13.走れ、ブンブン!
「……うっ」
実音はベッドでうなされていた。
『辞めていく奴のことなんて、もう忘れなよ』
『そんなこと気にする余裕なんてないだろ』
『何を優先するべきか、わかってるの?』
鋭い刃のような言葉が、彼女を襲ってくる。
どんどん小さくなる実音は、耳を抑えることしかできない。それでも言葉の槍は止まない。
「はぁっ……はぁっ……助け……て……」
呼吸が乱れつつも助けを求めると、どこからか波の音が聴こえてきた。
「っ!」
顔を上げると、そこにはキラキラと輝く海原があった。そして、遠くには手を差し伸べるふたりの人物が見える。
実音がそこに向かって駆けていこうとしたその時ーー。
(……夢かぁ)
目覚まし時計より早く目を覚ました実音は、深呼吸をしてからベッドを出た。
周りの心配をよそに、翌日の練習に紣谷は遅れずに来ていた。
昨日と同じように実音が細かい指摘をする中でも、今日は泣かずにクリアする。
「無理しなくていいから」
パートリーダーの井上が声をかけるが、それに紣谷は気丈に振る舞う。
その後の合奏では今回も基礎のみで、なかなか曲の練習に入らない。暫く単調な音出しが繰り返された。
「Bグループは豊かな音をイメージして出しましょう。ユーフォニアム、口を締まりすぎてますよ。Dグループは響きを出すためにもっと歌ってください。バランスが悪くなりますから、最後に高音が残らないように。逆にAグループは残してください。あと、音の切り方が汚いですね。次の小節の頭に『n』で終わるように、発音を意識してください。裏拍も感じるようにしましょう」
実音が入部してからイライラしている井上は、その練習に不満だった。既に我慢の限界は来ており、合奏中にもかかわらず、彼女は口を開いた。
「ねぇ、いつまでこんなことするの?」
「……」
合奏を邪魔された実音だが、何も言わず井上の言葉の続きを待つ。
「昨日から文はどうしたの? あれでも一応顧問でしょ? なのに合奏から追い出して。座席も勝手に変えるし。それに昨日、紣谷を泣かせたのになんなのその態度は。もし彼女が辞めたりしたらとか考えないの? できない人の気持ちもわからないで、よく平気だわ」
「……ほかに言いたいことはありますか?」
これだけ不満をぶち撒けても動じない様子に、井上は益々イラついてく。
「あんたねぇ!」
「ちょっと、落ち着いて!」
部長の本多が必死に宥めるも、かなり音楽室の雰囲気は最悪だった。
周りの部員たちは、どちらにつけばいいのかわからない。
「ねぇねぇ。急いで文先生、探してきて」
小声でそう指示するのは、パーカッションで副部長の入江だ。
自分が担当しているスネアドラムとバスドラムとティンパニ以外のパートの部員を、こっそり音楽室から出した。
「職員室かどっかにはいると思うけん、早く呼んできて!」
「はい」
指令を与えられたパーカッションの部員たちは、廊下を走って文の捜索に出た。
「文先生、いますか?」
パーカッションのメンバーは、職員室に入り顧問を探した。しかし、彼の姿はなかった。
「あれ?」
「いない?」
「どこ行ったの?」
キョロキョロと室内を見回していると、別の教師が話しかけてきた。
「文先生を探してるのか?」
「はい」
「彼なら、視聴覚室の鍵を持っていったよ」
「視聴覚室ですか?」
「ああ」
「なんでまた?」
「さぁ? そこまでは知らないな」
教えてくれた教師にお礼を言うと、彼女たちはすぐに視聴覚室へと向かった。
「ブンブン!」
「へ?」
彼女たちが視聴覚室のドアを開けると、そこには間抜けな顔をした顧問がいた。
「こんなところで何しとるの!」
「先生、大変! 井上先輩と雅楽川さんが!」
「すぐ来て!」
「え? え?」
練習中のはずの生徒が突然入ってきたため、文は状況がすぐに飲み込めない。
「先生、私たちが大変な時に遊んどったの!?」
教室に入った時に文がパソコンの前でイヤホンをしていたため、みんな怒った顔をする。
「ち、違うよ! これは雅楽川さんに言われて……」
「……?」
何をしていたのか気になった彼女たちは、急いでいたことを忘れてパソコンの画面を覗き込んだ。
「え、これ……」
「雅楽川さんが?」
目の前の光景に驚くそんな生徒たちに、文はオロオロしながら声をかける。
「そ、それよりも、井上と雅楽川さんがどうしたって?」
