で調整してる。一から作るのはタイパが悪い」
「高校はどちらですか?」
ネロが答えたのは、北海道の高校だった。全国大会に何度か出場しており、金賞も受賞している団体だ。島原大学には全国から人が集まっているが、ネロが一番遠かった。
彼が高校生の時、実音はまだ中学生。場所も離れており、演奏を見に行ったことはない。だが、全国大会の時のCDを聴いたことがある。その名を聞いて、すぐにその演奏が思い出された。
「私、いろんな『サロメ』聴きましたけど、ネロさんの学校のが今のところ一番です」
それは、ネロが高校三年生のコンクールの自由曲だった。実音もこの年に中学三年生で同じ曲を演奏しており、思い入れがある。
「当たり前だ。けど、お前のとこに『一金』は持ってかれた。むかつく」
ジロッと睨まれるが、その頃は実音はまだ方南の生徒ではない。
「向こうはソリストが揃ってる。しかも個人の技術力もある。でも、表現力ならこっちが勝ってた」
「……それは、私もCDを聴いて思いました。でも……」
「減点がないんだよ」
「……そうですね」
「オレの方が上手いって聴いててわかったから、余計むかつく」
「……」
ネロは在籍中、三年間連続で金賞を受賞した。
それでも、一度も方南には勝てなかった。
「雅楽川ちゃんがいたあそこは、指導陣が充実してんだろ? しかも人も勝手に集まる。ここと似てるじゃん。あ、今は指導者はネロだけか」
「黒田さんは、指揮者なんですよね? 指導されないんですか?」
その質問に、彼は首を大きく横に振った。
「俺、都内の音大出身なんだけど、吹奏楽はやったことなかったんだよね。ピアノのコンクールでネロと出会ってさ。大学卒業後にフレンチの店でピアノ弾いて生活してたら、突然誘われた。負けた奴に会いたくなかったけど、指揮者になるのが夢だったからここにいるんだ。たまにこいつの編曲した手書きのスコアを専用のソフトでデータ化したり、音大の頃の伝手で新しい講師を探したり、マネージャーみたいなことやってるよ。初めて会ったのは五つも年下の小五の生意気なガキで、それは今も変わらないな」
島原大学のコーチ陣を追い出した時に、同時にパートごとの講師も何人か離れてしまった。それを埋めるため、黒田は大学祭の日も東京に戻って新しい人材を探していた。
吹奏楽の経験が乏しいのは、大三東の顧問の文と同じだ。だが、黒田は指揮者としての技術と音楽に対する知識が豊富にある。
奏者として演奏しなければならないネロには、指揮さえできる人間がいればそれでよかった。指導については、自分がすれば問題ない。
「ピアノはオレの方が上手いけど、クロの指揮はイライラしない。だから採用した。レストランで暇そうな演奏するくらいなら、こっちで使った方がいいだろ?」
「お前、言い方ってもんがあるだろ!」
「あ゙?」
実音には、ふたりが仲の良い兄弟にしか見えなかった。




