初恋の相手を王妃に迎えたのに「あなたを愛することはありませんわ」と初夜に言われた
「あなたを愛することはありませんわ」
「……それは、なぜか、問うてもよいか?」
「陛下の御心には、わたくしの知らぬ乙女がすでに在ることは存じております。
吟遊詩人も歌っていましたもの」
そう言って、今日婚姻したばかりの元隣国の王女であり、現在この国の王妃であり俺の妻であるショスタークは、氷の女王と讃えられた美貌を最大限に活用した冷たい微笑みを浮かべた。
いや、ちょっと待て。
なんで俺が浮気男みたいな扱いされてるんだよ。
しかも初恋のショスターク本人に!
俺は王としての威厳を保った顔のまま、心の中では盛大に崩れ落ちた。
………なんでこうなった!
***
隣国ラヴァルとは長い間、敵対関係だった。
しかし時代は変わった。
鉱山が多く、資源は多いが交易ルートが限られている我が国と、海と大河に囲まれ、資源は少ないが貿易と加工産業が発達したラヴァルは、経済の面から相互協力が必須の関係となった。
その上、渡り鳥も越せない大きな山脈の向こうにあるフマニノフ帝国が自国の鉱山資源を活用して、軍事国家になりつつあった。
我が国だけではフマニノフ帝国に対抗することは難しい。
そこで同じ広さの国土を持つ隣国ラヴァルと手を結ぶことにした。
その結果が俺とショスタークの婚姻だった。
「……まぁ、一応はそういう建前になってますよね」
「一応はな」
「まさか王妃様は、このむっつり陛下に5年計画で狙われていたなんて、知らないでしょうからね」
「計画性があることは、国王として褒められる点だと思うが?」
「12歳から身代わりを作って、あちこち放浪していたのは?」
「うむ。身代わりにしていた奴が内務大臣にまで育ってくれて、俺は嬉しい」
「俺?」
「余は嬉しく思う」
「王様がんばれー」
「うるせぇ」
まだ慣れない国王の執務室で、腹心の臣下であり、幼い頃から気の置けない友であるヴァザーリが呆れた顔で、行儀悪く机に腰掛けたままの俺を立ったまま見下ろしている。
おい、国王を見下ろすな。
「あー、もう、職務放棄したい」
「王妃様に軽蔑されますよ」
「……ショスタークは何してる?」
「さっそく農業治水の学者たちと協議してますよ」
「治水工事のエキスパートだからなぁ、ショスタークは」
「銀色の髪に青い瞳が冷たい印象を与えますけど、学者たちと侃侃諤諤と議論しているのを見ると、熱い心のある方だとすぐにわかりましたよ」
「そうだろ?ショスタークは誰よりも民の生活を思い、情の深い女性なんだ」
「それなのにフラれたんですね?」
「……吟遊詩人ってなんだ」
俺は机から崩れ落ちて、頭を抱えた。
***
初めてショスタークを見たのは、まだ王太子になる前の17歳の初夏だった。
その頃の俺は、時々起こる数週間の体調不良を理由に、部屋へ引きこもる生活を繰り返していた。
表向きは。
実際はヴァザーリが身代わりになって部屋にこもっていたのだが。
たびたび毒を盛られたり、闇討ちにあったりと12歳の頃から刺激的な日々を送っていた俺。
そのたびになんやかんやと病気や怪我を偽装して、身代わりのヴァザーリを部屋に押し込めては外に出ていた。
半分以上は自作自演だったので、なんのことはない。
それでも半分以下は俺を狙う奴らの仕業で、毒やら暗殺者がこんにちはのパターンだったので、根こそぎ滅してやるために色々と動いた。
まぁ、その辺は想像に任せることにしようか。
ざっくりというと、隣国ラヴァルの一部貴族と商人が我が国のアンチ俺派と絡んでいたのだが。
そんなわけで、当時17歳の俺は隣国ラヴァルの貴族たちとの接触を試みていた。
我が国とラヴァルは、大きな河を挟んでいるだけで、王都間の距離はそれほど離れてもいなかったからできた芸当ではあったのだが。
