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俺が何か言おうとしたところで、もう一度ノックの音がした。入ってきたのはロゼだった。よかった。とりあえず、普通に会話ができる相手がいることは嬉しい。
ロゼは、俺とセピアが話し込んでいたので驚いたようだが、すぐに軽く手を上げた。慌てたようにセピアがぺこりと頭を下げ、出口に向かい、最後にもう一度、深々と頭を下げて出て行った。考えたら、もし彼女が侍女ならば、彼女は仕事中だったわけだ。俺のせいで怒られるようなことにならなければいいが。
ロゼは俺のノートをちらりと一瞥したが、すぐに一つ咳払いをした。
「勇者様。今後のことでお話が」
もちろん、彼女の口から出てきたのは、たどたどしいながらも英語だ。ややこしいから訳しているけれど。
「とりあえず、話は聞くけど、俺は勇者じゃないと思いますよ」
俺は、素直に思ったことを告げた。何しろ、この体育会系家族において、俺は例外中の例外だ。勇者なんて、いかにも体育会系な響きの肩書が、俺に属するものだとは、到底思えない。
考えてみてほしい。
元プロ野球選手の父さん。インターハイ出場経験もある、元テニスプレイヤーの母さん。元刑事で、剣道の師範代をやっているじいちゃん(錬士七段)。弓道部のエースである姉ちゃん。この華々しい家族の中、俺だけが毛色が違う。
短距離走・長距離走、ともにビリから一番か二番。ハードル走では、必ず一回はハードルを倒す。懸垂は一回お情けでカウントしてもらえる程度(厳しい先生はカウントしてくれない)。対抗競技ではクラスのお荷物、逆上がりはできない、泳げない……などなど。体育祭では、もっぱら玉入れや綱引き要員だ。
小学校と中学校では苦労した。何しろ、運動と名の付くものならなんでもござれのスポーツ少女である姉ちゃんの弟だ。入学した時は、そりゃあ期待されたものだ。その後の周囲の失望ときたら、かなりのものだった。
そんなだったから、父さんも母さんも、かなり心配した。何しろ、二人ともその身体能力で、青春時代を過ごしてきたものだったから、ここまで何もできないと、俺が行ける高校はないんじゃないかと心配していたのだ。
俺も心配だった。
だから、中学校の三者面談は、俺と母さんは、それは悲壮な顔で担任に泣きついた。
「先生、この子が行ける高校はあるんでしょうか。何とかなりませんか」
驚いたのは担任だった。何を言っているんだこいつは、て顔をしていた。当時の担任、初老の眼鏡をかけた梶谷先生が、呆れたように言ったのを今でも覚えている。
「お母さん、虹本君の成績なら、どこの高校でも引く手あまたですよ」
母さんも俺も、今思えば相当にうかつだったのだが、普通に考えて進学に必要なのは、運動能力ではなく、学業の成績だったのだ。俺はそっちの方は割とそつなくこなせた。もともと体を動かすよりも、家で本を読んでいる方が性に合っていたし。
そうして、学業という面では、俺は落ちこぼれではなかったのだ。そうなっていくと、自分の唯一の取り柄を生かそうと、勉強にも身が入った。
一応言っておくと、確かに虹本家は身体能力に恵まれた人間が揃っているし、俺はその中である意味落ちこぼれだ。だからといって、俺が疎まれていたわけではない。姉ちゃんとは差別されることなく育てられてきたし、本を読む俺に、親が外で遊べと強要したこともない。俺は俺だと、両親はきちんと理解していたし、尊重してくれていた。
だが俺自身が、心のどこかで、劣等感を抱いていた事実はあったのだろう。正直、今もどこかに残っていると思う。体育の授業では特にそう思う。成績が上がれば嬉しいし、誇らしくもあるが、やっぱり、女子の前でみっともない姿をさらけ出すのは、男としてはかなり情けない。俺が通う永和学園は、幸いなことに体育よりも学業を重んじる傾向があるので、そこまで醜態を晒すことはないが。
こんな俺の事情は置いておいて、多少の取り柄はあるにしろ、それはあくまで凡人レベル。よくわからんが、こんな金ぴかな世界に住む人々のお役に立てるとは、到底思えない。
だから、彼女が俺を勇者様と呼ぶのは妙なのだが、考えたら、彼女は俺たちの名前を知らないわけだ。
「え~と、とりあえず、誰がそちらの言う勇者かはわかりませんが、一応自己紹介しますね」
俺が言うと、彼女は微笑んだ。笑うと余計に幼く感じられる。俺は、初めて彼女の顔をまじまじと見たが、割と整った顔立ちをしている。いや、かなりの美少女だ。アイドルですと言われても、ちっとも不思議じゃない。手足は細く長いし、すらりとしている。色白なために、ピンク色の髪が、全く違和感がない。アニメから抜け出てきたような女の子だ。
踝まで覆うような、白くて長いローブを着ているのはさっきも同じだが、あの、やたら長い杖は持ってきていない。そのせいか、幾分身軽になっているようだ。
「俺は蒼太。こっちは父の黄一郎。母のみどり、姉の紫乃。祖父の紅之介」
紹介していくと、驚くことに、今まで俺の傍にいたシロが、一歩進みでて、ロゼの足元にまとわりついた。他人が来たら速攻で隠れる、家族にだってそれほど懐かない、気難しい猫なのに、珍しいこともあるもんだ。
ロゼは猫嫌いではないらしい。むしろ猫好きなのか、じゃれつくシロを抱き上げた。シロはゴロゴロと喉を鳴らしている。本当に珍しい。俺に対しても、そういう甘えた態度は、めったにとらないというのに。
「……そいつの名前はシロ。あっちにいるのはクロ」
「私はロゼといいます。あらためて皆さま初めまして、よろしくお願いします」
ロゼは、シロを抱き上げたまま話し出した。