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短編

古戦場にて

作者: 鶴形怜

 近くに爆弾が落ちた。

 すさまじい爆風によって彼の体は枯れ葉のように容易に吹き飛ばされる。

 背中から地面に墜落する。まるで空気の抜けたボールかのように小さく地面で跳ねて、やっと止まった。

 転がった先で痛みに低く呻く。体を強く打ち付けたようでなかなか動けない。


 しばらくじっとしていると粉塵が晴れた。

 唯一動かせる目で隣にいたはずの友人を探した。

 友人は数メートル離れた場所にいた。砂と煤にまみれた筋肉質な身体。その首は不自然な方向に折れ曲がっていた。絶命していることがすぐに分かった。……人の死にも、もう随分慣れてしまった。そんな自分が嫌だった。

 彼は止まっていた息を細く吐き出した。大切な友人の死にも関わらず、乾いた瞳から涙は出なかった。


 ようやく動かせるようになった脚と腕で地面を這う。遠くから爆弾の音と銃声が響き渡る荒野で必死に友人の体に手を伸ばした。

 体の下で砂利が音を立てる。額を伝った汗が地面に垂れて水玉模様を作った。

 やっとの思いで上体を起こす。ヘルメットの下の友人の顔が見えた。彼は口の端から血を流し、目を見開いたまま絶命していた。いつも笑いかけてくれていたのに、もう話すことすらできないのか。

 目を伏せ、彼はそっと手を伸ばしてまぶたを閉じてやる。


 この戦争が終わったら、やっと我が子の顔が見れるんだ。だから生きて帰らなきゃ。

 知り合ったばかりのころ、そう言っていた。

 彼は友人の胸元を探ってロケットペンダントを取り出した。この中には彼とその妻が写った写真が入っている。彼はよくペンダントを開けてはその中の妻の写真を見せびらかし、どうだ美人だろう、あげないからなと惚気ていた。

 帰ったらこのペンダントを……彼の妻に渡さなければ。

 戦場でも家族のことを忘れずに戦い抜いた男の想いを伝えなければ。

 それに、俺にも帰ったら結婚すると約束した恋人がーー。

 絶対に生きて帰るんだ。

 後ろ髪を引かれながらも、戦友からゆっくりと離れる。先ほどの爆発やこれまでの戦いで傷を負った体を引きずり、後ろを振り返った。

 動かなくなったその体は、吹き上げられた砂に隠されて見えなくなった。心にぽっかりと大きな穴が開いた気配がした。


 死のにおいがたちこめる強い風が吹いていた。天を仰ぐと、砂の混じった空気の向こうに抜けるように青い空が見えている。

 彼の魂は無事に天上に行けただろうか。

 考えを巡らせていると突然、近くでまた爆発音がした。弾かれたように砂埃の晴れている方へ彼は走り出す。

 視界の端に大きな影を捉えた。戦車などでは無さそうだ。

 警戒しながらもじりじりと近づいていく。大きな影は、地面から突き出た大きな岩だった。

 岩陰へ走った。周りに何の気配もないことを確認して一息つく。

 置いてきてしまった友人のことが気掛かりだった。本当ならたとえ物言わぬ死体でも連れて帰りたかった。しかしそんなことをしていてはこの戦場では生き残れない。それは分かっていたからやむなく置いてきたのだった。


 この戦場には死体がいくつも転がっている。少し見渡せば死体らしき影が砂埃の向こうにいくつか見えるくらいだ。一体この戦争で何人の兵士が死んだのか。

 近くで戦いが始まったようだった。怒号や断末魔、銃声が響く。ここにいてはいずれ見つかって殺られてしまう。心臓の音が嫌に大きく聞こえる。やめろ、絶対にこっちに来るな。俺を見つけるな。頼むから――。