情報を仕入れては、人の出入りの多い宴を狙い、味方になりそうな貴族の取り込みと、敵対する貴族の姿形の確認を進めていた。
そんな情報収集を始めたばかりの状況下で、15歳のショスタークに会った。
彼女はいつでも一段高い場所で、宴に参加する貴族たちを見下ろしていた。
高圧的な印象を与えるきつくまとめ上げた銀色の髪に、濃い青の瞳が厳しく周囲を威圧していた。
わずかな所作でさえも、王女としての威厳に満ち溢れ、誰もが遠巻きにしていた。
そんな彼女が、初夏の風にあたるために庭園の見える露台へと移動するのを見た時。
なぜか俺は引き寄せられるようにして、後を追ってしまった。
顔を合わせてしまえば、のちのち王族同士の関わりがあった時に面倒になるのに。
その時は、そんなことすらどうでも良かった。
夜の闇の中、ぽつぽつとある灯りをさけて、ショスタークは歩き続けた。
そして、露台の端に着くと。
ゆっくりとしゃがみこみ、小さな声をあげて、泣き始めた。
それは、誇り高い彼女が悔しさを吐き出すための嗚咽だと、俺はすぐに分かった。
自分の悲劇に酔いしれて、悲しみに浸るために泣く貴族の女性たちは、何度も見てきた。
その泣き声とは、まったく違う、戦い続けている女性の泣き声だった。
おそらく、その声に俺は心臓を撃ち抜かれたのだ。
太陽の神がいない夜の闇で見つけた恋は、その身を滅ぼすと昔から言われていたけれど、俺はショスタークになら滅ぼされてもいいと思えた。
俺は急いで髪をほどき、顔を隠せるようにゆるく結びなおした。
ショスタークの銀色の髪と比べて、この大陸全体では珍しくもない焦茶色の髪だ。色を覚えられても隣国の王子とは思うまい。
現に珍しくもない髪と瞳だからこそ、隣国ラヴァルに忍んで来られるのだ。
首元に巻いていた絹布の飾りをはずし、押し殺した泣き声を漏らすショスタークにそっと差し出した。
「夜の帷にすら隠せなかった声を聞いてしまったわたくしをお許しください。
あなたの涙を止めることはできませんが、せめてその涙が水晶となって落ちてしまう前に、拭わせていただける許しを与えて下さいませんか?」
俯いていたショスタークが驚いたように顔を上げる。
微かな洋燈の灯りが、青い瞳に星のような光を与えていた。
切れ長な目が、たまらなく愛おしく見えたのは、その目に満ちる涙のせいだろうか。
再び俺の心臓が撃ち抜かれる。
「……涙を止めるとは、おっしゃいませんのね」
「ええ、あなたの誇り高い心から生まれ出る涙は、美しいですから。
その美しさを否定することはできません」
「……かわったことをおっしゃるのね」
「周りと同じことを口にしても、あなたは忘れてしまうでしょうから。
このひとときをわたくしは忘れません。
そして、あなたにも忘れて欲しくないのです」
「……顔も見せないのに?」
ちょうどよく洋燈の逆光になるように計算した上で声をかけているから、ショスタークから俺の顔は見えない。
それでいい。
「一夜の夢でも、忘れられない夢になれば、それで本望です」
「……場所を変えてお話しすることは?」
「あなたの立場上、よろしくない噂になるかと。
ここは宴の果ての場。
梢の囁きが隠してくれます」
「あなたは、見たことのない人に思えるのだけれど」
「河の流れがわたしたちを阻むのです」
「隣の国の方なのね」
「少しだけ、雨に誘われて新緑あふれる庭園に迷い込んだ妖精とお思いください」
「……それなら、妖精さん、わたくしが何故泣いているかわかる?」
「いいえ。けれど、あなたの瞳に写るのは、この場にいる紳士淑女ではありませんね」
すると、くすりとショスタークは小さく笑った。
「そうね。
この場にはいないわ。
わたくしはこの場を用意できるだけの恵みを与えてくれた民のことを思っているわ」
「民のことを?
