14.バトン少女
メトロノームがカチカチと音を鳴らす教室で、海はひたすら右腕を上下に振る。道具係の万屋善光お手製の指揮杖を持つ手は、開いたり閉じたりを繰り返している。
左手は腰に当て、かれこれ三十分は同じ動きをしているだろうか。体力オバケの彼女でも、そろそろ腕の感覚がなくなってきた。
「音和ちゃん、腕の位置が下がってきたね。もっと上にしないと見えないよ。あと百回プラスね」
「うー。はい!」
島原大学の代表でもある白浜春雪は、ずっと笑顔でスパルタ発言をしてくる。
彼も向かい合って予備の指揮杖で同様の動きをしているため、文句は言えない。
海がマーチングのドラムメジャーに決まってから、白浜による鬼のような特別レッスンが始まった。
座奏の指揮の振り方とは全く違う動きで、バンドへの指示の出し方を覚えなければならない。おまけに、ドラムメジャーは正確な指揮だけでなく、演技中の笑顔や指揮杖のトスもある。あくまでパフォーマーのひとりなのだ。
「本番は僕も出ること決まったし、テンポキープはそこまで心配しないで。君を選んだのは、指揮の上手さとかじゃないしね」
白浜は顧問の文と共に、本番の演奏中は後方でサブドラムメジャーをすることになった。
ドリル演奏では、後ろを向いて演奏をする場面が出てくる。そうなると、正面のドラムメジャーが見えない。そこで必要になるのが、このサブドラムメジャーだ。
よって、文も白浜による特別レッスンを受講している。今は疲れ果てて休憩中だ。両手を大きく動かすやり方に、肩が悲鳴をあげた。
「お疲れー」
白浜がメトロノームを止め、やっとエンドレス上下運動が終わった。
「息抜きに、アクロバットやってみる?」
全く息抜きの動きではない提案にもかかわらず、海の顔がパッと明るくなる。
腕だけよりも全体を動かす方が、彼女には向いているのだ。
「雅楽川ちゃんから聞いたけど、身体柔らかいんだって?」
「はい!」
海は右足を頭の上まで持ってきて、それを片手だけで支えた。見事なI字バランスだ。それを、反対の足でもやってみせる。
「すごいね。側転とかバク転も可能なの?」
「余裕です!」
教室内の机や椅子を退かすと、海はその場でクルクルと側転をしたり、綺麗なバク転を披露した。
「おー! これはいいね! その身体能力を活かした構成を考えないとだね」
ドラムメジャーには、このようなアクロバティックな動きが絶対必要というわけではない。
しかし、あった方が観客が喜ぶのは間違いない。これが、海がドラムメジャーに選ばれた理由のひとつだ。
海は指揮杖も簡単に操っている。チアを習っていた時に、ポンポンでの動きに飽きてバトンで勝手に遊んでいたことが、今かなり役立っているようだ。
ただし、教室でのトスは危険すぎるためここでは行えない。家に持ち帰って練習はしているが、やはり限度がある。
「家でもバトン投げて、窓割ったことあるんですよね。畑で練習しよっかな? 鳥も逃げそうだし」
「それ、怪しくて通報されないかなぁ」
休憩中の文の独り言は、どうやら海には聞こえなかったようだ。
ここでできる技として、指揮杖を回しながらの片手側転の練習をした。側宙もできそうである。
海の体型でここまでできるのは、白浜も予想外だった。自分がやっていたドラムメジャーの動きより、アグレッシブな演出を考えられそうだと思った。
「曲がそんなに明るいものじゃないから、音和ちゃんの良さを活かすのは難しそうだなぁ。でも、期待してて。最高のやつ作るから」
「よろしくです!」
帰宅後、海は自分の家の管理する畑の空いているスペースで、バトントワリングの特訓をした。
外は既に暗くなっている。僅かな街頭の明かりと、持参した安物のライトで周囲を照らす。
高く投げたバトンは、暗闇の中に一度消える。落ちてくるであろう時間まで自身はイリュージョンという技をし、上を見上げる。このイリュージョンは、片方の足は地面につけたまま、もう一方の足を側転のように振り上げて回転をするというものだ。予想地点から三歩後ろに落下するのが見え、海は急いで修正した。なんとかキャッチしたものの、これではかっこ悪い。
「投げすぎかな? よーし、もう一回!」
海が立っているのは、舗装されていない土の上だ。デコボコした地面に、悪戦苦闘する。怪我をしないようにだけ気をつけて、何度も何度も投げて回ってキャッチし続けた。
