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俺は持っていた紐を少し引っ張った。
その途端、奴の動きが止まった。顔を、ゆっくりとぬいぐるみに向ける。
よし、かかった!
俺はさらに引っ張った。あいつから見れば、その生き物は、まるで奴に背を向けて逃げ出そうとしているように見えただろう。
背を向けて逃げる。
それは、熊に対して、一番してはいけないことだ。なぜなら。奴らは、背を向けて逃げようとしているものを見たら問答無用で、食事さえも放って追いかけるからだ。それは、奴ら自身にもどうしようもない、生まれ持った本能なのだ。
熊に出逢ったら死んだふり。
それは、間違っている知識ではあるが、背を向けて逃げるよりかはいくらか有効だ。熊が他の犠牲者を食べている間は、動きさえしなければ襲ってこないのだから。
鋭い咆哮を上げ、アーバがぬいぐるみに腕を振り上げた。だが、当たるより先に、俺はまたしても紐を引っ張った。
すごく間抜けな光景だが、一応うまくいった。こういうことは、シロ相手で慣れているのだ。こっちは命がけだが。
その間に、姉ちゃんと母さんは下に降りた。姉ちゃんの手には、弓が握られている。
姉ちゃんが準備に入るまで、俺は、奴を引き付けておかなくてはいけないが、足場が悪いために結構難しい。
あいつが追いかけている間に、父さんがグレイさんを担いで、奴からできるだけ離れていた。
「蒼ちゃん!」
姉ちゃんが、矢を番えた姿勢で叫んだ。準備ができたのだ。隣で母さんが、姉ちゃんの矢にランプの灯を近づけた。姉ちゃんの矢には、あらかじめ油をしみこませていたのだ。
「頼むぞ、姉ちゃん!」
俺は紐を離した。
「みんな離れて!」
ロゼが、バルゼレッタ語で村人たちに呼びかけた。尤も、みんな言われるまでもなく奴から離れようとはしていたが。
アーバは動かなくなった獲物に飛びかかり、食いついた。あの鋭い牙を、深々と食い込ませたのだ。
途端に、破裂するような音と共に、ぬいぐるみの中から、白い風が勢いよく噴き出した。
ぬいぐるみの中身は制汗スプレーだ。中身のたっぷり入ったスプレー缶に穴を開ければ、中のガスは当然出てくる。制汗剤の中身は、化学物質も多く含まれている。それらは、可燃性なのだ。奴が、それらを浴びた。
「今だ!」
誰かが叫び、姉ちゃんは弓を引いた。
一射目はわずかに外れた。しかし、それも想定内だ。取り乱すことなく慣れた手つきで次の矢を番え、母さんがすぐに火をつける。
二射目は、見事に命中した。
姉ちゃんの弓矢は、殺傷力はない。だが、それだけが弓矢の強みではない。
火矢は、制汗剤をたっぷり浴びた奴に見事に命中した。途端に、魔物の顔が勢いよく燃え上がる。スプレー缶にはいつだって、火気厳禁と書いてある。それは、こういう事態を防ぐためのものだ。
あいつは悲痛な叫び声を上げながら、暴れだした。
「もう逃がさない!刺すぞ!」
グレイさんを安全な場所まで連れて行った父さんが、そう叫んで、ポケットに入れていたタールフをアーバに投げた。
レフトだった父さんの「刺す」とは「とどめを刺す」ではなく、ホームでアウトにする「刺す」だと思う。強肩で、数多くのアウトを取ってきた父さんの放ったタールフは、奴の脳天に命中した。
ひるんだ奴に、クロが、雄たけびを上げながら(メスだけど)、稲妻のように飛びかかり、その太い足に食いついた。分厚い毛皮に覆われたそこは、クロの牙を本来通さなかったはずだが、先ほどの総攻撃で斬れ、血が滲み、肉が見えている状態だった。そこに、クロの牙が食い込んだ。
ドーベルマンの本領発揮だ。奴は怒りの声を上げながらクロを何とか振り払おうとするが、さっきのタールフの一撃で、頭がくらくらしているらしく、なかなか思うように動けない。しかも、さっきの爆発の衝撃もある。
弱り切った奴の前に、今までずっと動かなかったじいちゃんが向き合った。
正眼の構えで熊に対峙し、間合いを図っている。誰かが加勢しようと武器を構えたが、俺たちが慌てて止めた。今は、じいちゃんの邪魔になってしまう。
今まで動かなかったのは、精神統一していたからだ。余計な音や情報を入れず、ただひたすら目の前の相手に向き合う。
アーバがもう一度吠えた。それは威嚇でも、怒りのためでもない、苦痛の叫びだった。そして、恐らく奴が初めて抱いたであろう恐怖の。
クロが、口中を奴の血だらけにして離れた。何か肉片のようなものを咥えている。
奴の体が、バランスを崩して大きく崩れた。
じいちゃんは、それまで微動せずにいたが、この好機を見逃さなかった。
「はっ!」
鋭く、気合の入った声と共に、じいちゃんは前に踏み込み、真剣がきらめいた。それは見事な、強烈な突きだった。
刃は奴の鼻筋を切り裂き、額を斬り、血飛沫が舞った。
血を噴き出しながら、長い断末魔の声を上げ、とうとう凶悪な獣の体が倒れた。
じいちゃんは未だ注意深く刀を構えながら、奴を睨みつけている。
これがホラーだったら、倒れたと思って、みんなが喜んだ瞬間にワッと脅かすのだが、そういったことはないようだ。
俺たちも、未だ武器を構えつつも、恐る恐る近づいた。
巨体からは、相当の量の血が流れ出している。この量なら、たとえ起き上がっても、もう何もできないのではないだろうか。
「俺たち、勝った……?」
俺が言うと、姉ちゃんが、糸が切れた人形みたいに急に座り込んだ。俺も経験がある。緊張の糸が切れて、腰が抜けるんだ。
母さんは泣き出し、父さんは大きく息を吐いた。
じいちゃんは未だ奴を注意深く観察していたが、やがて、ゆっくりと刀についた血を振り払った。
遠く離れた場所で、グレイさんが俺たちに笑いかけた。
ロゼとセピアが駆け寄ってきた。
村人たちは、最初事態が飲み込めていなかったようだが、やがて、自分たちが、この大きな魔獣に勝利したのだと気付き、歓声を上げた。
俺たちは、何とか勝ったんだ。




