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バルゼレッタに来てから今日で四日目だ。少しずつ慣れてきた。
家族の日課も復活している。朝食後は、じいちゃんはクロと散歩、父さんは素振り、母さんはジョギング、姉ちゃんは弓の練習と、それぞれの用事で中庭へ行く。
俺はシロと一緒にゴロゴロしながら、ロゼやセピアと話すだけ……と言ったら、何だか俺が女たらしみたいだが、この国の言語を学んでいるだけだ。文法は英語に近い分、だいぶ楽だ。セピアからもらった紙を小さく切り、単語帳も作った。何しろ時間は有り余っている。
ロゼには簡単な挨拶から、よく使う言い回しを教えてもらい、セピアからは単語を教えてもらう。トラベラー英会話みたいなノリだ。
今日もそうするはずだったのだが、姉ちゃんにたまには外に出ろと引っ張られた。
「蒼ちゃん、もうずっと部屋に籠りっぱなしでしょ。少しは動かないと駄目よ」
姉ちゃんはいつも俺のことを「蒼ちゃん」と呼ぶのだ。友達の前でこれをされると、少し恥ずかしい。やめてくれと言っても、もう癖になってしまっているそうだ。何でも、桃子ばあちゃんが、俺のことを「蒼太ちゃん」と呼んでおり、それを真似したのが発端らしい。
姉ちゃんの学校とうちの学校は割と近い。学校長同士が友人だったとかで、やたら交流があるのだ。そして、どちらも昔弓道をやっていたために、弓道部に力を入れている。そのせいか、弓道部のエースである姉ちゃんは、うちの学校でも有名だった。弟の俺が言うのもアレだが、姉ちゃんの容姿も一役買っているのだろう。中身はがさつな大食い女だとかは、言わなきゃわからないし。
「それにしても、冬休みは潰れちゃうわね」
歩きながら姉ちゃんがため息をついた。そういえば、食事だけでなく、衣服も支給されている。ヒラヒラのドレスが届けられた時、姉ちゃんの顔が綻んだのを俺は見逃さなかった。
普段はクールを気取っている姉ちゃんは、普段着も飾り気のないスポーティなものが多い。スカートはほとんど持っておらず、大抵はジーンズやキュロットだ。アクセサリーの類もあまり持っていないし、化粧したところなんか見たことがない。そんな姉ちゃんだが、少女趣味が嫌いなわけではない。この前姉ちゃんが真剣に読んでいる雑誌を何気なく覗いたら、一面リボンだとか、レースだとか、小花だとか、とにかくフリフリなパステルカラーの写真で満載だった。
とはいえ、フリフリのドレスで弓の練習はできず、ほとんどがこの前の第二王女様が着ていたような、シンプルで動きやすそうな服だ。弓の練習の時は、リュックに入れていた弓道着を着ている。せっかくの機会なんだから、フリフリドレス着て一日おとなしくしていればいいのに。
「二週間は帰れないんだっけ?ということは、ひょっとしたら、新学期一日目はお休みすることになるかも」
そうなのだ。新学期が始まる五日は金曜日。それさえ過ぎれば休日だが、ここだけがネックだ。いやそれ以前に、家族が突然、生活の匂いを残したまま忽然と消えているのだ。今頃大騒ぎになっているんじゃないだろうか。
「そうなると、冬休みの宿題どうしよう。ねえ蒼ちゃん、宿題手伝ってくれる?」
「……いいよ」
姉ちゃんの心配は宿題か。別にこんな状況じゃなくても、姉ちゃんの宿題を手伝うのは、ここ数年の恒例行事だ。姉ちゃんはスポーツ万能だけど、勉強は苦手なのだ。
俺もレポートがある。簡単に調べ物ができない今の状況では結構きつい。
この城の中庭は広い。乗馬ができるくらいだから当然だが。馬小屋と、それを世話する馬番の小屋まであるし、ちょっと行った先には、果樹園があり、畑もある。この城、自給自足できるよな。
日本の城でも、よそから攻め込まれた場合、籠城戦に持ち込むことが多々ある。たぶん、そういうのを想定しての設備なのだろう。この城なら、兵糧攻めにも相当長く耐えられそうだ。
着いた早々に姉ちゃんは弓袋から弓を取り出した。驚いたことに中庭には割と人がいた。しかも、どうやら姉ちゃんの練習を見物に来ているようだ。姉ちゃんの練習は、案内された日と、昨日の二回だけしかまだやってないはずだが。
この華やかな服装の中に、袴姿は珍しいだろうが、見物人のほとんどが男だというのが気にかかる。当の本人は気にする風でもなく練習に取り掛かっているが。これはおそらく、常日頃からこういう光景には慣れているのだろう。人気者だしな。
おや、と思ったのはその時だ。見物人の中に、鎧を着た人間が紛れている。城の兵士かもしれないが、こんなところで油を売っていていいのだろうか。
髪は暗めのアッシュグレーといったところか。結構かっこいい色だ。地毛なのだろうか。だとするといいなあ。うちの学校は、それほど染髪にうるさくはないので、本当は染めてみたいと思っている。似合わないからしないが。これくらいの色なら、おそらく生活指導から何か言われたりはしまい。
その灰色の髪は短く切り揃えられている。これは動きやすいためなのだとは思うが、その割には前髪がやたら長い。無精なのか、それともそういうファッションなのかは俺にはわからない。そのせいで、顔立ちがわかりにくいが、よく見たら割とイケメンなのではないだろうか。