 彼は祈るように恋人の名を心の中で呼んだ。


 俺は……彼女に……。



 岩の向こうからいくつもの足音がした。彼は絶望の淵に立ちながらその音を聞いた。




 戦場に乾いたひとつの銃声が鳴り響いた。




* * * * *




 シャノン・スペンサーは、荒れた平原を歩いていた。落ちかけた太陽に照らされて、彼女の瞳がオレンジ色に燃え上がる。

 あるのは枯れた木と、乾いた土だけだ。

 一陣の風が吹いて砂を巻き上げた。


 ここで50年前、何千人もの兵士が命を落とした。

 宙を飛び交う弾丸、血の染み込んだ土。

 あの岩影ではたった今、一人の兵士が天国へ旅立った。

 50年前の光景が、戦争を経験したことのない彼女の目にも思い浮かぶ。

 やっぱり現場は大切だ。これなら良い記事が書けそうな気がする。ワクワクして彼女はニヤけながら身震いした。

 書き込んでいた取材ノートにペンを挟み込む。とりあえず今のところはここまでで良い。

 でももう少しリアリティが欲しい。ここで死んだ兵士の霊にでもインタビュー出来たら最高なのに。


 そんなことを思っていると、誰かの気配を感じた。全く気づいていなかったけれど、真っ黒な枯れ木のそばに誰かがいる。

 彼女の心臓は高鳴った。

 黒い人影がこちらを振り返ったように見えた。


「こんな時間にどうされたんですか、お嬢さん」


 突然話しかけられ、シャノンは息を呑んだ。

 男はゆっくりと近付いてくる。夕陽と反対側に伸びた長い影がゆらゆら揺れた。彼女は夕陽の眩しさに目を細めた。


「……あなたこそ」


 低い声で答える。

 もし幽霊なら影はないはず、だけど……。

 しっかり影もあるし、何なら足だってしっかりある。幽霊ではなさそうだ。

 夕陽の影になって見えなかった顔が見えるようになった。オレンジに染まった横顔は思いの外美形だった。年のころは自分とほぼ同じくらいだろうか。すっと通った鼻筋が涼しげだ。


「俺は……そうそう、風に当たりに」

「……」


 いや、さすがにその理由はないだろう……、とシャノンは疑わしげな目で彼を見て明らかに警戒する雰囲気を放つ。いかにもその場で考えたような理由だ。もしかしたら乱暴を働かれるかもしれない。こんな夕刻だ。このような荒地に人なんていないだろうと油断していた自分も悪いが、いつでも踵を返して逃げられるような心構えをしておいた方がいいだろう。


「あー、そんな目で見ないでくださいよー。俺、なんとなくここまで出たきただけだし……」


 と言ってにへら、と笑いかけてきた。やばいやつほどこういう時笑いかけてきたりするものだ。

 ――こいつちょっと危ないんじゃないか。


「そ、そうなんですね。では私は失礼します」


 シャノンは即座にくるりと踵を軸にして180度回転した。そしてそのまますたすた歩き出した。


「待って待って帰らないで俺ほんとに怪しいもんじゃないから」


 背後から走ってくるような足音がする。やばいやばい、追いかけてきた……!逃げなきゃ……!

