あなたの隣の私の前
雪になり損ねた小雨が隣のマンションとの間を左から右に振っていた。
「あれ?」
誰が降らしているわけでもないのに左上を睨むとやはり眩しくてもっと顔が険しくなった。太陽が出ているのに雨が降っているときは騙されたような、救われたような気分になる。私はあたたかい家の中に引き返し様子を見ることにした。
外出するのは好きじゃない。おいしいものやほしい服が定期的に届いてくれるなら私は休みに一人で買い物なんて行かない。ものぐさだと御云われそうだがそのとうりでもあるし、別に理由もある。
今日は昨日彼氏と行ったパン屋のメープルパンがどうしても食べたかった。私の好きなものが寄せ集まったようなそれはとてつもなく甘い。行ったついでに新しく始めるバイトの規定の服装である黒のズボンも買おうと多少意気込んでいたのに。
バイトはやりたかったが迷って結局していなかった時に、比較的親しいサークルの友達の『大学生になったらバイトはやらなければいけない。してない奴はニートだ。』という脅迫概念に体当たりされ、ろくでなしのレッテルを恐れてつい嘘をついた。
そのことによってさらに重ねられる嘘に耐えられなくなったのでバイトを始めたのだ。嘘のバイトエピソードを一生懸命語っていた時には友人に硬い奴めと厭味を唱えていたが9:1で落ちたと思っていたバイトに受かった今ではふんぎりをつかせてくれた友人に感謝している。私は勝手なのだ。
その採用の電話をもらった時に私は手帳を持っていなかった。自主休学中のわたしが開いていないわずかな時間帯はサークル関係しかないような手帳はどう考えても持ち歩く必要はなかった。初出勤が彼氏のバンドのライブの日と重なっていたのを知ったのは生き生きとそれを開いた時だ。白いはずの16日・afternoonのスペースにはすでに先約がいた。
「・・・なんでこれくらい・・・しっかりできないんだよ・・・ああ」
自分の愚かさに涙が出そうだった。私は普段独り言は言わないがこんなことを立て続けに5回は言ったと思う。
惰性というか辞めると言い出せなかった小心さから鬱々と続けていたバンドサークルでギターとしてサポートに入ってくれたのが彼だった。
面識はあったものの彼は飲み会でわざわざ一年生のテーブルに来て相手をしてくれる先輩ではなかったので話をしたことはなかった。そんな彼に告白されたのは定期演奏会の前日の練習帰りで生徒が飾った中庭のイルミネーションがひどく綺麗だった日だ。彼の自転車のライトの光が強くてよく前が見えた。
「どうしようかな・・・。」
「え?」
「・・・・・・」
「どうしたんですか?」
「・・・・・・」
しばらく沈黙を聴いた後
「真剣な話がしたいんやけど。」
「はい。」
「率直に言うと・・・君が好きなんだ。」
「・・・え?私ですか?」
馬鹿な事を言った私に彼は恥ずかしそうにうなずいてくれた。
彼は余り彼氏としてはよくなさそうに見えた。背は高くなく体重は軽そうだと思っていたが10センチ身長差のある私より軽かった。メガネとベレー帽のような帽子もかぶっているので一見おたくっぽい。実際電子系音楽と音楽ゲームには相当な知識があるけれど。性格は面倒見がよくてしっかりした人だとは思っていたが特に恋愛感情はなかった。
しかし私は何かを求めるようにして告白を受けた。
一緒に時間を過ごしていくうちにメガネをとれば歯並びは悪いが整った顔をしていることがわかった。寝顔は猫のようで普段の冷たそうな様子とは反対でかわいい。彼の飼っている猫によく似ている。普段とは別人のように甘えて首筋に顔をうずめて私の臭いをかいだり、胸をふにふにと触る様子は母親に甘える本物の猫のようで、ギターを弾いてくれる時の弦の上を上手にすべる手先もとても素敵だった。
彼は私が大学にほとんど行っていないことを知っている。私は面倒くさいからだと言った。それも本当のことだが人が怖いのが一番の理由だった。咳ばらいや視線が怖い。高校時代のトラウマだ。鬱なのかもしれないと疑った時もあるが病院は嫌だった。病院に行ってあの心療内科のオルゴールの音色と白いロビーで病人なのだと認めることになるのが恐ろしかった。