それが何故あなたの涙を溢れさせるのですか?」
俺が素直に問うた時、ショスタークの青い瞳から、水晶のような涙がこぼれた。
俺は絹布を彼女の頬にあてた。
じわりと滑らかな絹が色を変える。
「……農地に接する川の氾濫で、流れ込んだ土が肥えるから、民が亡くなってしまってもいいと、どうして声高に話せるのでしょうか」
「……昨年の秋の洪水のことですか」
「ええ。今年の収穫量はかなり見込めると。
その前に家屋を流された者や、家族を亡くした者のことを考えるべきではありませんか?」
俺は三度、心臓を撃ち抜かれた。
自らの保身のために王宮を抜け出して、隣国まで来ている俺は、我が国の民のことをショスタークほど考えているだろうか?
鉱山から掘り起こすだけの我が国に、農業での国外からの収益は常にゼロに等しい。
むしろ輸入が上回ることもある。
そんな時に民に食糧は行き渡っているだろうか。
答えは否だ。
土を耕す民ほど、口にする作物が足りない。
ラヴァルは下流域だから農業が盛んでいいものだなと、ぼんやりと思っていた今までの俺をぶん殴ってやりたいとその時痛感した。
下流域であれば川の恵みで作物が育つからいいなと。
安易に俺も思っていた。
しかし、ショスタークは15歳ながらその恵みの影で消えていく民の命を考えていた。
「まだ家のないままなのでしょうか?」
「……わたくしの代わりに見たものが言うには、洪水のあったところにまた住んでいるそうですわ。
移り住むところがないのか、まだわからないのだけれど……」
「それならば、大雨の時だけ逃げる場所があればよいのではないでしょうか?」
「どこに?あの場所は平らで、水がくれば流されてしまう」
「それでも土地を失くすことを恐れて民は離れることはありません。どこか一ヶ所でも高い所を作れないでしょうか」
「……無理ですわ。堤防を直すために足りないくらいで……」
「そうですか……」
俺の浅知恵など、すでに出尽くした知恵のひとつにすぎない。
大河を渡る時だけに水の脅威を感じるだけの俺に、妙案などなかった。
「申し訳ありません。大河の船のように、安心をあなたに与えたかったのですが……」
するとショスタークは長いまつ毛に縁取られた大きな青い目をさらに大きく広げて、俺を見ていた。
美しいと思った。
無言のまま、彼女と見つめ合う。
その間、青い瞳に吸い込まれそうになったが、彼女の頭の中では高速で目の前の俺以外のことを考えているのが読み取れてしまった。
ショスタークは、ひとつ瞬きをした。
「……船。それはいいかもしれませんわ」
「……どういったことでしょうか」
「大雨の時には船に避難してもらうのです。
堤防をこえて船の移動はできませんが、人と荷物ならば動けますわ。
もしくは船のように水に浮く場所を作る……」
「ほう……」
「もちろん、大雨にも耐えられる川の流れを考えることが必要ですわ。けれど、今からでは大雨の時期に間に合うことはありませんもの。数年の間だけでも凌げる策がなければなりません。
船、いいですわね。早速博士たちに相談してみますわ」
さきほどまで追い詰められたように肩を縮こませていたショスタークは、雨上がりの花のように、涙を拭い去って華麗に微笑んでいた。
何度目かの心臓を撃ち抜かれる。
俺の心臓はもうショスタークのものになってしまったと、分かってしまった。
「あなたのお役に立てて、嬉しく思います」
「妖精さん、またお会いできるかしら?」
「ええ、宴の果ての場であれば」
お互いにいたずらをする子どものように笑い合う。
露台の遠くから、まっすぐとこちらに向かう女の足音が聞こえた。
「それでは」
「ごきげんよう」
俺は露台から庭園への階段を駆け下り、そのままラヴァルから帰国した。
大河を渡る船の中、頭の中はショスタークでいっぱいだった。
ショスタークに出会った後、俺は身代わりで部屋にこもっているヴァザーリに思いつくだけの書物を積み上げて頼んだ。
「頼むヴァザーリ。我が国の穀物の収穫量とその年ごとの天候をまとめてくれ」