 後ろをチラリと見てみると慌てて片手をこちらに伸ばして追いかけてくる男の影が見えた。恐怖がじわじわと心臓を蝕んでいく。

 本当に怪しい人ほど自分は怪しくないなどと言うものである。こんな奴の言うことを聞く必要は一切ない。むしろお巡りさんに通報して言うことを聞いた方が良い。

 激しい心臓の鼓動。うまく動かない脚がもどかしい。早く逃げないと。


「ああああ待ってええええ、違う違う、君に聞きたいことが」

「……」

「君の親戚に……マルヴィナ・ブルックって人はいないかな」


 シャノンは足を止めた。彼の方を振り返ると、夕陽のオレンジの中に彼女の長い金髪がキラキラと舞った。

 マルヴィナという名前は、温かい記憶とともに思い出される懐かしい名前だった。


「マルヴィナは……おばあちゃんの名前よ。昔の名字はブルックだって聞いたことがあるわ。でも、なぜ……?」

「さぁ、何でだと思う?」

「……」


 ふざけたように彼は言い、ニヤニヤした顔をこちらに向けてきた。苛立ちと先程まで感じていた恐怖とが入り混じって混乱する。

 なぜ祖母のことを知っているのかとか、なぜシャノンの顔を見ただけで祖母の名前を言い当てたのかとか、そう言う疑問はどこかへ飛んでいってしまった。

 シャノンはまた歩き出した。


「帰らないでー、ごめんてー」


 乞うような声音で何度もごめんごめんと謝るので、嫌々ながら足を止めた。少し落ち着くと、実際先ほどの疑問が気になっていたのは事実だった。

 ため息をつきながら横目で彼を軽く睨んだ。


「俺、アイヴィー。アイヴィー・コーウェル。君のおばあさんの写真を見たことがあってね。瓜二つだったもんだから」

「私はシャノンよ。おばあちゃんに似てるとはよく言われるわ……」


 再度ため息をついて名乗り返した。

 この男はなぜ祖母の写真を見たことがあるのだろう。

 疑問がぼんやりと頭に浮かんだが、さりげなく手首を掴まれてまたしても疑問は空の彼方へと飛んでいった。


「だよねー。ほんとそっくりだもん」

「……もう良いわよね。帰るわ」


 軽く彼の手を振り払って、彼女は歩き出そうとする。が、またしても手首を掴まれた。

 この男、これ以上何かやってくるようなら訴えてやろうかしら。そろそろ色々と限界だ。

 ヘラヘラと男は笑うと、少し困った顔をした。引き止めたくて必死らしい。


「帰らないでー。そ、そういえば君は何でこんなところに?」


 彼女はもう何度目かわからないため息をついた。


「取材よ。私ライターなの。50年前の戦争について記事を書こうと思ってるのよ。……あなたには関係ないでしょ」

「つれないこと言わないでよー。そうだ!俺も協力するよ!」

「結構です」


 ふと、彼の目を見た。先程までとは何か様子が違う気がした。まるで、別人になったような……。神秘的な緑の瞳に吸い込まれそうだ。風が二人の間をそっと吹き抜けていった。

 彼は柔らかく微笑んで、まるで愛しいものを見るようにシャノンを見つめた。


「――その取材ノート、見せてくれない?」

「……まぁ、良いわ。はい」


 一瞬言葉に詰まったが、なんとか声を絞り出してノートをそっと差し出した。彼の雰囲気の急激な変化に心臓の鼓動が速まっていた。

 彼の、細くて長い指がノートのページをめくっていく。シャノンは何も言えずにその指を目で追うことしかできなかった。お互いに何も話さず、聞こえるのは穏やかだが冷たい風に吹かれてカサカサと音をたてる枯れ木の音や、寂しげに鳴くカラスの鳴き声だけだ。

 夕陽は彼がノートを見ている間に徐々に沈んでいき、最後の一筋が二人の横顔を照らした。


「……よく調べてあるね。大体は合っているよ。ただ、ここが違う」

「へ……?」


 シャノンは呆然と彼を見つめた。細い指は、調べた時にも情報源があまり確かではなかった部分を指していた。その表情は真剣そのものだった。

 さっきまでのおちゃらけた雰囲気はどこへ行ったんだろう。

 彼はふっと笑った。同じ年頃の人だとは思えないような穏やかな笑い方だった。


「よく調べることだね」

「分かったわ。でも……どうしたの」


 寂しげに、昔を懐かしむように男は微笑んでいた。その目が彼女へと向けられる。

 息が詰まるような気がした。


「……何が?」

「いや、……何でもないわ」


 シャノンの言葉を聞いて、今までの雰囲気は一体何処へやら彼はにやっといたずらっ子のように笑った。


「ねぇ、取材に協力するからさ、明日も会えないかな?」

「……ええ。指摘されたところ、よく調べておくわ」

「ありがと!じゃあ明日もまたこの時間にここで。気をつけて帰ってね」

「じゃあね」

「ばいばーい!」


 別に勝負なんてしていなかったがなんだか負けたような気がして、納得いかない気分でシャノンは彼に背を向けた。彼に対する警戒心はいつの間にか消えていた。

 日が沈んですっかり暗くなった荒野を、滞在している宿に向かって歩く。ここからそう遠くはない、宿のある町は夕闇にキラキラと光っていた。途中で後ろを振り返ると人影はもう見えなくなっていた。

 ――彼は何者なのだろうか。

 好奇心が掻き立てられる。きっと自分は明日約束を違えずに彼に会いに行くのだろう、とぼんやりと思った。




* * * * *




 宿に戻って、持っていた資料を端からさらってみた。指摘された内容を早く確かめたかった。何冊もある資料を次々と捌いていくがなかなか見つからない。

 なにくそ、という気持ちで探し続けた。負けず嫌いな気質が早く正しい情報を見つけろと叫んでいた。この気質が幸いしていつも良い記事が書けているのだと自分では思っている。世間での彼女の評価は高い。

 だからこそ悔しかった。あんなちゃらんぽらんに指摘されるなんて。

 彼女の部屋の明かりは明け方まで消えることは無かった。


 翌日の朝、睡眠不足で眠い目を擦りながら町の資料館へ向かった。この町には戦争を忘れないため、戦争のことについて書かれた資料がたくさん置かれた資料館があるのだ。一度や二度ほど足を運んではいたが、しっかり調べられていたかといえばそうではない。何としてでも指摘された部分だけは正しい情報に直さなければ。

 うとうとしながら数時間かけて探し、ようやく見つけた。もうお昼ご飯の時間はとうに過ぎていた。

 探していた情報は、生き残った兵士へのインタビューをまとめたものの中にあった。戦いを経験した者にしか分からないことだ。

 彼はこの町の住人なのだろうか。もしかしたらこの資料館であの戦争について調べたのかもしれない。

 ほっとしたのか、いつの間にか彼女はその机に突っ伏して寝てしまっていた。

 目が覚めたのはほぼ陽も沈んだ夕刻だった。

 一瞬寝ぼけた頭でぼんやりと夕陽の差し込む窓を眺め、次の瞬間シャノンは飛び起きた。血がサーっと下がっていくのを感じた。

 どうしよう、彼はもう帰ってしまったかもしれない。

 とりあえず周りの資料をかき集め、あらかた片付けて資料館を飛び出した。重い鞄を背負って町の大通りを駆けていく。はぁ、はぁ、と息を切らせて荒野まで走り出た。その頃にはもう陽は完全に沈み、夕闇に荒野の岩や枯れ木が月の弱い明かりに照らされて不気味に浮き上がっていた。