「あ、そうだよ先生!」
「早く音楽室に来てください!」
「大変なの!」
早口で先ほどあったことを話すと、文はさらにオロオロする。
「ど、どうしよう」
「だから、とりあえず来て!」
「う、うん」
そして、文とパーカッションの部員たちは大急ぎで部室へと走った。
「待って! それは誤解なんだ!」
バンっと扉を開けて入ってきた顧問に、しんと静まる音楽室。
「何やっとるの、ブンブン?」
「へ? あれ?」
文が見渡すと、聞いていた状況と違って険悪な雰囲気はなかった。
「け、喧嘩してるって言うから、慌てて来たんだけど……」
「あー、それは……」
恥ずかしそうに答えたのは井上本人だった。
「え? どういうこと?」
ブンブン捜索隊が走り回っている頃ーー。
「違うんです!」
実音に飛びかかりそうな井上に声を発したの紣谷だった。
「私、雅楽川さんの指導が嫌だったわけじゃなかです。本当は自分の下手さをわかっとったばってん、みんなそれを言ってくれませんでした。彼女は具体的にどこがダメって教えてくれて、嬉しかったんです」
「……ひーちゃん」
海は紣谷の肩に手を置く。
「ただ、的確すぎてびっくりしちゃったんだよね」
「……うん。泣き出したら、止まらなくなって。今までみんなに迷惑かけてたんだなとか、いろいろ思って……」
「あの後、わたしひーちゃんの所に行きましたよね? その後、実音も来たんです」
「え?」
「ひーちゃんに謝って、それから彼女の心の奥に溜めていたものを全部吐き出させたんです。わたしが気づいてあげられなかったことまで全て。だいぶ遅い時間になっても、ひーちゃんだけの特別なメニューを考えてくれて……。だから、決して人の心がわからない子じゃなかです! わたしが全国とか言うけん、実音はすごく考えて練習のメニューを作っとるんです!」
「……」
井上が実音を見ると、彼女は気まずそうに目を逸らした。
「あんなに基礎ばっかりなのも、座席を変更したのも、全部意味があるの?」
「……はい。学校によりますけど、B(シ♭)合わせだけで二時間使うなんて、よくある話です。逆に基礎をほとんどやらないところもありますが。これでも他校との合同練習や指導者向けの講習会に行ったりして、たくさん勉強してきました。今の大三東に必要なことと、できることを考慮したメニューを考えたつもりです。座席については、特に三年生の先輩方には申し訳ないと思っています。ですが、セカンドやサードの重要さがわかっているからこその配置なんです。それに、下級生にも早くからトップの責任を感じてもらいたくて。ひとりひとりの音を聴いた上での配置にしています」
「……」
「私が最初から全部言えばよかったんでしょうね。でも、そうやって不満をぶつけてくださるのをちょっと期待していました」
「どういうこと?」
「なんでも誰かの言いなりじゃ、バンドは良くなりません。自分がどうしたいのかを、ひとりひとりが考えられるようになってほしかったんです。それに、どうしても楽しいことばかりじゃないですから、辞めていく部員もいます。私はそれをたくさん見てきました。方南は『去るもの追わず』の精神でしたから、それが本当に辛かった。でも、井上先輩が紣谷さんのことを思ってこうやってぶつかってくださって、すごく嬉しかったです。……先輩、ありがとうございます」
「……っ!」
実音の素直な気持ちに照れる井上。
それを見て、みんなやっと安堵することができた。
すると、バタバタと複数人が走る音が聞こえてくる。
「そういうことだったのかぁ。あー、よかったー!」
数分前の出来事を聞いて、心から安心する文。
彼を連れてきた部員たちは唖然とする。それに対して、入江が口パクで「ごめんね」と謝った。
「先生は知っていたんですか?」
部長の質問に、文は大きく頷いた。
「もちろん! だって顧問だよ? 練習内容はちゃんと僕に相談してから決めてるし、練習後に全て報告してくれたよ。紣谷のこともね」
「で、その練習の間、先生は何を?」
「僕? 彼女に出された課題をやってたんだ」
「課題?」
「うん。指揮者のために必要な知識をまとめたものをもらってね。さっきは視聴覚室で、いろんな一流の指揮者の映像を観て勉強していたんだよ」
「そうだったんだ」
全ての誤解が解け、やっと部内に平和が訪れたのであった。