「……急にどうしたんですか」
机の上に積み上げられた書物で顔も見えないが、嫌そうに顔を顰めているヴァザーリの気配がはっきり分かった。
俺は隣国ラヴァルでショスタークと話したことを伝えた。
「俺は自分の身を守るだけのことしか考えてなかった」
「いいんじゃないですか、それも大事なことですよ」
投げやりに返事をするヴァザーリ。
「いいや。いつか王太子として敵を全て屠った後、何をすべきかを考えていない。
そんな奴が国王になってはいかん。……それにショスタークが嫁に来てはくれんだろう」
「後半がかなりの本音だということはあえて触れませんが」
「触れてるじゃないか!」
「でもいい女性に巡り会えましたね。将来的にこんな考え足らずのまま即位されても、後ろから刺す役目は負いたくありません」
「……敵がここにもいたのか」
「いいえ、味方ですよ」
立ち上がって、にっこりと笑うヴァザーリ。
「……ただ、今までとこれからの私の苦労を水泡に帰すことがあれば、敵になるかもしれませんが」
「無駄にはしない。絶対に」
心からそう思い、真剣に答えると、ヴァザーリは顔をゆるませ、
「そういうところ、天賦だと思いますよ。人を転がすのがうまい」
苦笑するように笑った。
それから俺は国内外の情報を仕入れながら、隣国へも何度かお忍びで行った。
運良くショスタークに会える時は、顔も瞳も見えないように暗闇に身を置くようにした。
その度にショスタークの民に関する憂いごとの話を聞き、少しでも彼女を元気にさせるべく必死に答えた。
「妖精さん、あなたがいてくれて、よかった」
そのひと言と笑みを得るために。
それから5年。
その間にできるだけのこと以上のことをひたすら行なった。
まずは俺を亡き者にしようとしていた奴らの殲滅。
国外追放に落とし所を求められたが、それでは隣国ラヴァルで再び力をつけるだけと分かっていた。
それにまだその頃なら、幼い弟王子が奴らにつけ込まれていなかったから。あいつらには再起などさせない。そう決めていた。
それから隣国ラヴァルでの農業治水に関連した資材の輸出に力を入れた。
今までは鉱山から出たものを別の国へ輸出し、それがラヴァルへと入っていたが、文献を紐解き、調査を繰り返したことで燃料になる石を掘り当てることができた。
その燃料になる石を使うことで、鉱山から出たものの精製を行い、直接ラヴァルへ輸出することができるようになった。
その一方で、春から秋にかけて、フマニノフ帝国へ何度も使いを送り、民間の共同鉱山経営会社を秘密裏に発足させるのに成功した。
「これでフマニノフ帝国とも和議を結んだようなもの…!」
「王太子、やめてください。顔が悪役になってますよ」
「おっと、失礼。で、ヴァザーリ、隣国ラヴァルからの返事は?」
互いに20歳を越え、王宮での地位は揺るぎないものになっていたが、気を抜くことはできない日々が続いていた。
そんな中で、人払いをした執務室では、かつてのように気安い態度を出してくれるヴァザーリの存在は、ありがたい。
「まぁ、反対もできませんよね。我が国の鉱山から出るもので、ラヴァルの生活は成り立っていますから」
「……お前、他に言いようはないのか?」
「おめでとうございます。粘着質と絡め手の合わせ技はすごいですね。
無事、ショスターク王女との婚姻が受け入れてもらえましたよ」
「だから、言い方ぁ!!」
思わず執務机を叩く。
それに怯む様子もなく、ヴァザーリはニヤニヤと笑う。
「隣国ラヴァルに危機感を与えるために、フマニノフ帝国が軍事国家になりそうだなんて、嘘までついて。
まだせいぜい農作業に必要な工具しか作れていないじゃないですか。
それも我が国の燃える石があってこそ。さもなければ、フマニノフ帝国の広大な森林すべてを切り倒して使わないといけないんじゃないですかね」
「お前も芝居小屋の悪役みたいな顔になってるぞ」
「あいにく誰かの身代わり生活が長くて。芝居小屋になど行ったことはないので、分かりかねますね」