 待ち合わせ場所の、町に一番近い背の高い枯れ木の側に人影が月明かりで照らされてひっそりと佇んでいた。足音にゆっくりと振り向く。表情は見えないが、張りつめていた彼の雰囲気がほっと和らいだ気がした。


「良かった。――来てくれないかと」

「違うの、調べ物をしていたらいつの間にか寝てしまって……ごめんなさい」

「大丈夫。君に会えただけで俺は満足!」


 暗闇の中でも彼がにっこりと笑顔になったのが分かった。シャノンは苦笑いを返す。


「それはどうも。ところで、調べ直したのを見て欲しいんだけど……暗くて何も見えないわね」

「そうだねぇ、町まで戻ろうか」

「あなたは町の人なの?」

「んー、さぁどうだろうねぇ」


 こっちだよ、とさりげなく手を握ってくるのを平然と払いつつ、シャノンは前を進むアイヴィーの月明かりにぼんやりと浮かぶ背中を眺めた。

 なんとなく荒野に住んでいるのかと漠然と思っていた。荒野は住める場所なんてほとんど無いのに。

 不思議な人。この人のことをもっと知りたい。

 好奇心が駆り立てられる。謎めいた雰囲気のベールを剥ぎ取って、本当の彼がどんなものなのか知りたくなった。


「ねぇ、あなたは何をやってるの?」

「職業?」

「ええ」

「俺は学生だよ。長期休みだから滞在してる」

「そうなのね。歳は?」

「21だよ。何?取材?」


 アイヴィーは笑い混じりに答える。


「ついそんな感じになっちゃったわ、職業病ね」

「別に構わないよ。じゃあ君のことも教えてくれない?」


 急に隣から顔をのぞき込まれてぎょっとした。つい目を見開いてしまう。


「……そうね、何が聞きたいの?」

「君の年齢は?」

「24よ。あなたはなぜ戦争について詳しいの?」


 近づいてきた町の明かりの中で彼は少し困ったような顔をして笑った。


「これはあんまり聞いて欲しくないなー」

「あら、ごめんなさい。色々知ってるから不思議に思って」


 困った顔の彼に、シャノンはしれっと答えた。様々な人にインタビューをしているとこういうこともある。


「まぁ、だんだんね。君にはいずれ話さないとかなって思うから」

「なぜ?」

「さぁ、なんでだろうね」

「はぐらかさないでよ」


 彼は軽く笑ったが、シャノンが何度聞いても結局なぜなのかは教えてくれなかった。さらに謎が深まる。

 そんなやり取りをしているうちに町に着いた。


「どこかお店でも入ろうか。君、ご飯は食べた?」

「まだよ」

「奇遇だねぇ、俺もなんだ。一緒に食事でもどうかな?」

「……まぁ、良いわ。そうしましょう」


 若干嵌められた感は否めないが、そうするのが一番手っ取り早い。夕飯を食べたら取材ノートを見てもらうことになった。

 通りを少し歩くと、あまり目立たないが温かい雰囲気の店に案内された。シンプルな木の看板が軒先から下がっている。店の中も木を基調としており、アットホームな雰囲気だった。二人は一番奥の窓際の席に座った。

 アイヴィーは店のおかみさんを呼び、鶏肉の料理を注文した。シャノンはおかみさんにおすすめを聞き、その料理を注文した。

 料理が届くといい香りが鼻腔に広がる。一口食べると口の中でほろりと崩れた。つい笑みがこぼれる。


「ここのお店美味しいわね。行きつけなの?」

「うん、去年もよく来てたんだ。やっぱり美味しいなー」


 彼も笑顔である。伏せられた、まつげの長い目元をシャノンはぼーっと眺めた。それに気付いたアイヴィーが訝しげな顔をしたので、何でもないわと言って慌てて目を料理へと落とした。手を動かして料理を口へ運ぶ。あっという間に食べ終えてしまった。

 食事後の皿を下げてもらうと、シャノンは取材ノートを広げた。


「指摘してもらった部分は直したわ」

「あ、本当だね、ちゃんと直ってる。これ調べるの大変だったんじゃない?」

「そうね、町の資料館でようやく見つけたわ。なぜあなたはこの情報を知っていたの?」

「まぁ色々事情があってね。あぁ、他にはここも気になるかな。詳しい資料を調べてみると良いよ」

「やっぱり教えてくれないのね……。まぁまた調べてみるわ」


 シャノンが少し寂しげな顔をすると、アイヴィーは苦笑いをした。


「そのうち……ね。――あのさ、君にお願いがあるんだけど」

「何?」

「君のおばあさんの話を聞かせて欲しいんだ。……良いかな」

「別に良いわよ。なぜ?」


 アイヴィーは一瞬迷った顔をした。彼はため息をつくと、自分の髪をくしゃりと掴んだ。


「実はさ……俺のおじいちゃんの弟、つまり俺の大叔父さんに当たるんだけど、この人が君のおばあさんの知り合いだったんだ。だから……彼女がどんな人生を送ってきたのか気になって」