彼は口を真一文字に結んで姉ちゃんの練習を眺めている。今気づいたが、もしかして、俺たちの中の誰が勇者様なのか見極めようとしているのかもしれない。
候補としては、父さんか姉ちゃんが妥当だろうなあ。父さんは一昨年までプロ野球選手だったし、力、体力ともに常人以上はある。姉ちゃんは弓道部のエースだし、どちらも化け物退治には、俺より断然向いている。
姉ちゃんの練習は試合形式なのか、四回射る。俺もよくは知らないのだが、矢は二種類あるのだ。これは、つけている羽によって変わる。というのも、羽を二つに割っているため、表と裏ができる。つまり、射る時の矢の回転が時計回りか、逆回りなのかで、呼び方が違うのだ。
作法としては、最初に甲矢(時計回りの方だ)。次が乙矢(逆回りの方ね)。このワンセットで〈一手〉。これを二回。
一段落ついたところで、先ほどのアッシュグレーの戦士が近寄ってきた。姉ちゃんは明らかに俺に助けを求めるように見ている。知らない男性が来たことにじゃなく、絶対に言葉が通じないであろう人間が来たことに緊張しているようだ。
俺もどうしようかと思った。まだこちらの言語はそれほど覚えていない。簡単な挨拶程度はできても、あれこれ話すことは不可能だ。そう思っていたら、向こうが英語を使ってくれた。ロゼよりもっとたどたどしいものだったが、俺もそう人のことは言えないのでちょうどいい。
この世界に、ロゼ以外に英語を使える人間がいたんだあと思ったが、考えたらそりゃそうか。何かあったらわざわざ異世界から人を呼びつけるのだ。その言語を覚えておこうと、普通は思うよな。
その男の名はグレイ・エスクード。名前が髪色と全く同じで、一瞬笑いそうになった。向こうも、俺がなぜそんな顔をしたのかわかったらしく、照れたような笑みを浮かべた。思ったより気さくなタイプかもしれない。
後でわかったのだが、グレイさんの名付け親が、過去の勇者だったのだ。おそらく先々代の方か。犬や猫じゃあるまいし、見た目の印象をそのまま名前に反映してしまったのか。どういうネーミングセンスだ。
英語を学んで、自分の名前が灰色だと知った時の彼の心境はいかばかりだったか。
彼はこの城の兵士で、近衛隊の小隊長なのだそうだ。確かに体格は細身だけど、俺みたいなひょろっとしたイメージはしない。無駄な肉は一切ないけど、必要な筋肉はしっかりついているのだろう。鎧を着ているからはっきりとはわからないけど。もしかしたら、脱いだら物凄い筋骨隆々のマッチョだったりして。
年齢は二十一歳と、意外と若い。失礼な言い方になってしまったが、あまりに落ち着いているから、てっきりもっと上かと思っていた。西洋系の顔って、どうも年齢が判断しづらい。
それにしても、その年齢で一隊を任されている小隊長というのは、かなりすごいのではないだろうか。この国の就職事情がわからないから何とも言えないが。
今現在、敵の情報は掴めていない。けれど敵の居場所がわかれば、勇者は当然そいつを退治しなくてはいけない。彼は、そんな勇者を護衛するのが仕事なのだそうだ。
考えたら、オルゴの呪いだけがこの国の人には厄介なのだ。それさえなければ、俺たちより強い人なんか、掃いて捨てるほどいる。
「十年前の勇者様には、父が護衛につきました」
「十年前の勇者、ですか。どんな方だったのですか?」
「私はお会いしていないので詳しくはわかりませんが、気さくな方だったそうです。オルゴを見事倒され、二週間後にお帰りになりました」
前回の勇者は無事に使命を果たし、最短時間で帰ることができたのか。それはよかった。
「蒼ちゃんは、やっぱりすごいのね」
帰り道、姉ちゃんがしみじみとした口調で言った。
「何のこと?」
「さっきも、知らない人と普通に会話していたでしょう。英語だってことはわかったけど、内容は全くわからなかった」
姉ちゃんは少し寂しそうだ。いつも多くの人々に囲まれ、中心的存在だった姉ちゃんが、突然異世界に呼び出され、言葉も通じない文化も違う空間にいるわけだ。会話できるのは家族だけ。これは結構辛いものがある。
俺としても、この国の言語を学んでいるのは、ただもう、ひたすら退屈だからに他ならないのだ。極力危険なことはしたくはないが、何もしないでいるのもかなり苦痛だ。
「いつまでこんな生活が続くんだろうね」
俺にもわからない。今のところ、ロゼやグレイさんが一生懸命調べてくれているのは知っている。敵の情報が掴めたら、彼らが俺たちを守ってくれるのもわかっている。
俺たちが不安を持つことの要因に、味方が少ないこともあると思う。ロゼやセピア、グレイさんは好意的だが、それ以外はどこか異質なものを見るかのようだ。
そしてそれ以上に、もっと強い何か。常にピリピリとした視線を感じている気がするのだ。
これは姉ちゃんも何となく感じていたようだが、物珍しそうに俺たちを眺める人たちからは感じられない、何か異様な空気。緊迫感といったものが、そこここに漂っている。
そしてそれは、気のせいじゃなかったのだ。