「ショスタークも見たことがないだろうな。即位前に連れて行くか。
その時はヴァザーリ、お前も付き添いだ」
「……素直にお礼くらい言えばいいのに。耳、赤いですよ」
「うるさい!」
すべては順調だった。
王太子になってから、隣国ラヴァルへと忍んでいけなくなったこと以外は。
今度こそ、明るい光の下で、ショスタークと会うことができる。
そして、自分の妻として、死ぬまでそばに置くことができる。
それだけが望みで、それだけが全てだった。
しかし、好事魔多しとは、よく言ったものだった。
国王である父が、急逝した。
会うことは少なくとも、父である国王が子として慈しんでくれていたことを俺自身、深く理解していた。
隣国ラヴァルでの隠密活動も、国王である父の見て見ぬふりと、密やかな便宜がなければ叶うことではなかった。
幼い弟王子と俺を守るため、陰日向なく手を尽くしてくれた。
「……せめて、嫁になるショスタークの晴れ姿を見せたかったな」
「そこは自分の姿も含めましょうよ」
「……ヴァザーリ、まだいたのか」
国王の棺が安置された聖堂を窓から眺めていると、扉の開く音がして、ヴァザーリが入ってきていた。
「こちら、ショスターク様からお手紙です」
「……婚約式は取り止めになったが、まさか離婚…?!」
「まだ結婚してないでしょう。落ち着いて読んでください」
呆れた顔で手紙を渡された。
俺はびくびくしながら、手紙を開いた。
中には。
今回の訃報を心から悼むこと。
婚約式は中止になったので、その旨は書状で済ませること。
そして。
「……え、喪が明けたら、結婚式…?!」
「よかったですねー。嫁さん来るってー」
「なんだその棒読みは?!」
「だって、下準備でさんざん動いてましたから」
「え、そうなのか?」
「はい。結婚式のための準備は時間がかかりますから、以前から動いてました。ご存知ですよね?臣下の働き」
「う、うむ、まあ、知ってる」
「それに加えて国王即位式が発生しました。経費は抑えたい。ならば一緒にやってしまえと。
まぁ、隣国ラヴァルには綺麗な言葉を並べてお願いしましたけどね。でもあちらにも分かるんじゃないですか?お金かかりますよねーってことくらい」
「……確かに」
「それに王妃のいない国王って、ちょっと頼りなさそうだし。
いいんじゃないですか?初恋の君に支えてもらえる国王生活」
「なんだそのキャッチフレーズは」
思わず笑ってしまったが、父が亡くなってから笑っていなかったことに、顔の筋肉を動かしてから、急に気がついた。
ああ、ヴァザーリをはじめとして、たくさんの近臣に心配をかけていたのだな。
俺は聖堂を一度見つめてから、室内にいるヴァザーリに視線を移し、
「ありがとうな」
柔らかく微笑みを浮かべることができた。
ヴァザーリは笑みを返した後、頭を下げた。
そして、喪が明けて、無事に即位と婚姻を執り行い、晴れて夫婦となった初めての夜。
式の間はずっと白い薄絹に覆われていたショスタークの顔を見ることができた。
室内用の洋燈の光に照らされたショスタークの濡れた蜘蛛の糸より光り輝く銀色の髪は、この世のものとは思えないほど美しかった。
そして、真っ直ぐに俺を見つめる青い瞳。
高い山にあるといわれる湖の色よりも、深い青。
ああ、ようやく俺の姿が映っている瞳を見ることができる。
逸る心臓の音が漏れ出てしまわないように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……今日からそなたは余の妻だ。これからそなたを……あ、愛することを誓おう」
「……これから」
ラヴァルに忍んでいって会ってはいたが、身分は明かしたことがなかった。
知らない男の妻になったショスタークを最大限に慈しみ、愛する誠意があることを伝えなければ。
だが、所詮は初恋のショスターク以外の女を知らない俺。
うまい口説き文句も知らない。
ヴァザーリに必死に頼み込んで、一緒に考えてもらった。
もちろん、そのままのことを口から出すのも勇気が半端なく必要なのだが!