「ふーん、ただの知り合いってわけじゃなさそうね。もしかして……恋人だったのかしら?」


 シャノンがいたずらっぽい笑顔を浮かべると、彼はギクッとした顔をした。彼の周りの空気が凝り固まって、まさにギクッという音が聞こえそうな勢いだった。すごく分かりやすい。


「あはははは、君って勘がいいね……。まぁ取り立てて隠すようなことでも無いんだけどさ」

「勘には結構自信があるのよ。まぁ、その話を聞いて納得いったわ。おばあちゃんの写真を見たことがあるってそういうことだったのね」

「そうだよ。大叔父さんの遺品の中にマルヴィナさんの写真が入ったロケットがあったんだ」

「大叔父さんは亡くなってしまってるのね……」

「うん。あの戦場で亡くなったよ。50年前にね」


 彼女はハッと息を呑んだ。

 おばあちゃんの元恋人はあの戦場で亡くなった……。

 何かの縁を感じた。祖母はそんな話はしていなかったが、あの戦争は辛かったと話しているのを聞いたことはある。彼女は何か掴めないものを求めるかのように遠くをみつめていた。皺の寄った頬が一瞬若返ったようにも見えた。だがそれだけだ。自分がこの戦争について調べようと思ったのは、成長して改めてこの戦争の惨劇を知って心にピンときたからだ。調べなきゃダメなんだと。忘れてはいけないんだと。

 そういう風に感じたのもこういった縁があったからなのではないか。


「どうしたの、シャノン」

「えっ?あぁ、何でもないわ。ちょっと考え事してたの」

「そうかい。どんなことを?」


 ふと何かに気付いて顔を上げると、優しい目が彼女を捉えていた。何かを懐かしむような、でもどこか寂しげなその色にシャノンは心を奪われて、呆然と緑の瞳を見つめた。時が止まったように思った。周りのものが全て動きを止め、音もしなくなった世界に彼と二人きりになったような気がした。


「……」

「どうしたの、言ってごらんよ」

「……この戦争に、縁を感じたのよ。不思議な縁を」


 無理やり小さな声を紡ぎ出すと、アイヴィーは穏やかに笑った。息が止まりそうになる。

 彼は綺麗な顔をしているが、この胸の高鳴りは決して恋ではないのだと思った。ただ、この美しさに気圧されていたのだった。あまりにも彼が美しく笑うから。

 ただの美しさではなかった。人生の荒波を乗り越え、全ての運命を受け入れて老成したような、そんな芯からの美しさだ。

 普段とこういった時のギャップのせいで、きっとこんなに息が詰まるのだと彼女は思った。


「そうか。確かに不思議かもしれないね」

「……ええ」

「でも、その不思議な縁が君と引き合わせてくれたんだと僕は思うよ」


 彼女の頬にさっと紅が差した。ただふざけて口説いただけだと思い込もうとしたが、こんなにも真剣な表情や言葉で言われたのは初めてで、一瞬でも彼は本気なのではないかと思ってしまったのだ。慌ててその考えを振り払う。

 そんな訳ないでしょ。会ったばかりの相手に。

 言葉を失って黙っているシャノンに、アイヴィーはにっこり笑いかけた。その顔を見てみると、いつの間にか妙な雰囲気はきれいさっぱり消えていた。普段通りの、あのおちゃらけた態度の男がそこにいた。


「あれ、惚れちゃった?」

「……」


 気がついたら足が出ていた。机の下で脛を抱えて悶えているアイヴィーを彼女は冷たい目で眺めた。

 涙目でこちらを上目遣いで伺った彼は、「そんな蔑んだ目も綺麗で素敵だよ」と言ってもう一度脛を抱える羽目になった。


「で、おばあちゃんの何が聞きたいの?」

「彼女の人生だよ。まだご存命かな……?」

「残念だけど2年ほど前に亡くなったわ」


 そっか、と彼は少し寂しげに言った。そしてそっと脛をなでた。まだ痛むのか。ちょっと強く蹴りすぎたかもしれない。


「詳しくは私もよく知らないわ。おばあちゃんは、図書館の司書をずっとやってた。戦争の後しばらく経ってから結婚したわ。子どもは2人。孫は私も含めて3人。子どもが生まれてからは司書の仕事は辞めたわ。それからはずっと家庭に入って私たち家族の面倒をよく見てくれたの。本当に感謝してるわ」

