10
青ざめた顔で黙っていた医者らしき人が、弾かれたように立ち上がった。真っ青な顔で一言二言何か言い、すぐに出て行った。それに合わせて、男たちが立ち上がる。
先ほどの母親は、子供と、ようやく眠り始めた夫を交互に見た。何度も。
グレイさんは俺とロゼに視線を向ける。
こうなるかもしれないとは思っていた。
俺たちだって逃げるのか、戦うのか、未だ決め兼ねてはいるが、ともかくも、みんなが知識は持っておくべきだと思うのだ。
「本当に、奴らはここに来るのでしょうか」
「来なかったらそれが一番いい。でも、常に最悪の想定はしておくべきでしょう」
俺がきっぱりと言ったので、グレイさんは少し驚いたようだが、やがて納得したのか「わかりました」と言い、今の言葉をバルゼレッタ語に訳してくれた。
村に残っている男たちは、樵たちに熊の大きさ、凶悪さをじっくり聞かされたらしい。おまけに今、もしかしたらここに来るかもしれないと聞いて、家に帰りたがった。誰だって家族が一番だ。
村長が何事か先ほどから指示を飛ばしている。
「何て言っているのですか?」
「ありったけの火を灯せと。村中篝火が焚かれるようですね。獣は火を恐れますから」
ということは、村長さんは、一応俺の意見を尊重してくれたわけだ。
ただ問題は。
熊はそれほど火を恐れないのだ。
さすがに好き好んで近寄りはしないだろうが、焚火があっても、平気で近寄ってきたという話はよく聞く。
「あとは、各家に戸締りの強化を徹底するようにと」
それはいい。だが問題は。
気づけば、村長が俺たちを見ていた。正確には、俺の隣のグレイさんを。村長の隣に立っている、腕を喰われた男の妻も。
グレイさんは剣を持っている。体格から見ても、明らかに強そうだ。そしてこの村には、男手があまりにも足りない。
グレイさんは、困ったように俺を見た。
「正直な話、小型のアーバなら何とかなるとは思うのですが」
確かに小型なら、それほど脅威ではないかもしれない。いや十分怖いが、こちらも一応武装しているし。だけど、斧を持ったそれなりに屈強な男三人が、一人は重傷を負い、もう二人もかろうじて撃退しただけなのだ。相当に大きくて強い可能性がある。いや、たぶん強い。
しかしこのままだと、アーバはあの重傷人を襲いに来るかもしれない。それを見捨てることができるか?
「アーバは絶滅したはずなんですよね?」
「ええ。大型のアーバはこの国の固有種だったんですが、もう長らくその姿は目撃されていませんでした。今現在この国にいるアーバは、外来種の小型のものだけだったはずです」
あ、小型のはいるのね。何だろう、ニホンオオカミは絶滅したけど、普通にオオカミはいる、みたいなもんだろうか。
ここで一つ疑問が生じる。
でかいアーバが出没したのは、数日前だった。そして、今回とうとう被害が出た。今までそんなでかいアーバは出ていなかった。
そのアーバとは、オルゴの可能性はないだろうか。
それはつまり、俺たちしか退治できないのではないだろうか。
「しかし、このまま彼らを見捨てるわけにはいきません。ソウタ様、皆様とロゼ様はどうか、他の住居に避難してください」
「それで、自分はここに残るわけですか?」
俺が言うと、彼は申し訳なさそうにうつむいた。
「己の任務はわかっております。ですが」
「なりません」
ずっと黙って聞いていたロゼが、飛びきり冷静な声で言った。
「グレイ。あなたを一人ここに残すわけにはいかない」
「なれど」
「わたくしたちの任務はオルゴ討伐です。あなたがいなくなれば、誰がソウタ様たちを守るのです」
「では、ここにいる村民を見殺しにせよということですか!」
「グレイ!」
言い争い始めた二人に、「あの」と俺は恐る恐る声をかけた。
「もし、件のアーバが、オルゴだったら?」
俺の言葉に、ロゼとグレイさんが顔を見合わせた。
「けれど、そんな……」
「オルゴの姿は千差万別なんでしょう?今までいなかったのに、このタイミングで出てくるとか、おかしすぎますよ」
「ですが……」
その時、俺は自分の服が引っ張られるのを感じた。横を見ると、さっきの子供が、俺を見上げている。
「え?」
子供は今にも泣きそうな目で、必死に俺に訴えていた。俺たちが、自分の父親を見捨てようとしていることがわかっているのだろう。
俺たちができることなんかたかがしれている。グレイさんなら別だろうが、
けれど。
「蒼太」
いつの間にか、父さんとじいちゃんが、上から降りて来ていた。じいちゃんの持っている日本刀に、村長さんが目を丸くする。
「お前と母さん、紫乃は、お嬢さん方と一緒に、別の場所に避難していなさい」
「何言ってるんだよ、父さん」
「熊が来るかもしれんのじゃろうが。そいつがどれほど強いかは知らんが、この虹本紅之介、熊如きに遅れは取らんわい」
「駄目よ!」
母さんと姉ちゃんも降りてきた。
「駄目よ、お義父さん。黄一郎さん。家族がバラバラになるのは。それなら、最後まで家族みんなでいたい」
「だが、もし本当に熊が来たらどうする!紫乃と蒼太を死なせるわけにはいかんだろうが!」
父さんたちの言い合う姿が、やけに遠く感じられた。みんながみんな、誰かを思いやっていることはわかる。それなのに、口論は続く。
そんな状況だというのに、なぜか俺は、窓の近くに吊るされた赤いものが目に入った。唐辛子だ。保存用だろうか、乾燥させた唐辛子がいくつも吊るされている。イタリア料理店などで、にんにくや唐辛子が、ひとまとめにされて吊るされているのを見たことがある。これも、そういう類のものだろう。こっちの世界にも唐辛子はあるんだな、とこんな時なのに一瞬思った。現実逃避したかったんだろうな。
だが、ここで一つ思いついた。
「待って、父さん。じいちゃんも」
俺はそう言って、何気なく隣のロゼを見た。
彼女は今にも泣きだしそうだったが、それでも、俺をまっすぐに見ていた。その美しい薄紅色の瞳を見た瞬間、俺は、自分でも驚くほど冷静になってゆくのを感じた。
神経が研ぎ澄まされて、視界が、急にクリアになったような錯覚さえした。
「こんなところで言い合っても仕方がないよ。それより、できるだけのことはするべきだと思う」
「できるだけのこと?」
俺は過去に読んだいくつかの情報を頭で整理する。思い出した。
「うまくいけば、奴を倒す……は無理だとしても、追い払えるかもしれない」