俺は自分の口から出せる限界の言葉を、なんとか言うことができた。
さあ!これから初夜だ!
手を繋ぐ、抱きしめる、そこまでは進んでもいいだろうかショスターク!!
心の中では盛大に焦りながら。
しかし、表面上は悠然と構えた微笑みを浮かべながら、俺はショスタークに一歩近づいた。
すると。
「あなたを愛することはありませんわ」
ショスタークが綺麗に微笑みを浮かべながら、とんでもないことを言った。
え、え、え?
ちょっと待ってくれ。
ショスターク、ちょっと待ってくれ。
「……それは、なぜか、問うてもよいか?」
どうしてですか?!なんでですか?!俺以外に結婚の申し込みがないように、ラヴァルの味方してくれている貴族にすげー頼んだんだけど??
好きな男いたのか?!ショスターク!
「陛下の御心には、わたくしの知らぬ乙女がすでに在ることは存じております。
吟遊詩人も歌っていましたもの」
にっこりと笑うショスタークの目が笑っていない。
早鐘を打つ心臓で温められていたはずの体が、すうっと冷えた。
そんな力がショスタークの笑みにはあった。
「いずれは世継ぎをなすことをお約束いたします。
けれど、しばらくは離れて眠らせてくださいませ」
そう言うと、ショスタークはさっさと寝台に潜り、どこから出したのか槍を寝台の真ん中に置いた。
……一応、国王夫婦の寝室なんだけど、誰だよ、武器の持ち込みを許したの。
「それではおやすみなさいませ。
絶対にこっちに来ないでください」
洋燈の光でも分かるくらいに、にっこりと笑ったショスタークは、そのまま俺に背を向けて眠り始めた。
いまさらだが、叫んでいいだろうか。
吟遊詩人ってなんだよ!!