「そうか。幸せな人生を送ったんだね。安心した」

「どうしてあなたが安心するのよ」


 ふふっとシャノンが笑うと、彼はまた寂しげな表情をした。


「大叔父さんは喜んでるだろうなって思ってさ」

「そうかしら」

「自分の遺してきてしまった恋人だった人が幸せな人生を送れたなら嬉しいじゃないか」

「私だったら嬉しい反面少し寂しいかもしれないわ。自分がまるで忘れられたみたいな気が少ししない?」


 彼はざっくり傷ついたような顔をした。シャノンは自分の失言に気づいた。

 一般論を話したつもりだったけれど、こんなの、おばあちゃんが彼の大叔父さんを綺麗さっぱり忘れてのうのうと幸せに生きたみたいじゃない。きっとそんなんじゃないはず。


「……ごめんなさい、そんなつもりじゃなかったの」

「いや、良いんだ……」


 彼は弱々しく笑って言った。罪の意識でアイヴィーを少し上目遣いに見ながら、まるで自分のことみたいに悲しむんだな、とぼんやり彼女は思った。50年前に亡くなっているなら大叔父さんとは会ったこともないはずなのに。


「おばあちゃんのことについてもっと知りたいなら、もう少し調べてくるわ」

「本当に?それはありがたいな」


 アイヴィーは少し元気になったようだった。店の温かい色の照明が彼の瞳に反射して穏やかな印象を与えた。シャノンはほっと息をついた。

 きっと調べればおばあちゃんが昔の恋人を亡くなった後も大事に思っていた証拠が見つかるはずだ。彼女は人との繋がりを大事にする人だったから。


「きっとおばあちゃんはあなたの大叔父さんを忘れてなんかいなかったと思うわよ。戦争で亡くなった大事な人を簡単に忘れるような人じゃなかったもの。母におばあちゃんの遺品を送ってもらうわ。大切そうなものは彼女が亡くなった後も取っておいてあるのよ。確か日記帳と写真があったとか」

「そっか、手間かけて悪いね。ありがとう。俺も君にできる限りの情報提供をするよ」

「私からもお願いするわ。じゃあ、明日も会いましょう。場所は……またこの店で良いかしら。ここの料理も気に入ったし」

「分かった。明日の夜6時にここで」


 そういうとアイヴィーはゆっくりと立ち上がり、追ってシャノンも立ち上がった。

 彼はさらっと会計を済ますと、シャノンを促して2人で店を出た。

 財布からお金を取り出そうとしていた彼女の手を押さえて、「せっかく君がご飯に付き合ってくれたんだからここは俺に奢らせて」と言った。ばちんという音が聞こえそうなウィンクもついでに付いてきた。うん、やはり図られていたか。


「そう、ならお言葉に甘えようかしら」

「うんうん。そうしてよ」

「じゃあ、また明日。6時にこのお店ね」

「え、送っていくよ。夜も遅いし危ないから」

「大丈夫よ、そう遠くないもの。心配ならあそこの角まで送っていってくれる?本当にすぐなのよ」

「分かった。じゃあ行こうか」


 曲がり角まで着くと、彼はにっこり笑って手を振った。シャノンはくるりと彼の方を振り向いて笑い返した。


「またね」

「……うん、また明日」


 宿の方へ歩き出すが、後ろが気になって振り返った。彼はもういなかった。あとには生ぬるい風が吹き抜けるばかりで彼がいたという証拠はもうどこにも無い。シャノンは目を見張った。

 まるで幽霊みたいな人ね。

 背中がぞくっとして、口元には笑みが少し零れた。何故か心は浮き立って、わくわくしている。彼は今まで無かった刺激を自分にくれるのではないかという予感があった。



 部屋に戻ると鏡に映った自分が目に入った。

 そばかすの浮いた白い頬。ぱっちりした青い瞳。すっと通った鼻筋。ポニーテールにまとめた真っ直ぐな金髪。

 自慢じゃないがそこそこ整った顔だ。若い頃の祖母の写真にそっくりな。鏡の中の自分に手を伸ばした。鏡の中の自分もこちらに手を伸ばしてきた。

 特にそっくりな青い目の縁に手を沿わせる。懐かしい気持ちになった。


「……おばあちゃん」


 彼女は急に亡くなった。本当に急だった。報せを受けた時は衝撃を受けすぎたのか涙も出なかった。呆然としたまま、それでも転がるようにして彼女の家まで急ぎ、そこで棺に収められた遺体を見た時に初めて涙がこぼれて止まらなくなった。あぁ、私ってこんなにおばあちゃんが好きだったんだ、と他人事のように思った。

