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虹本家の家族旅行  作者: うばたま
第三章 虹本家の魔物退治
28/35

 俺は持っていた紐を少し引っ張った。

 その途端、奴の動きが止まった。顔を、ゆっくりとぬいぐるみに向ける。

 よし、かかった!

 俺はさらに引っ張った。あいつから見れば、その生き物は、まるで奴に背を向けて逃げ出そうとしているように見えただろう。

 背を向けて逃げる。

 それは、熊に対して、一番してはいけないことだ。なぜなら。奴らは、背を向けて逃げようとしているものを見たら問答無用で、食事さえも放って追いかけるからだ。それは、奴ら自身にもどうしようもない、生まれ持った本能なのだ。

 熊に出逢ったら死んだふり。

 それは、間違っている知識ではあるが、背を向けて逃げるよりかはいくらか有効だ。熊が他の犠牲者を食べている間は、動きさえしなければ襲ってこないのだから。

 鋭い咆哮を上げ、アーバがぬいぐるみに腕を振り上げた。だが、当たるより先に、俺はまたしても紐を引っ張った。

 すごく間抜けな光景だが、一応うまくいった。こういうことは、シロ相手で慣れているのだ。こっちは命がけだが。

 その間に、姉ちゃんと母さんは下に降りた。姉ちゃんの手には、弓が握られている。

 姉ちゃんが準備に入るまで、俺は、奴を引き付けておかなくてはいけないが、足場が悪いために結構難しい。

 あいつが追いかけている間に、父さんがグレイさんを担いで、奴からできるだけ離れていた。

 「蒼ちゃん!」

 姉ちゃんが、矢を番えた姿勢で叫んだ。準備ができたのだ。隣で母さんが、姉ちゃんの矢にランプの灯を近づけた。姉ちゃんの矢には、あらかじめ油をしみこませていたのだ。

 「頼むぞ、姉ちゃん!」

 俺は紐を離した。

 「みんな離れて!」

 ロゼが、バルゼレッタ語で村人たちに呼びかけた。尤も、みんな言われるまでもなく奴から離れようとはしていたが。

 アーバは動かなくなった獲物に飛びかかり、食いついた。あの鋭い牙を、深々と食い込ませたのだ。

 途端に、破裂するような音と共に、ぬいぐるみの中から、白い風が勢いよく噴き出した。

 ぬいぐるみの中身は制汗スプレーだ。中身のたっぷり入ったスプレー缶に穴を開ければ、中のガスは当然出てくる。制汗剤の中身は、化学物質も多く含まれている。それらは、可燃性なのだ。奴が、それらを浴びた。

 「今だ!」

 誰かが叫び、姉ちゃんは弓を引いた。

 一射目はわずかに外れた。しかし、それも想定内だ。取り乱すことなく慣れた手つきで次の矢を番え、母さんがすぐに火をつける。

 二射目は、見事に命中した。

 姉ちゃんの弓矢は、殺傷力はない。だが、それだけが弓矢の強みではない。

 火矢は、制汗剤をたっぷり浴びた奴に見事に命中した。途端に、魔物の顔が勢いよく燃え上がる。スプレー缶にはいつだって、火気厳禁と書いてある。それは、こういう事態を防ぐためのものだ。

 あいつは悲痛な叫び声を上げながら、暴れだした。

 「もう逃がさない!刺すぞ!」

 グレイさんを安全な場所まで連れて行った父さんが、そう叫んで、ポケットに入れていたタールフをアーバに投げた。

 レフトだった父さんの「刺す」とは「とどめを刺す」ではなく、ホームでアウトにする「刺す」だと思う。強肩で、数多くのアウトを取ってきた父さんの放ったタールフは、奴の脳天に命中した。

 ひるんだ奴に、クロが、雄たけびを上げながら(メスだけど)、稲妻のように飛びかかり、その太い足に食いついた。分厚い毛皮に覆われたそこは、クロの牙を本来通さなかったはずだが、先ほどの総攻撃で斬れ、血が滲み、肉が見えている状態だった。そこに、クロの牙が食い込んだ。

 ドーベルマンの本領発揮だ。奴は怒りの声を上げながらクロを何とか振り払おうとするが、さっきのタールフの一撃で、頭がくらくらしているらしく、なかなか思うように動けない。しかも、さっきの爆発の衝撃もある。

 弱り切った奴の前に、今までずっと動かなかったじいちゃんが向き合った。

 正眼の構えで熊に対峙し、間合いを図っている。誰かが加勢しようと武器を構えたが、俺たちが慌てて止めた。今は、じいちゃんの邪魔になってしまう。

 今まで動かなかったのは、精神統一していたからだ。余計な音や情報を入れず、ただひたすら目の前の相手に向き合う。

 アーバがもう一度吠えた。それは威嚇でも、怒りのためでもない、苦痛の叫びだった。そして、恐らく奴が初めて抱いたであろう恐怖の。

 クロが、口中を奴の血だらけにして離れた。何か肉片のようなものを咥えている。

 奴の体が、バランスを崩して大きく崩れた。

 じいちゃんは、それまで微動せずにいたが、この好機を見逃さなかった。

 「はっ!」

 鋭く、気合の入った声と共に、じいちゃんは前に踏み込み、真剣がきらめいた。それは見事な、強烈な突きだった。

 刃は奴の鼻筋を切り裂き、額を斬り、血飛沫が舞った。

 血を噴き出しながら、長い断末魔の声を上げ、とうとう凶悪な獣の体が倒れた。

 じいちゃんは未だ注意深く刀を構えながら、奴を睨みつけている。

 これがホラーだったら、倒れたと思って、みんなが喜んだ瞬間にワッと脅かすのだが、そういったことはないようだ。

 俺たちも、未だ武器を構えつつも、恐る恐る近づいた。

 巨体からは、相当の量の血が流れ出している。この量なら、たとえ起き上がっても、もう何もできないのではないだろうか。

 「俺たち、勝った……?」

 俺が言うと、姉ちゃんが、糸が切れた人形みたいに急に座り込んだ。俺も経験がある。緊張の糸が切れて、腰が抜けるんだ。

 母さんは泣き出し、父さんは大きく息を吐いた。

 じいちゃんは未だ奴を注意深く観察していたが、やがて、ゆっくりと刀についた血を振り払った。

 遠く離れた場所で、グレイさんが俺たちに笑いかけた。

 ロゼとセピアが駆け寄ってきた。

 村人たちは、最初事態が飲み込めていなかったようだが、やがて、自分たちが、この大きな魔獣に勝利したのだと気付き、歓声を上げた。

 俺たちは、何とか勝ったんだ。


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