***
「……ほほう、それでお預けをくらったと」
「もうやだ、国王やめたい」
ぐすぐすと執務室の応接椅子に顔をうずめる。
「吟遊詩人ってなんだよ」
「ああ、そういえば、陛下が隣国ラヴァルへお忍びで行かなくなってから、宴の席に吟遊詩人を呼ぶことが流行してるそうですよ」
「なんでその吟遊詩人が俺のことを歌っているんだよ」
「それは私が吟遊詩人に直接陛下の初恋の話を語ったからですね」
「……へぇー、そーなんだー。
……あぁん?」
勢いよく顔を上げて、ヴァザーリの方を向く。
すると、ヴァザーリは笑いを堪えきれないように片手で口を押さえていた。
目がものすごく笑っているが。
「おい、ちょっと待て。
まさかここで一番信頼していた家臣に裏切られるとか、考えもしなかったんだが」
「いえ、私もまさかこんな結果になるとは……ぶふっ」
「ヴァザーリ、貴様、何をした!吐けぇ!」
「い、いえ、ただ陛下が初恋に浮かれて、会うたびにショスターク様のお話ばかりされていて、少々飽き……いえ、洗脳されてしまい。
病に伏せる陛下の見舞いと称して送られてきた吟遊詩人の歌声が素晴らしかったもので。
即興で歌うと言われ、ショスターク様を当て書きにした恋の歌を頼んだのです。
その時の注文がしつこ……いえ、粘着質に満ちた観察表現だったため、陛下の恋の詩ができたのではないでしょうか」
「お前、言い方変えたらさらに言葉がキツくなってるんだが」
「いえ、そんなことは……陛下から聞かされた惚気に比べれば優しいものですよ。ぶふっ」
「いい加減に笑いを抑えろ。
……あー、じゃあ、なんだよ、ショスタークは俺が他の女が好きだったことがあると思ってるのか」
「それはないでしょう」
応接椅子に崩れ落ちていく俺に、こともなげにヴァザーリが答える。
「なんで断言できる」
イラっとして、立ったままのヴァザーリを見上げると、真面目な顔で答えられた。
「陛下はお気づきではないのですか?
暗闇で逢瀬を重ねる相手ほど、その声やわずかな言い回しを覚えてしまうことに。
ショスターク様相手なら、絶対顔が見えなくても間違えませんよね?」
「……その自信はあるが」
「さらに女性の方がそのあたりの観察力は高いです。
さて、問題です。
ショスターク様は、王女でありながら、何度も見知らぬ男と逢瀬を重ねた。その相手を間違えると思いますか?」
「……いや、間違えないと、思う」
「それなら、なぜ、陛下は言わないのですか?『妖精さん』は自分であると」
「それは」
「口説き文句の相談をしてきた時から素直に言えばいいと繰り返し」
「それは、俺の素直な気持ちを言えばいいと言っているものだと……そうか。
そうだな。間違えるわけがない。あの聡明なショスタークが、俺と他の男を」
呆然としたまま、両手で顔を覆う。
昨夜、ショスタークはなんと言った?
『……これから』
そこからショスタークが冷たくなったのだ。
あの時、俺は素直に自分が隣国ラヴァルで会った「妖精さん」であることを言い、
『これからも愛することを誓おう』
そう言わなければならなかったのだ。
ざあっと血の気が引いていくのが分かった。
あぁ、愛しのショスターク。
俺の愛の告白のやり直しを受け入れてくれるだろうか。
***
農業治水の学者たちとの会合を終えて、嫁いできたばかりの国の王宮の庭園へと足を運んだ。
そこは緑に満ちた庭で、初めて「妖精さん」に会った庭園に少し似ているような気がした。
「……なんであんなにわざとらしい態度をとったのかしら」
「それは王妃様も同じかと」
「ブラム、黙りなさい」
「いいえ、黙りません」
淑やかに仕える態度のまま、主であるわたくしへの口撃は止まらない。
「馬鹿なんですよ。そこは大人の対応をすべきです。
当時、相手は隣国の王子なんです。忍んできているなら、身分は明かさない体でいくしかないじゃないですか」
「……だって、陛下はわたくしが5年前からお慕いしていると、知っているはずなのに」
「いいえ、知りませんよ。国王だろうがなんだろうが男は馬鹿なんですから。
脈のない相手に勘違いしては気があると思い込んで、脈のある相手の肝心なことには気がつかない。
