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俺たちの期待もむなしく、奴はまたしてもやってきた。
すでに時刻は深夜すぎ。腕時計を見ると四時ちょっと過ぎ。深夜というよりも、明け方に近い。俺たちも、緊張しながらも、うとうとしていた頃だ。油断している隙を狙ったのだろうか。いや、そういえば、熊は割と深夜や夜明けに行動するんだったっけ。こういう習性まで同じなのか。
犬たちがけたたましく吠え、俺たちは弾かれたように立ち上がった。
「まだ来るの……」
隣で同じように眠っていた姉ちゃんが、力なく呟いた。さっきまで、母さんと二人で人形第二弾を作っていたため、疲れているのだろう。
外を見ると、見張りの村人たちが、慌てて家に入っていくのが見えた。
それからほどなく、アーバは先ほどより慎重な足取りで、ゆっくり村に入ってきた。
俺たちだって疲れているが、向こうも疲れている。
村の中央に、奴のために餌を置こうかという案もあった。それを喰えば、満足して帰るのではないかと。何しろ向こうは深手を負っている。
だが、もし、仮にそれを食べたとしても、奴の中では、一度獲物と認定したピーヌスさんの件が解決していない。
食べ終えてごちそうさま、と帰ってくれるならそうするが、それはそれ、これはこれと襲ってきた場合、奴に襲うエネルギーをくれてやったようなものだ。まさに、盗人に追い銭。
だからこそ、俺たちは鶏も、馬も、村の奥へと避難させた。
「うわ!」
外から、父さんのすごい叫び声が聞こえてきた。
「父さん?」
俺たちが慌てて、外を見ようと窓を開けた時。俺は信じられないものを見た。
二階の窓から見える大きな柱が、何か黒いもので覆われていたのだ。黒くて丸く、何よりも大きい。よく見ると、毛むくじゃらで、鋭い鉤爪がついて……。
「熊だ!」
俺が叫び、姉ちゃんと母さんが、弾かれたように飛び退った。熊じゃなくアーバだと、誰も突っ込む余裕すらない。ロゼとセピアが、思わず悲鳴を上げた。
何てこった。奴が、柱を伝って、屋根に上がろうとしている。
そういえば、奴らは木登りが得意なんだっけ。だからといって、あの巨体で家に上ろうとか、発想がおかしい。こういう状況を一応想定してはいたが、最悪だ。やはりというか、家が不自然に揺れた。今のところ崩壊する様子はないが、あの巨体が柱を伝っているのだ。柱が折れれば、どうなるか。
セピアが窓を開け、奴に卵爆弾を投げつけた。しかし、無理な体制からの投擲だったため当たることはなく、奴は怒りのこもった唸り声を上げた。
下から、クロのけたたましい吠え声が聞こえた。男たちが何か言いあう声。おそらくだが、下から奴に、石か何かを投げつけているのではないだろうか。
「今のうちに、みんな逃げろ!」
俺は水鉄砲を構えながら、ロゼたちに叫んだ。ロゼ、セピアが慌てて降りて行った。
「蒼太、あんたも逃げなさい!」
「いや。これはチャンスだ。奴の巨体を利用できる」
これほどの巨体ならば、落ちた時の衝撃もまた、でかいだろう。奴に致命傷をなかなか与えられない以上、これは大きい。
「奴がここから落ちたら、大ダメージだ!」
俺がそう言ったのに、母さんも姉ちゃんも、降りようとしない。
「母さん、姉ちゃんも降りろよ」
「蒼ちゃんも降りなきゃ駄目!」
「息子を置いて逃げられるがわけないでしょう!みんな!離れなさい!」
そう言って、母さんは、窓から身を乗り出し、屋根に上がったと思うと、今まさに上がらんとするアーバの鼻面めがけて、鉄製のフライパンをフルスイングした。
バカーンと、いい音がした。そういえば熊の弱点は鼻だったっけ。ただでさえ不安定だったうえに、痛みで体勢を崩した奴が、屋根の一部と共に落ちていった。
母さんすげえ。もし今のに、名前を付けるとしたら〈ベアスマッシュ〉とか、そういうのになるんだろうか。
ものすごい衝撃音がした刹那、空気が振動で震え、その直後に、男たちの怒号が聞こえてきた。
みんなで、一斉に攻撃しているようだ。
「足を狙え!動けないようにするんだ!」
窓から下を見ると、じいちゃんの声に、父さんが、奴の足にバットを叩きつけるところだった。
腹部を、グレイさんと村人たちが、それぞれの武器で攻撃している。
終わった、と思った瞬間だった。
「離れろみんな!」
アーバが、ゆっくりとだが起き上がったのだ。落下の衝撃と大勢からの一斉攻撃。それを受けてもなお立ち上がれるのか。まさに化け物だ。
目は怒りでギラギラ燃え上がり、唸り声には狂気すら孕んでいた。
男たちが一斉に離れたが、奴がその大きな腕を振り上げた。
「グレイさん!」
一番近くにいた村人が標的になったが、グレイさんが彼をかばった。そのせいで、グレイさんが鋭い爪牙の餌食になってしまったのだ。
熊の一番の武器は、あの鋭い爪だ。あの剛腕が放つ鋭い爪の攻撃は、馬や牛を一撃で仕留めるという。
彼はその優れた反射神経で、強烈な一撃を逸らしたものの、完全にはよけられずに肩口を斬りつけられ、地面に倒れた。
まずい!
「グレイ!」
ロゼとセピアがちょうど下に降りたところだったのか、ロゼが血まみれのグレイさんを見て悲鳴を上げた。
セピアが、卵爆弾を投げつける。奴は少し怯んだが、すぐにグレイさんに向き合った。時間と共に風向きが変わっている。あまり、唐辛子が舞い散らなかったようだ。
敵が怯んだ隙にグレイさんは何とか立ち上がり、剣を構え、相手を鋭く睨みつけている、まだ戦意を失ってはいないようだが、戦うのは、おそらく無理だろう。
俺は横を見た。母さんたちが、先ほど作った人形第二弾。というより、ぬいぐるみを手に取った。
あるものを動物の毛皮でくるみ、縫い付けたものだ。この毛皮は、村長さんからわけてもらった兎の毛皮だ。だから、遠くから見れば、獣に見えなくもない。ご丁寧に、姉ちゃんときたら、顔までしっかり描いてくれている。下手だけど。
そのあるものとは、さっき姉ちゃんが、ピーヌスさんに使った包帯でぐるぐる巻きにした、姉ちゃんの制汗スプレーだ。
そのぬいぐるみの端っこを、長いロープで括りつけている。まるで釣り竿のように。
「姉ちゃん、例のものを頼む!」
俺は叫び、ぬいぐるみを掴んで窓の外に出た。屋根は、先ほどでずいぶんダメージを受けたらしく、少しグラグラする。
だが、何とか態勢を整え、俺は、アーバめがけてぬいぐるみを投げた。ぬいぐるみは、奴の目の前に落ちた。
向こうは飛んできたぬいぐるみに一瞬気が逸れたようだが、再びグレイさんに近づいた。彼の血の匂いは、奴を刺激させるには十分だった。




