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俺たちが部屋に籠ってから、だいぶ時間が経った。
すでに陽は落ちようとしており、階下の喧騒はだいぶ収まっていた。代わりに聞こえるのは、子供の不安そうな泣き声だ。
俺とロゼは先ほどの予想を告げるために、階下に降りて行った。
村長宅は元宿屋なだけあって、玄関と居間が広い。ドアを全開にしておけば、相当な広さになる。壁や床にところどころついている、赤茶色の染みが生々しい。
降りた瞬間から感じたのだが、もわっと立ち込める生臭い匂いに、俺は思わず口元を押さえた。ロゼが心配そうに俺を見るが、ここで尻尾巻いて逃げることだけは避けたかった。
二人で居間を覗くと、苦しげにうめく男性に、女性と小さな女の子が、泣きながら縋り付いていた。
玄関を挟んだ向かい側には、台所と食堂があるようだ。そこでグレイさんと二人の男性が、ぐったりとした様子で座り込んでいた。二人の男性はいずれも手当てをしたのか、手や足に包帯が巻かれている。格好からして、この人たちが森に入っていった樵だと思う。グレイさんは治療の手伝いをしていたのだろう。痛みで暴れる患者を押さえつけるのは、相当に力がいると聞いたことがある。その隣には、同じく疲れ切った様子で座っている初老の男性がいる。村の医者か、それに準ずる立場の人だろう。
奥では、セピアと村長さんの奥さんかな?年配の女性がお湯を沸かしている。
グレイさんは俺たちの姿に慌てて立ち上がろうとしたが、ロゼがそれを制した。
「大丈夫ですか」
俺が尋ねると、グレイさんは憔悴した顔で頷いた。ちっとも大丈夫そうじゃない。
「あの怪我をされた方は」
「酷いものです。片腕は喰われたそうです。ようやく血は止まりましたが、まだ油断ならない状況です。気の毒に……」
その言葉にぞっとした。凄惨な場面を想像したからではない。敵が、人の肉を、一部とはいえ喰った。それによって、ある事実が生じたことがわかったからだ。
「グレイさん。教えてほしいことがあります。彼らは、アーバを殺したのでしょうか?」
俺の質問を、グレイさんはバルゼレッタ語で、男たちに訊いてくれたようだ。
男たちが首を振ったので、俺とロゼは顔を見合わせた。ロゼも顔面が蒼白になり、眼鏡の奥のピンクの瞳が、恐怖で揺れている。
「先ほど村長が、隣村に援護を要請する手紙を書いてくれました。マロネに持って行かせました。無事な方の馬を使っていたので、恐らく一日もかからないとは思いますが……。この村は男手が足りないのです。間の悪いことに、猟師や農業を営む者の大部分が、冬は出稼ぎに出るらしく……」
「隣村の人たちは出稼ぎに行ってないのですか?」
「あちらはタールフ農家が多い。タールフは、冬が収穫期なのです」
そういえば、そんなこと言っていたな。こちらは、タールフの栽培はしていないようだ。土地が向いていないのだろうか、近いとはいえ山一つ挟んでいるので、そういうこともあるのかもしれない。
隣村とここからは、馬車でゆっくり来たら半日近くかかった。急げばもっと早く着くだろう。往復で一日近く。とはいえ、向こうだって準備はあるだろうし、天候が悪ければ、なかなか行くこともままならない。
仮に来てもらえるとして、助かると決まったわけではない。
以前グレイさんは俺に言った。この辺りは、アーバによる被害はほぼなかったと。つまりそれは、アーバに対する知識がないということでもある。
「グレイさん。これからみんなを集めてください。厄介なことが起こりそうだ」
俺が言うと、グレイさんは訝しげな顔をしながらも、俺とロゼの恐怖に満ちた表情に、黙って頷いた。
「グレイさん、ロゼ。通訳を頼みます」
「お任せください」
居間に集まった人たちを前に、俺は一呼吸置いて、静かに言った。
「俺の故郷には、アーバに似た生き物がいます。もしアーバの習性がそいつと同じならば」
俺はもう一度息を吸う。ゆっくりと。
「アーバは、ここにやってくる」
俺の言葉をグレイさんがバルゼレッタ語で伝えた瞬間、一斉にどよめきが起こった。男たちの顔には恐怖が広がっている。彼らはアーバと実際に戦ったのだ。その強さ、恐ろしさは、身をもって知っているだろう。
「やつらは、一度自分の獲物と認定したものに対して、恐ろしく執着します」
熊があれだけ攻撃を仕掛けたということは、恐らくだが、彼らを獲物と認定したのだろう。少なくとも、一番深くやられた人に対しては、絶対そう思っている。
熊は獲物への執着心が強い。そして、嗅覚が恐ろしく鋭い。犬の十倍というからには、自分の獲物がどこにいるのかなど、既に分かっているはずだ。
もしかしたら、既に外で隙を窺っているのかもしれない。
やつが獲物と認定した彼を狙ってここへ来る可能性は、恐ろしく高い。
その時村長が立ち上がった。激しい口調でグレイさんに何か言っている。
「信じられない、と言っています」
「もちろん、来ない可能性もあります。奴は負傷し、人間を恐ろしい存在だと認め、森から一歩も出てこない可能性だってある。それならいいが、最悪の想定をしておくことは大事だと思うのです」
俺の言葉、というより、それを訳してくれたグレイさんの言葉に、村長が言葉を詰まらせた。
「そして、ここが重要なのですが」
俺はさらに続けた。
「一度人の血の味を覚えたら、やつらは人を獲物と認識する」
よく、人を食べた熊は必ず射殺しなければいけないと言われているが、これはこの習性のためだ。
もしかしたら、今後この村にいる全員が、奴にとっては食料となる可能性もあるのだ。
居間が水を打ったように静かになった。みんなが一斉に黙りこくったからだ。さっきまで泣いていた親子までもが。
風に打たれたのか、窓の鎧戸が音を立てて揺れた。その音に、数人がびくりと身を竦めた。
きっと、さっきの俺と似たような心境なのだと思う。事態があまり飲みこめておらず、徐々に得られる理解。それに伴い段々と広がる恐怖、絶望。
さっきまで泣いていた母親が、ぎゅっと子供を抱きしめた。
樵たちは戸惑ったように顔を見合わせている。
突然、そのうちの一人が立ち上がり怒鳴り声を上げた。
「でたらめだ、と言っています」
そうだろうな。彼らからすれば、俺たちはよそ者だ。おまけに、明らかにこの国の人間じゃない容姿だ。そりゃ信用ならないだろう。下手すれば、俺たちがアーバを連れてきたとか言いだされるかもしれない。もともとアーバは絶滅したと言われていたのだから。
それに信じたくもないだろう。こんな恐ろしいこと。
村長が必死で彼らを諌めている。おそらくは説明しているのだと思う。俺たちが、国から派遣されているのだと。手荒に扱って、最悪な事態が起これば、どうなるかも伝えているのだろう。




