1.誤解です!
実音と海は、大三東高校に戻ってネロからの提案を顧問の文やほかの部員たちに伝えた。
すると、すぐに賛同を得られた。費用面での負担がないのはとても大きい。もし外部講師にお願いすることになったら、今よりもっと部費を上げる必要があった。
大学の講義は土曜日もある。そのため、大三東の練習を土曜日は自主練習で日曜日に活動という形に変えた。
そして、今日が島原大学との合同練習の初回である。
「大三東のみんな、ようこそ」
十九号館の前で出迎えてくれたのは、代表の白浜春雪だった。
チューバなどの重たい管楽器のパートはここまで自力で運んできたため、既に疲れている。なるべく出費を抑えるべく、今回はトラックを頼んでいない。よって、スティックしか持ってきていないパーカッションや軽い管楽器の部員たちで、鞄を持ってあげた。
「重かったでしょ。それぞれのパートリーダーに各教室に連れていってもらうけど、エレベーターもあるからそっちを使って。今日は顔合わせがメインだから、そんなに固くならないで気楽にね」
それから、パートごとに呼ばれて中に入った。
一応来ていた文は、やることがなさそうなため大学内をぶらぶら散歩することにした。
白浜はトロンボーンのパートリーダーでもあった。全てのパートを見送ってから自分も練習場所に行くつもりで、最後まで残っている。
そして、オーボエの案内をする者が現れない。実音だけトロンボーンと一緒に残されてしまう。
「あれ? あ! ごめんね。ネロの奴、なんで来ないんだよ。はぁー。仕方ない。オーボエの部屋通るから、一緒に行こうか。ごめんね」
「なんか、すみません」
「いや、こっちの台詞だよ。その……ネロとふたりっきりになっちゃうけど……うん」
白浜は、哀れみの目を実音に向ける。
これからどんな酷い目に遭うのか、想像するだけで彼女が可哀想になった。
別れ際に、白浜から「いつでもこっちに避難してきていいからね」と言われた。
彼に案内された教室に入ると、赤髪の小柄な青年が譜面と睨めっこしていた。ネロだ。
「今日は、よろしくお願いします!」
実音が挨拶すると、ネロは彼女が持ってきた楽器を顎で指す。そこで実音は、リードを湿らせてその間に楽器を組み立てた。
丁度良い頃合いになったリードを取り出そうとすると、その前にネロが取り上げる。そして、そのリードを口に入れて音を鳴らした。
「軽くね?」
「今お願いしてる楽器屋で調達できる中で、それが一番重いんです」
定期的に、養父灯大の楽器屋でリードを購入している実音。今あるストックは四本だ。常にギリギリでリードと戦っている。
「悪くないけど、オレはもっと重い方が好み」
そう言って、ネロは楽器に差し込んで適当に吹いた。
その音を聴いただけで、ネロの実力は相当なものだとわかった。
「やっぱ、このメーカーが一番だな。オレと一緒」
彼はほかの湿らせていたリードでも試奏する。たまに首を捻っており、楽器を置くと何か道具を取り出した。
「いじっていい?」
「はい」
実音の許可が下りると、ネロはリードの先端をカットしたり削ったりしてはまた吹いた。
それを何回か繰り返してから、実音に楽器を返した。
「吹いてみて」
言われたとおり、実音は適当に音を奏でた。
それは同じリードであるが、かなり実音好みの吹きやすさだった。
「っ!」
方南にいた時までは、オーボエの専門の講師にこんな感じでリードの調整をしてもらっていた。
リードは消耗品だが、高価だ。なるべく長く使えるように手直しが必要である。しかし素人がやると逆に使い物にならなくなる恐れがある。
大三東に来てから、それが一番リードに対してのネックであった実音。今のネロの行動は神の救いに等しい。
「どう?」
「すごくいいです! ありがとうございます!」
「じゃ、練習始めるか」
「はい!」
今日は顔合わせがメインで、簡単な音出し程度の予定のはずだ。だが、このふたりにはそんなものは必要ない。一分一秒が惜しい。
白浜が心配していたネロの態度は、実音には効かない。スパルタ環境に慣れてしまい麻痺している彼女には、これくらいが合っていた。
廊下を歩く、若い男性。
各教室で、和やかな雰囲気のパートたちの見回りをしている。どこも楽しそうな様子で、彼は安心した。合同練習は初めてのことで、島原大学の学生が高校生相手にちゃんと教えられるか不安だった。
そして男がある教室を覗くと、そこには女子高校生に顔を近づける男子部員がいた。
「何やってんのー!」
彼が教室のドアを開けると、こちらを振り向く赤髪の部員。その手は、女子高校生の唇に触れている。
「あ゙?」
「『あ゙?』じゃねーよ! お前、未成年に手出すな!」
