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九州大学文藝部 初冬号

真夜中の霊歌

作者: 奴

 焼きすぎたパイからケツの穴の臭いがした。それは驚異の異臭だった。パイそれ自体が放つ激烈なる臭いはある種のエネルギーを有するようで、オーブンから取り出して熱エネルギーのおそろしい圧力から解放してやると、すぐに空中を浮遊した。しかしなんと臭いことか、これを表現できるやつはきっと文学賞のひとつくらい取れるだろう! しかも利き手でない手でペンを持ったとしても、あたり一面の家屋を、人を、車を吹き飛ばすほどの威力のある小説を書ききってしまうだろう。


 俺の昼飯からケツの穴の臭いがする! それだけで俺は他人の胃液を飲んだほうが幾分かマシだろうと気づいた。この悪臭が鼻に届くのに、WiFiも5Gもいらない。すこしの合間もなく、直接に臭いが届くのだった。昨日の朝から何も食べていないのに! 徹夜麻雀をしながらでも何か食べるんだった、と思った。けれど、死すらちらつく空腹をもってしても眼前で部屋中に臭いを撒いている、地獄行きした犬の糞みたいなパイだけは、どうしても食べたくなかった。それにそんなことより、部屋がこの異臭だらけになって二度と拭えなくなるのを、俺は防がないと、ここを出るときに高い掃除料を払わなければならなかった。タバコを室内で吸い続けたクルーシは、壁紙についたヤニをこそぎ取ってもらうためにウン万円も払ったらしい。ウン万円! クソごと焼いた大腸みたいなパイが一生分買える! あるいは1ヶ月の食費! そんなところだった。


 パイは遅速を織り交ぜた動きで俺を翻弄し、ときとして俺の目の前に降り立つと今度は天井まで昇って降りてこなくなった。背伸びしても天井には届かないけれど天国はすぐそこにある。悪臭がすでに壁に染みついてる気がした。あるいは壁紙に妙な粘りがある気がした。


 「降りてこい!」


 パイは降りてはこなかった。おぞましい臭気と熱気は天井に当たっている。できたてのパイが、天井にわずか接地しないほどまで昇りそのあたりを浮遊している。へたに棒でつつけばパイが天に当たって、酷い色と臭いがそこに残りつづけるに違いない、悲しいことに! だから俺は見ているばかりだった。狡知なパイが意思を持って俺を馬鹿にしている。俺の鼻はすでにその臭いに打ち負けて腐り落ちてしまった。俺はほとんど嗅覚を失いながら、しかしその気狂いの香りが脳髄を刺すのだから、死に絶えた鼻の痛みの奥にさらに悪臭がもたらす頭痛を感じて止まなかった。


 「やめてくれ!」


 あるいは


 「やめてください!」


 と叫んでみた。


こういうときに背の高い女がいたらいいのだ。俺を慰め、かつ醜い虫を叩き潰すように死霊のはらわたみたいなパイを捕まえてしまうだけの慈悲と勇気のある女がいればいい。彼女は俺を包み込んでくれるために、きわめて背が高くなければならない。ある場合には、数十メートルあってもいい。俺ごと家を踏み潰せば何ということもないのだから。


 俺はそんな背の高い女を想像した。彼女は曖昧な像の形を何とか保ちながら俺に語りかける。


 「まず必要なことは、実存的な自己を固く保持することよ。植物が細胞壁で細胞を形成しているように」


 「俺は落ち着かない」と言った。


 「すでに鼻はなくなった。嗅覚は役に立たないし、視力も悪臭のせいか効かない。頭痛もひどい。俺はあなたのことを考えることしかできないみたいだ」


 「でも本質も実質も現に存在したまま」と女は言う。


 「本質と実質?」


 「つまり」女は細く張った指をいじりながら、使うべき言葉を探した。「私にだって本質はある。背が高い、なんかはあくまでもその外延。私という存在は、あなたが想像したから本質として今ここにある。でも肉体はない。あなたにはある肉体が。あのパイをどうにかできるのは、実質界にいるあなたたちだけなの」


 「実質というのはつまり肉体のこと?」


 「そう」


 「その肉体が、すでに死を求めているのに?」


 「すくなくとも完全に終わったわけではない」と女は言った。


「完全には終わっていない、なら、まだ何かが残ってる。死にかけの体なら、それはまだ生きかけてる」


 「詭弁というか、トンチじゃないか」


 俺はおぼろな彼女の背の高さを見ているだけでも幾分か気分がよかった。彼女の高身長性それ自体にある種の効力がある。すくなくとも悪臭のせいで鳴り響いていた頭痛が不思議と消えてしまうほどだった。まるで、家族でいちばんおしゃべりな人が用事で席をはずしたとたんリビング・ルームに充満していた騒がしさがなくなって、静寂というぽっかりとした穴ばかりが残されたように。俺はその奇妙さと自身の所在なさのあいだで、しだいに消えゆく背の高い女を見ていた。


 パイは俺の前に降りてきていた。


 手を伸ばし、縁を掴んでも、パイは何の抵抗もなく、また何の臭いもなく、ただの焦げたパイとしてそこにあった。おそろしく冷たかった。彼は浮遊と悪臭を放つことにエネルギーを使いすぎたのだ。


 当然として、味も鶏の亡霊のささみくらい空虚だった。

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