「ちゃんと明日の金曜の授業ぐらいは行ってよ?」
う、うんと私はとてもウソくさく彼の斜め上を見た。
「半端ないことになるよ?」
と彼は呆れ気味に寝返りを打ち、私の腰を引き寄せた。
彼はわたしの体の胸やお尻などいろんな所を触る。けれどしようとはしない。勃起しているのは抱き合っているときに分かるのだが
「まだ早いと思う。」
とやんわりと言っていた。そんな彼のやわらかな髪をなでながら私は幸せだと思った。泣きそうになった。優しいのだ。以前付き合った男が酷い男だったのを差し引いても彼は優しい。その男は付き合った次の日にセックスを持ちかけるような男だった。が、それを結局は喜んでいたので私も酷い女だった。求められていたのが私ではなくて女の体だとわかったのは今の彼のおかげだ。
「私なんかのどこを好きになってくれたの?」
と聞けば
「上手く言えないけれど笑顔がかわいいから」
と俯きがちに言った。私がふふと笑うと
「そう。笑うときちょっと目が大きくなるよね。」
「えー?」
照れ隠しに少し大きな声でよく分からないという声を出した。その言葉がすごくこそばゆくて。
「そうやって笑うときは細くなる。」
少しふふんとしてメガネを外した目で笑っていた。
クリスマスは町の中心にある城山を登り(誰もいないだろうねと話していたがそんなカップルはもう1組いた)、中高生のハンドベルを聞き、デパートの屋上にある観覧車をくるりと堪能してカフェでお茶を飲んだ。往々にして学生はお金がないのだ。
私のマンションへ帰ったときには町中を歩いていたので結構疲れていた。
体の筋を伸ばしあった時に彼は立って床に手をつけるのは得意だが座って体を二つに折れないことを知った。背中をぐいぐいと押しても断固として動かないのがおもしろかった。私は昔は固かったが今は両方得意だ。
ストレッチにも飽きて絨毯の上でごろごろと抱き合っていた時にキスでもしようかと言ったのは私だった。たまに突飛なことを言いたくなったりしたくなったりするのは普段の抑え込んだ行動の反動だろうか。彼は初めてで手さぐりに私にキスをした。彼の唇は柔らかかった。
「その・・・下手でごめんね。」
「ううん。なんていうかな。気持ちいいよ。」
「幸せ?」
「うん。」
彼にもう一度キスされたときは舌を少しなめ合った。その感触に小さく身震いした。彼の唇にはきっと彼の飼っている猫と私しか触れられないのだと思うと温かい独占欲を感じた。
部屋の窓から後ろの空を眺めると雨の日とはいいづらい明るさだった。目を凝らして水滴を探そうとしたがそれらしいものは空から落ちてこないようだったので私は玄関に向かった。今日は今年一番の寒さだ。 12階まで上がっていたエレベーターをマンションの半分の階まで呼び出し、やっと地上へ降りた。
自転車のサドルは駐輪場から少しはみ出していたので少し濡れていたがジーパンになすりつけ、合理的でない方向に一回りしてからマンションを出た。化粧はしているが以前誰かに笑われた気がする服装をしていたのが気がかりだ。他のものにしようと思ったがセンスが同じなのでどうしようもない。私は私なのだ。
信号がうまく変わって、思ったより早く着きそうだ。 パン屋は大型スーパーの1階にある。彼の食べていたベーグルも買おう。半分分けてくれた白パンもおいしかったがあっちも食べてみたかった。白ゴマの粒粒がきっと私の好みだ。
ふと明日は彼にやっぱりライブに行けないことを正直に謝ろうと思った。きっと少し落ち込んだ後応援してくれるだろう。
外に出て、パンを買って、バイトの服を揃える。多分ありふれていることだろう。そんな日常をまた、負けそうになってもあなたへの感謝とともに送ろう。
拙い文章ですが人との出会いや恋愛の素晴らしさを少しでも伝えられたらと思い書きました。