「何言ってんだ、こいつ?」
「ち、違うんです! たぶん勘違いしてます!」
慌てて状況を説明する実音。
今のは、吹いている時に唇の締めつけが強すぎると指摘されているところだった。リードの咥える位置や力加減を、ネロなりに丁寧に教えようとしたつもりだ。
「お前な。紛らわしいこと、すんなよな」
「は?」
「ふぅー。あ、俺、黒田宙矢。ここの音楽監督兼指揮者ってことになってます。一応。ネロに無理やり連れてこられた可哀想な保護者です」
「そ、そうですか。雅楽川実音です。大三東の学生指揮者をしています」
「雅楽川ちゃんね。よろしく。もし、ネロに何かされたらすぐに言ってね」
「はい、わかりました」
「しねーよ!」
黒田は文よりも若く、賢そうな男性だ。背も高く、スタイルも良い。だが、どこか苦労人のオーラが出ている。
「また見にくる」と言い残し、彼は部屋を出て行った。
暫くして、黒田はまたオーボエの教室を覗いてみる。
すると、今度はネロが実音の腰に手を回しているところだった。
「ねー! 何してんのー!」
再び勢いよく教室に突入する黒田。
そんな彼に、ネロは邪魔をされて不機嫌そうだ。
「それ、セクハラじゃん!」
「ちげーよ!」
「これは、その……何やってんですか?」
フォローしようと思った実音だが、ネロが説明を省いて何かを取りつけようとしていたため、彼女もこれから行うこと知らない。
「これで心拍数を測ろうと思ったんだよ」
そこで仕方なくネロが見せたのは、チェストベルト式の心拍数を計測する装置だった。
彼はこれを、「腕に取りつけるタイプより正確に計測ができる」と言い張った。
「同じ講義受けてた陸上部の奴に借りた」
ネロは「借りた」と主張しているが、実際は「奪った」と言った方が正しい。
彼は面白そうなものを見つけ「これ借りるわ」と伝えたが、相手が許可する前にこれを持ち去っている。
「せっかくだから、これ使おうぜ」
「えっと……それ、セクハラですね」
「は?」
胸の辺りに取りつけるタイプの計測器に、さすがの彼女も庇いきれない。
「なら、自分でつけろよ!」
なぜか逆ギレし、ネロはその計測器を渡す。
実音は男ふたりに教室から出ていってもらい、それを身体にセットした。
そしてふたりを呼び、そのまま練習を再開した。
心拍数の最大値を測るために、ネロは実音に本気で楽器を吹かせた。曲はロシアのピョートル・チャイコフスキーの『バレエ音楽《白鳥の湖》より「情景」』。それをエンドレスでやらせる。
アプリでその変化を見てみると、彼女の心拍数は百九十まで上昇していた。
「演奏中、異常な負荷がかかってるってわかったろ?」
「……そうです……ね」
息を切らし、辛そうな実音。
オーボエは、二枚のリードの間の僅かな隙間に圧力を加えた息を入れないと音が鳴らない。その息のスピードは、ほかの管楽器を軽く上回る。
さらに、身体の中に空気が余るのもオーボエの特徴だ。入り口が狭いため、ほかの管楽器より必要な空気が少ないのだ。だから息を一旦吐いてから吸い直さないと、すぐに酸欠になる。ずっと息を止めたまま圧をかけて演奏をしているようなものだ。プロの奏者でも苦しくなる。当然、心拍数も上がる。
ネロはこの現象を視覚的に理解させることで、少しでも余計な力を抜くことを意識させようとした。
確認が終わると、装置を外すためふたりはまた教室から追い出された。ついでに、黒田はほかの教室への見回りに出かけた。
そろそろ練習の終了時間が近づき、黒田は最後の見回りをした。
そして、オーボエの教室を覗く。すると、ネロが実音を抱き締めているところだった。
「だから、何してんのー! もー!」
三回目の叫び声をあげ、黒田は教室に突入する。
「クロ、ちょ、助けて」
彼の乱入に気づき、ネロは必死に助けを求める。
「え?」
よく見れば、ネロの腕の中で実音がぐったりしていた。
楽器を片手で持ち、彼は腕をプルプルさせながら彼女を支えている。実音より少しだけ背は高くても、男性としては小柄な彼は見た目どおり力がない。
「やりすぎた」
「なっ! お前、何した!」
「ぶっ通しでやったから、たぶん酸欠」
「お前な!」
黒田は急いで実音を椅子に座らせた。
一時的に視界が揺れていたようだが、実音の意識はすぐにはっきりしてきた。
「すみません」
「いや、こっちこそ! おい、ネロ! 謝れ!」
「……悪い」
「あの……楽器は?」
「……無事」
「楽器より、自分の身体だから!」
相手の限界を見誤ったネロも、異変をすぐ言わない上に自身より楽器を優先する実音も、黒田はちゃんと説教した。
音楽バカの十代のふたりに、この先も黒田は大人として監督することを自分に誓った。