「おーい! なんばしよっとね?」
暗闇からバケツを持って、幼馴染の大護が現れた。彼は海の家に向かう途中であった。
「大護こそ。わたしは練習中よ」
「吹奏楽部の? それのどこが?」
「マーチングで、わたしドラムメジャーやるの!」
「は? 何それ?」
「実音が商店街のパレードでやっとったでしょ。あれよ」
「お前が? できんの?」
「だから今練習中!」
「で、大護は? あ、いを(魚)?」
「そ」
バケツには、メイタガレイが数匹入っていた。こんな風に、大護はよく漁で獲れた魚のお裾分けに来る。持ってくる魚は、傷がついてしまったものの味に問題はない。もちろん、海の家も野菜を持っていっている。ふたりが生まれる前から互いの家がやってきたことだ。
「立派やね。大根と煮てもらおっと! 持ってく?」
海は近くに植えてある大根を指差した。
「いや、大丈夫。まだ、家にあるけん」
「そう? ……ねぇ、大護。修学旅行で何かあった?」
「はぁ!?」
唐突に話題が変わり、大護は意図せず大きな声を出してしまった。
「なんだよ、急に」
「実音関係?」
「……」
実際そうなのだが、それだけではない。しかし、七種結乃花からの告白は、いくら海でも言えなかった。
それと、実音と東柊のことはもっと言えない。海の気持ちを知っているからこそ、幼馴染として口を割るわけにはいかなかった。
「……実音と……その……間接キス……した」
「はい?」
彼が言えるのはこれだけだった。
二日目の夜のことを簡単に話す大護。それに海は「そんなこと?」という呆れた顔をした。
「それだけ?」
「『それだけ?』って、お前、超重要だろうが! もしかしたら、俺に気があるからかもしれんだろ!」
実音が吹奏楽部の部員でなかったら、海も一緒に喜んであげただろう。だが、管楽器奏者にとって、間接キスは日常茶飯事だ。楽器にもよるが、木管楽器は基本全員経験済みだ。
海も、買ってきたリードが合わなかった時はパートのメンバーに渡す。別の部員が口をつけたリードを、自分が吹かせてもらうこともある。
金管楽器はマウスピースを洗うことができるが、木管楽器は難しい。フルートも別の人に吹かせる場合は、軽くタオルで拭いてから渡すしかできない。
そして、海は実音の行動を振り返った。
彼女はネロが咥えたリードをそのまま咥えており、逆のパターンも多く見た。水で洗うこともできるが、湿り具合が変わるため何もせずに交換していた。リードの調整をするには、仕方のないことだ。
同じリード楽器でも、目撃した海は「ダブルリードはえげつないなぁ」と思った。養父灯大の楽器屋で試奏してリードを選んでいる実音は、知らない人が咥えたものも平気で口に入れている。シングルリードには買う前のリード選びのための試奏はなく、実音から初めて聞いた時は海も驚いた。
(これ、言っても大丈夫かな? ショック受けちゃう?)
なるべく傷つけないように、海は言葉を選ぶことにした。
「吹奏楽部の子は、いちいち間接キスとか気にせんよ。もんじゃのお店でも見たでしょ?」
「それは同性だからだろ?」
(だから、異性ともえげつないのしてんの!)
ネロとのことを伏せておいた方が良いか、彼女は考えた。結果、棒読みで「じゃ、そういうことにしたらよか」とだけ言っておいた。
「そうだよな!」
「あはははは」
全く笑っていないが、声だけ明るく発してあげる海。暗くて助かった。
「そんなことより、東君がね」
「東!?」
聞きたくなかった人物の名前に、大護の顔色が悪くなる。
容姿でも勉強でも、大護は自分が東に敵うとは思えない。
「あのね、動物好きなんだって!」
「……は?」
海は、実音から教えてもらった東のペットの話をした。
あの時見た光景の真相を知り、大護は心の底からホッとすることができた。
(告白じゃなかったのか! よかったー!)
「それでね、動物見るならどこ誘おうかなって」
「どこでもよかよ。生き物なんて、そこら中おるやろ」
「えー。ちゃんと考えてよ!」
「どうして俺が? 自分で考えろよ」
「そんなこと言ってよかかね? 旅行中に撮った実音の寝顔、スマホに入っとるんだけどなぁ」
「なんだと!? 見せろ!」
「考えてくれる?」
「考える! マジで考える!」
「なら、ダブルデートしよ!」
「おし! のった!」
彼女は、幼馴染が単純な男でよかったと思った。




