流れ星のご利益―あの頃は―
今晩は流れ星が見られるらしい。
最後に見たのはいつだったか。
見なくてもいいかな、と思う。
託したいほど強い願いはなく、
祈るくらいなら今何かする。
それでも見たいと思うのは、
最後の一押しが欲しいからか。
「今晩流れ星があるらしいよ」
「へー、ちょっと見に行こうかな~」
「新月だからはっきり見えるんだってー」
「いいじゃん、それじゃ今晩飲みに行って、その足で見に行こうよ」
「おっ、さんせー――」
聞くともなしに聞こえる会話。
どうやら今晩は流れ星が見られるらしい。
とはいえ私には関わりのないこと。
パソコンへ打ち込みを続ける。
彼女たちの課と異なり、私の課は今が繁忙期だ。
作業を続けながらも、ふと思う。
最後に流れ星を見たのはいつだっただろうか。
記憶に残っているのは、中学生の頃。
それ以降にも何かの拍子に見ていたはずなのだけれど、記憶に残るほど印象的ではない。
流れ星を見ることの特別さ、偶然出くわしたからこその感動、必死に祈って時間が足りなかった切なさ、そして隣にいたあの子の温かみ。
そういった感情がぎゅっと詰まった、今から思えば特別な記憶。
思い出すだけでじんわり胸の内が熱くなるようなこの感覚は、ここしばらく覚えがないものだ。
とはいえ、今晩の流れ星は別に見に行かなくてもいいかな、と思う。
いまさら星に託すほどの強い願いはないし、祈るくらいだったら今この資料を詰めた方がよっぽど有意義だ。祈るだけで結果が変わると無邪気に信じられたのは、それこそ星を眺めていた中学生の頃までじゃないだろうか。
それに星が降ると分かっている今祈りに行ったって、そんなの意味がないじゃないか。
偶然流れ星を見るからこそ、祈れば願いが叶う。
日頃から思い詰めている願いだからこそ、咄嗟に星に願うことができる。
そういう切迫感というか、切実さがあるからこそ、星だって叶えてやりたいと思うはずだ。
星が降ると分かっていて見に行くんじゃ、あのときの特別さが嘘になってしまう。
そんな風に思ってしまう。
……それでも。
流れ星と聞けば心は躍る。
これもきっと感傷的になっているせいに違いない。
今朝までなら絶対にそんな風には考えなかった。
あの頃とは少し違う気持ちかもしれないけれど。
今なら素直に祈れる気がする。
この気持ちを思いだした今ならば。
やれることは今やっているし、願う空しさは分かってる。
これ以上、私に出来ることはない。
そんな切実さをもし、今の私が持っているとするならば。
最後の一押しとしては、結構なことじゃないか。
私のあずかり知らない何かの要素が、これでカチリとハマるとすれば。
私の祈りは、無駄じゃないと言えるかもしれない。