1.ハマさん、理想を見つける
島原大学の代表である白浜春雪は、今日も爽やかな笑顔で高校生たちにマーチングを教えている。しかし、彼は今お手上げ状態で焦りを感じていた。
実音からは、パレードの練習の際に遅れを取っていた縫壱月と万屋善光のことを事前に聞いていた。それぞれどんな状態でどう克服したのかの報告を受けたが、そのふたりは現在、特におかしなところはなさそうだった。
問題は別にいる。
「こっち? わわわ! 違った!」
「音和ちゃん。君は細かい位置は気にしなくて大丈夫だから、とにかくバンドにぶつからないようにね!」
「はーい!」
まずは海だ。
この日は本番の動きではなく、コンテと呼ばれる図面を見ながら簡単な移動をする練習をしている。渡したプリントには方眼紙にドットが描かれており、どんな動きを何拍するのかも記されている。自分がどう動けば良いのかがこれを見ればわかるのだが、ドリル初心者の部員たちは初めて見る指示書に戸惑った。
本番のコンテはこれが何枚も必要になる。単純なわかりやすい練習用のコンテで慣れてもらうのが白浜の作戦だったのだが、それでさえ苦労している。見方を早く覚えてほしいのに、海は自分の居場所を見失ってしまう。
幸い、彼女はドラムメジャーだ。多少間違えても、観客は気にならないだろう。ただし、周りと接触だけは絶対に避けたい。メジャー候補はほかにもいたが、実音からの推薦もあり海に決まった。バンドのメンバーにしなくて正解だった。
「うーん。『FM』って何だっけ?」
「『FM』は前進だよ!」
「あ、そっかぁ」
海よりも深刻なのは泓塁希だ。彼は彼女同様コンテが読めない。
ふたりには、記号を覚えることが難しい。簡単な単語も、その意味を思い出すまで時間がかかってしまう。よって、いつまで経っても複雑な動きに移ることができない。
また、泓の場合は海のように別行動をさせるのも不可能だった。このままでは恐くて楽器を持たせられない。
(さて、どうしたものか……)
白浜が高校一年生の時、部活にテレビの密着取材が来た。
マーチングの強豪校の練習風景としてテレビ局から求められたのは、熱い青春だった。
当時のマーチングリーダーは、ある時のミーティングでこう言った。
「先生のためにも、OBの先輩方のためにも、応援してくださる全ての人たちのためにも、もっと頑張らなくちゃダメ! 何度言えばわかるの! もっと気合い入れないと!」
この発言は、世間的には「自分たちのためではなく、高校生が立派な想いを持って全国で戦っている」というように見えただろう。
だが、当時の白浜はその雰囲気が苦手だった。自分がやりたくてやっている部活で、顧問のために頑張る意味がわからなかった。
そもそも彼の高校のマーチングが強かったのは、優秀な外部コーチがいたからである。しかし、テレビの取材ではそのコーチは登場しなかった。あくまで顧問と生徒たちの、感動的な絆が欲しかっただけなのだ。
カメラが回っていない時の本当のスパルタは、お茶の間には流れなかった。ついていけない部員は辞めた。だがコンテを変えるわけにはいかず、まだ楽器をちゃんと吹けない部員が演奏せずに吹き真似でメンバーに加わったことを、世間は知らない。どれだけのお金がマーチングにかかるのか、コーチのレッスン代はどれくらいか。具体的な費用は、現役の部員も詳しくは知らない。
頑張る高校生の姿は素晴らしい。それは正しい。仲間にも熱心に向き合う部員は、テレビ的にも使いやすい。一方で、その影で苦しんでいる部員は大勢いる。
白浜は、もっと自分のために楽しい部活がしたかった。
そう思っていた彼も、時間が経てば部の考え方に次第に染まり、三年生になった頃にはすっかり苦手だった先輩と同じ発言をするようになっていた。本気で思っているわけではない。部をまとめるために、口から勝手に言葉が出てきてしまう。後輩からどんな風に思われているのか、恐くて訊けなかった。
大学に入ると、部活は彼が想像していたよりも緩かった。
優秀な学生が集まっているため、そこまで一生懸命にならずとも良い成績を維持できる。そのメンバーには白浜も入っており、彼はドラムメジャー時代の経験から、外向けの笑顔を貼りつけて日々を過ごすようになった。別に無理をしているわけではない。この方が浮かなかったからで、彼自身も楽だった。
やがて後輩のネロが指導するようになると、まるで高校の時のような、いやそれ以上の地獄の日々が始まった。何人も泣いて、それを慰める毎日。彼の技術面も、容赦なく暴君に指摘されて正された。
だが、あの時と何かが違う。これが正解かと問われれば首を捻ってしまうが、レベルは確実に上がっていた。そして、嫌な感じはしなかった。もちろん、ついてこられない部員はいた。ネロは放置するAチームの責任とし、できない者を見捨てることはしなかった。ひとりひとりのレベルを、いつも考えて教えている。
それを理解できてからは、白浜は代表として彼のサポートと、部員たちのケアに専念することを決めた。まだまだお互い手探り状態で、何が正しい部活かはわからない。できるなら、全員が楽しく上を目指せたらと思っている。
そして今ーー。
大三東高校の生徒たちを教えている立場として、白浜は迷っていた。
ここの部活の顧問は、全く当てにならない。気を抜けば緩い雰囲気に飲まれそうだ。誰かが気を引き締め続けなくてはならない。それが実音であることを、彼はすぐにわかった。
では、白浜自身はどう接するべきか?
