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絶対うまくいく。
俺はアーバから目を離すことなく、奴の隙を窺った。俺が微動だにせず睨み返してくるのは、向こうにとって想定外だったようだ。その結果奴は少々慎重に動くことにした。すぐに飛びかかろうとはせず、少しずつ近づいてきた。野生の獣ならごく当然の行動だが、それが結果的に俺に集中する時間を与えた。
今だ!
アーバがもう一歩前に進み出た瞬間だった。俺は構えていた水鉄砲を奴に向け、木で作ったシャフトを押し込んだ。
真っ赤な水が、巨獣にまっすぐに向かい、見事顔に直撃した。
その瞬間、奴がのけぞって窓から離れた。
「セピア!」
上では、二階から屋根に上がっていたセピアが、奴に向け、例の唐辛子入り卵爆弾を投げつけた。ナイフを投げるのも正確だった彼女だ。なかなかにいい命中率だったようだ。
唐辛子の波状攻撃だ。こいつは効くだろう。むしろ効け。お願いします。
俺のお願いが功を奏したのか、一連の唐辛子攻撃に、アーバが村長宅から離れ、顔を覆って苦しみだした。しばらくは得意の鼻も利かないだろう。
苦しみつつも、怒り狂った奴が、俺めがけてもう一度窓から身を乗り出した。そのまま突き破り侵入する気のようだが、見方を変えれば、それは、窓に嵌まってしまったのと同義だ。
その隙に、近くで待機していた男たちが、武器を掲げて襲い掛かってきた。
「そりゃ!」
「はっ!」
じいちゃんが奴の右足に、グレイさんが左足に、それぞれ武器を向けた。
狙うは足の腱だ。
アーバが苦悶の声を上げる。ここからでは見えないが、腱を切断、もしくは傷つけることに成功したようだ。奴が全速力で走ると、相当なスピードになる。それを封じることができただけでもだいぶいい。
続けて父さんがバットで、村人たちが斧や鍬で、つぎつぎと襲い掛かった。
アーバが顔を引っ込めた。逃げるつもりだろうか。
「みんな離れろ!」
じいちゃんの怒号に、全員が離れた。背を向けず、じりじりと後ずさりしているようだ。
さすがに分が悪いことを悟ったのか、熊は背を向けて走り出した。足を負傷しているせいで、その動きはぎこちない。
怒りの声を上げながら、魔獣が去ってゆくのを、俺はへなへなと座り込みながら見た。
「蒼太、大丈夫か」
じいちゃんがひょいと顔を覗かせた。
答える気力は、俺には残っていない。
さすがに、あれほどに痛めつけたのだから、もう来ないと思いたかった。
とはいえ、奴はあの余裕のなさから、相当に空腹であると予想される。そして、この一帯の山には食べ物がほとんどない。
戻ってこないとは言い切れないのだ。
「やったな、蒼太」
父さんが、まだ腰が抜けている俺の肩をバンバンと叩いた。
「男になったな」
「俺は、男以外の性別で生まれたつもりはないけど」
ツッコミにも、あまり力が入らない。
情けないが、奴が立ち去ってから、今頃になって恐怖がやってきた。
今更体がガタガタ震え始めている。
俺はいったい何をしたんだと、少し前の自分の行動に戦慄さえ覚えた。
麻薬とか覚せい剤というのは、こういった感じなのではないだろうか。その時はハイになって、何でもできる気分でいるという点では、さっきの俺は、まさに薬物中毒者みたいだった。
「もう来ないだろうな」
父さんが安心したように言うが、正直俺は、可能性はフィフティフィフティだと思っている。
「蒼太!」
母さんが、転がるように降りてきて、俺を抱きしめた。
「ああ、よかった!無事だったのね」
こういうの、少し恥ずかしい。もう高校生だというのに、人前で母親に抱きしめられるとか。何だか、俺がマザコンみたいじゃないか。とはいえ、状況が状況だけに、無下にもできないのだ。そもそも、俺より絶対に力が強いであろう母さんの腕を振りほどけるほど、今の俺に元気はない。
「まだ来るかもしれない。みんなで迎え撃つ準備をしなくちゃ」
「あれほど痛めつけたのに?」
「他に食べ物が見つからなければ、また来る。向こうだって必死なんだ」
特に、一度人間を自分の獲物と思っている獣だ。まっすぐに村長宅へ向かってくるあたり、熊と同じく執着心はやはり強い。
「ソウタ様、申し訳ない。一撃では、奴の腱を叩き斬ることはできませんでした」
グレイさんが申し訳なさそうに俺に言った。いや、無理だと思いますよ。奴の足、チラッと見ただけだけど、ごっつい足だったもの。むしろ負傷させられただけでもありがたい。
じいちゃんの方も、完全に切断できたわけではないようだが、それなりの手応えはあったようだ。
「しかし、次に来るとすれば、そろそろ考えないといけないな」
「何をです?」
「あの熊……アーバを殺すことですよ」
ここまで深手を負わされて、それでもまたここに来るとすれば、それは、向こうも命がけということだ。本来、動物は、獰猛な獣であっても、不利な戦いはなるべくしない。傷ついたら、それだけ生きることが困難になるからだ。
熊に遭遇したら、逃げるより戦った方がいいのは、そのためだ。こいつは倒すことが困難だ、と熊が判断すれば、リスクを避けるために、向こうから退いてくれる。
その判断を奴ができないということは、飢えが極限まで来ているということだ。
「我らの馬を差し出すわけにはいかないですか」
グレイさんが、おずおずと言った。実は、その考えは俺も浮かばなかったわけではない。
薄情なのは百も承知だが、もし奴が、馬小屋の馬に手を出そうとしたら、俺は止めなかったと思う。
馬には悪いが、それで満足して帰ってくれるのなら、人間は助かる。
だが、そうはならなかった。あいつはまっすぐにピーヌスさん、つまり人間を目指してやってきた。
「もしかしたら、次に来るときはそうするかもしれません。それならまだましかも」
俺も、熊の一度狙いをつけた獲物に執着する本能がどれほどのものかわからない以上、何とも言えないのだ。