 鏡から離れて、携帯電話を取り出した。ベッドに座ると母親の電話番号を呼び出して電話をかけた。

 数回の発信音の後に母の声がした。


「あら、シャノン。どうしたの?」

「ちょっと頼み事があって。今大丈夫?」

「大丈夫よー。何?」

「おばあちゃんの遺品を宿に送って欲しいの」


 母は驚いたようだった。確かに今まで見たいと言ったことは無かった。


「急ねぇ。別に構わないけど、どうして?」

「おばあちゃんのことを知りたいって人がいるのよ。おばあちゃんの昔の恋人の親戚みたい。取材先で知り合いになって」

「あらそうなの。世間も狭いものねぇ……。私もおばあちゃんから昔の恋人の話を何回か聞いたことあるわよ」

「え、何それ、詳しく聞かせて」


 つい携帯電話を持っていない左手でメモ帳と筆記用具を用意して食い気味にお願いしてしまった。ついでに録音できるようにICレコーダーも用意する。どうしてもライターの気質が出てしまう。

 母は穏やかに笑うと、「良いわよぉ」と快く承諾してくれた。



 少しうろ覚えだけど勘弁ね。確か、この話をしてくれたのは私がお父さんと結婚する時かしら……おばあちゃんね、「この人、って決めた人とちゃんと約束どおり結ばれるって本当に幸せなことよね」って言ったのよ。

 どういうこと?って聞いたら、おばあちゃん笑ってね。「私はね、昔、今のお父さんじゃない人と婚約してたの。もちろんお父さんと結婚できて幸せだったわ。でもね、私昔の婚約者も大好きなの。今でもね」って言ったわ。

 お父さん――シャノンにとってはおじいちゃんよね。おじいちゃんはおばあちゃんに昔婚約者がいたのを知った上で結婚したみたいよ。でもおばあちゃんね、「今でも昔の婚約者が好きっていうのはあの人には言っちゃいけないのよ。妬いちゃうから。好きなのは知ってるんだけどね」って笑って言ってたわ。確かにおじいちゃんはちょっといじけちゃいそうよね。ふふ。「でもね、お父さんに対する『好き』と昔の婚約者に対する『好き』って全然違うのよ。お父さんとはね、これからも一緒に添い遂げて一緒に歳をとって、そしてどっちかが死ぬまで隣にいたいの。昔の婚約者はね、私の思い出の中でずっと変わらぬまま、私も彼も若いまま、色褪せずに息づいてる。好きな気持ちは変わらないのに、時は進まないまま2人とも過去に置いていかれてるのよ。――あの人が死んだ時、私もきっと一緒に死んだのね」そう言っておばあちゃんはどこか寂しそうな顔をして空を見上げてたわ。天国にいる婚約者を探してたのかもしれないわね。……あらやだ、なんかロマンチックなこと言っちゃったわ。でもね、おばあちゃんにこんな素敵なロマンスがあったなんて私それまで全然知らなかったのよ。なんだかワクワクしちゃったわ。

 あぁ、遺品を送ってくれっていう話だったわね。おばあちゃんが亡くなってから遺品を整理したの。そしたらね、婚約者が亡くなったところで終わってる日記があったわ。あと、古びた写真ね。婚約した時に撮ったのかしら……2人とも形式ばった服を着て、でも幸せそうに笑ってる写真だったわ。この二つを送るわね。



「お母さん、ありがと。この話彼に伝えても良い?」

「良いわよぉ。あ、宿の住所教えてくれる?」


 録音していたレコーダーを切って住所を伝えると、母は笑って、


「相変わらずライター頑張ってるのねぇ。取材の仕方も板についてきたんじゃない?」

「そうかしら。頑張ってはいるんだけどね」

「その調子よ。応援してるわ。今度何か記事が載る時は教えてねぇ」

「うん、分かった。ありがとね」


 その彼と何かロマンスがあったらそれも教えてねぇ、と盛大に爆弾をぶちこむと、反論の隙さえ与えずに母は電話を切った。アイヴィーの性別も言っていないのに、とんでもない母親だ。シャノンは苦笑いした。

 ため息をついて、机に向かう。母に‘取材’した内容を文章にまとめたかった。

 レコーダーを再生する。流れてくる母の声を頼りに、祖母の物語を取材ノートに書き綴った。

 彼女の言葉をなぞる度に、ああ、この人は夫も昔の婚約者も大事にしていた人なのだなと実感した。言葉の一つ一つに愛が溢れている気がした。

 シャノンは祖母が印象通りの人であったことに安心していた。本当は死んだ婚約者のことなんてすぐに忘れて結婚しただなんて思いたくはなかったのだった。おばあちゃんは、大好きなおばあちゃんの姿のままシャノンの心の中で優しく微笑んでいた。