優しい空気を出して教えてきたが、これでは本番に間に合わない。高校の時のような感じでやるべきなのではないかと、たくさん考えた。
一旦休憩時間を設け、部員たちを休ませる間も彼は悩み続けた。
「大丈夫ですか?」
「え?」
そんな彼に話しかけてきたのはプリンスだった。
白浜は、最初彼をドラムメジャーにしようとしていた。それだけ、信用できる存在だった。
白浜はすっかり真剣な顔になっていた表情筋を、いつもの外向けの笑顔に切り替えた。
「野田君、どうかした?」
「えっと、白浜さん疲れてそうだったんで。あれですよね。苦労しますよね。だって、ほぼ初心者だし、理解のスピードも遅いし」
確かに初心者が多いと、教える側は本当に大変だ。
この日の練習では、実音はカラーガードに専念中でこの場にいない。教えられるのは白浜とプリンスのみだ。
そのプリンスは、よく働いている。みんなのお手本として動きは完璧で、近くにいる部員が間違っていたりポイントからずれていると、優しく指摘した。おまけに、彼が教えると特に女子のやる気がアップする。
「まぁ、誰でも最初は大変だからね。僕も根気強く教えるしかないよ。心配してくれてありがとう」
「でも、泓先輩は? あの人を教えるの、大変どころじゃないですよね」
「……あはは」
今一番の悩みの種の名前に、白浜は笑うことしかできない。
「うーん。ボクも考えてはいるんですけどね。雅楽川先輩なら、こういう時どうするかな?」
一緒に悩んでくれるプリンスに、白浜の中の彼の株は上昇し続けている。
(顔もイケメンだけど、心までイケメンだなぁ)
「先輩、前の学校では『できない人は耳を引っ張られてた』って、言ってたんですよね」
「あー。それ、僕の母校もそんな感じだったよ」
「うわー」
「それはさすがにね。やらないから安心して」
「……でも、あの人ならそれくらいやっても大丈夫なんじゃ? いや、それより……」
プリンスは、ぶつぶつ言いながら考えている。
白浜は、あまり高校生の心にダメージを負わせるような練習はしたくなかった。トラウマを作ることは避けたい。現役時代の教え方は、きっと傷つけてしまうと思った。
「あの、ボクこの後の練習、泓先輩の場所に入っても大丈夫ですか?」
「え?」
「ボクに考えがあります」
「……わかった。いいよ」
突然プリンスから提案された白浜。
どういう意図なのかはわからないが、自分よりもあの問題児のことを知っているであろう彼に任せることにした。
休憩後の練習で、泓は体育館のステージ上で見学となった。代わりに泓の場所にはプリンスが立っている。
簡単な動きだったため、彼はさっきまでとは違う移動も軽々やってのける。
(てっきり、泓君を一緒に引っ張って動かすのかと思ったけど、違うのか。彼は見てるだけなんて、あれで平気かな? ひとりだけ見学で、嫌な想いをしてないだろうか?)
白浜は心配するが、その泓はニコニコとプリンスの様子を眺めているだけだった。自分が遅れを取っていることを、微塵も気にしているようには見えない。
練習用のコンテを一通り終えると、プリンスはステージにいる泓へ声をかけた。
「泓先輩、覚えましたか?」
「オッケー!」
(え?)
たった一回やっただけで覚えられるわけがない。
白浜はそう思い不安になる。コンテの紙を何回も見ても理解できない彼のために、シュミレーターで動きを見せたりもした。泓はそれでもできなかった。
ステージから元の位置に立った彼は、張り切っている。
「えっと、それじゃあ、もう一回やるよ」
半信半疑でカウントを取る白浜。
すると、泓は誰とも接触することなくスムーズに移動した。
(マジか!?)
驚いている彼に、プリンスが駆け寄ってくる。
「上手くいきましたね! 泓先輩、人の真似が得意だから」
そう言われて、実音から聞いていた彼の情報を思い出した。
「海は自由に動かせる位置で伸び伸びさせた方がいいと思うんです。身体柔らかいし。きっと、お客さんも喜びますよ。だから、ドラムメジャーに推します。それと泓君ですけど、彼も苦労すると思います。私も未だに彼に対しては理解できないことが多いです。だけど、観察力はあるみたいなんですよ。それを活かせばもしかしたら……」
(この子たち、お互いをよく見てるなぁ。俺はまだまだだ。指導者としては未熟だった)
誰も見捨てず、試行錯誤しながら一緒に乗り越えていく。そんな大三東の部員たちに、白浜は「良い部活」のお手本を見た気がした。レベルはとても高いとは言えないが、ここは彼が求める理想に一番近いかもしれないと思わざるをえなかった。