あら、馬鹿同士でお似合いですね。よかったですね王妃様」
「……不敬罪で訴えるわよ」
「やってごらんなさい。王妃様の心置きなく話せる相手が消えるだけですから」
「……いじわる」
思わず口が鳥のくちばしのように突き出る。
拗ねたわたくしを見て、ブラムが目だけで笑う。
「ショスターク様は素直が一番です。今夜にでもお話されてみては」
「……嫌よ。せめて、気づいてくれないと。わたくしが陛下のことを慕っていたと」
駄々をこねる子どものようになってしまう。
だって、仕方がないではないか。
誰もが子ども扱いして、民の生活を憂うショスタークの話を聞いてくれなかった15歳の時。
唯一、夜の庭で会った「妖精さん」だけが真剣に話を聞いてくれたのだ。
しかも、恋の香りも艶やかな愛の言葉も挟まない、つまらない話しかできないと母にも姉にも苦笑されていた自分の話をだ。
顔などどうでもいいと思っていた。
愛想も色気もない自分の話を真摯に聞いてくれる「妖精さん」なら。
だが、気がつけば隣の国へと嫁ぐことが決まっていた。
経済面からも、政治面からも、ショスタークが隣の国の王太子の妻になることが、一番有益な形になっていた。
仕方ない。
初恋は雪のようなもの。
遠いからこそ、その煌めきを眩しく感じるもので、手元に置き続けることは容易ではない。
そう思っていたところに、吟遊詩人を招いた晩餐会に出ることになった。
そこで聞いた歌は、深い青の瞳をもつ銀色の髪の乙女を恋慕う詩だった。
しかも、隣国の地位ある青年が吟遊詩人に語った話が元になっているとか。
その時、聡いショスタークは気がついた。
隣国に王太子が立位してから「妖精さん」が来なくなったことを。
銀髪碧眼はショスタークだけではない。しかし、ごくわずかであることも、ショスタークは知っていた。
まさか。
ショスタークは、婚姻の日取りが決まってから、ずっと夫となる人に会って、声を聞くことを楽しみにしていた。
そして、聖堂で式に臨んだ時。
「ゆっくり歩いてくださいませんか?」
無表情を装いながら、ショスタークは声が震えないように懸命に言葉を絞り出した。
「わかった。そなたの歩みに合わせよう」
言葉使いは違っていたが、紛れもなく「妖精さん」の声だった。
白い薄絹に覆われたショスタークの顔は、一瞬で真っ赤に染まった。
それなのに。
「……今日からそなたは余の妻だ。これからそなたを……あ、愛することを誓おう」
これから。
この5年の想いは、あなたは無かったことにするのか。
一瞬で怒りが爆発した。
気がつけば、
「あなたを愛することはありませんわ」
「陛下の御心には、わたくしの知らぬ乙女がすでに在ることは存じております。
吟遊詩人も歌っていましたもの」
「それではおやすみなさいませ。
絶対にこっちに来ないでください」
全力でキレていた。
初夜に。
5年も想っていた相手に。
顔が好みのど真ん中だったにも関わらず。
「……ないわー」
朝、綺麗なままのショスタークの夜着を脱がせながら、ブラムが吐き捨てるように言った声は、まだ耳に残っている。
今まで生きてきた中で一番の怒りを露わにしてしまった。
初恋の相手に。
「……死にたい」
「はいはい、生きてくださいね」
ブラムの軽い声にムッとして顔をあげると、焦茶色の髪を乱し、懸命にショスタークに向かって走ってくる国王の姿があった。
「さすが国王。まんざら馬鹿じゃないですね。対応が早い。
さ、王妃様、素直になってくださいませね」
ブラムはショスタークに囁くと、音を立てずに離れていった。
ショスタークの瞳には、困った顔の初恋の人。
「……王妃、いまさらだが、『妖精さん』の話をしてもいいだろうか。
夜ではなく、昼間なのだが……」
おろおろと言葉を紡ぐ姿は、昨日の聖堂での威厳はカケラもなかった。
それでも、ショスタークは目の前にいる困った顔の国王が愛おしくて仕方なかった。
「……はい、陛下。
ただ、その前によろしいでしょうか?」
ショスタークは素直になることに決めた。
「あなたを愛しておりますわ。
初めて会った夜からずっと」
夜の気配もない正午近くの庭園で、新婚の国王と王妃は、互いに愛の言葉を囁き続けたのだった。