 早くこの事実を彼に伝えたい。彼の大叔父は、恋人に大切に思われていたと。

 窓の外には満月が輝いていた。満月は優しく神秘的な光を放って家々の壁を白く照らしていた。

 満足した気分でベッドに入ると睡魔はすぐにやって来た。その睡魔に身を委ねて穏やかな眠りにその身を浸す。心地良さが全身を包んだ。


 夢を見た。

 なぜかアイヴィーが目の前にいた。彼はシャノンの手を取ると笑ってその手を引き、キスでもされるのかとでも思うような距離まで顔を寄せた。そして笑うと目元には親しみを覚える小さな皺が寄る。


「……」


 彼は何かをシャノンの耳元に囁いた。よく聞き取れず、彼女は彼を見つめて小さく首を傾げた。

 彼は同じ言葉をもう一度彼女の耳に囁いた。何を言っていたのかを理解して彼女は?を真っ赤にした。だが幸せな気分だった。この夢がずっと続けば良いなと思った。

 しかし彼はパッと体を離すと、突然軽く手を振って離れて行ってしまう。待って、と呼びかけたが彼は振り向きもせず遠ざかっていく。

 そこで夢は終わった。


 翌朝目覚めてシャノンはぼーっとした頭で夢の内容を思い出していた。あー、結構幸せな夢を見てたなぁ。

 そしてその次の瞬間、顔に一気に血が集まって来たのを感じ枕に突っ伏した。

 だけれど夢の最後の彼の様子が胸の中にしこりのようになって残った。



 翌日の時間より少し前に店の前へ行くと、彼はまだいなかった。

 事実を伝えたら、彼はどんなに嬉しそうな顔をするだろうか。きっと彼の綺麗な目元は細められ、そして私を優しく見てくれる。それを想像すると胸が高鳴った。頬が熱くなる。

 待っていると店に入っていく人がチラチラとこちらを見ていく。なんだか居心地が悪く、彼に早く来て欲しいとシャノンは思った。


 待ち合わせの時間になった。彼はまだ来ない。


「少し遅れてるのかもしれないわね……」


 独り言を言ってみるが、ガッカリした気持ちが増幅しただけだった。なによ、時間も守れないなんて、と少しむくれた。


 10分待った。まだ彼は来ない。


「どうしたのかしら……」


 さすがに少し心配になってきた。もしかしたら忘れていたりするのではないだろうか。そう思って少し凹んだ。


「すみません、スペンサー様ですか?」


 不意に声をかけられて振り向くと、昨日席まで注文を取りに来てくれたお店のおかみさんが困ったような顔をして立っていた。

 シャノンが訝しげにはい、と返事をすると、おかみさんは一層困ったような顔をした。


「ほんの1時間ほど前でしょうか、アイヴィーさんから伝言を預かりまして、今日は会えないと……次いつ会えるかも分からないと、仰ってました。それと、本当に申し訳ないと」

「そ、そうですか。わざわざありがとうございます」

「いいえ。何があったか知らないんですけど、彼、すごく急いでたみたいで……様子も何だか変でしたし……」

「分かりました……じゃあご飯だけ頂いていきますね」

「ありがとうございます。お席はカウンターでもよろしいですか?」

「はい」


 店の中へ入るといい匂いが鼻をくすぐった。だが、食欲は湧かない。胸がズキズキと疼いていた。

 思いの外ショックだった。彼は来てくれるものだと思っていた。急用なら仕方ないのだろうが、そうと分かっていても残念なものは残念だった。

 『次いつ会えるかも分からない』……か。

 次、なんてあるのだろうか。

 その言葉を聞いて気づいてしまったのだ。私は彼のことを何も知らないのだと。連絡先も、住んでいる場所も、実際彼がどんな人なのかも、何も知らない。知っているのは、顔と、名前と、年齢くらい。

 何も告げずに離れられてしまったら、もうこちらからコンタクトを取ることは難しい。なぜだろう、そう考えると胸に風穴でも開いたかのように冷たさが染み込んでくるような気がした。


 彼にはもう会えないのか――。


 気づいてしまえば後はもう崩れるだけだった。彼が喜んでくれると期待した分だけ落胆も大きかった。

 彼に嫌われてしまったのだろうか。急用なんかじゃなくてもう会いたくないだけなのかもしれない。だって、また会ってくれるつもりなら連絡先を伝言と一緒に預けてくれれば良かっただけの話なのだ。でも、彼はそうしなかった。

 胸の痛みは消えてくれない。


「ご注文何になされますか?」

「あ、……じゃあ、おすすめを」

「かしこまりました。では子羊のハーブ焼きはいかがですか?」

「美味しそうですね。それでお願いします」


 気分が沈んでいたところにおかみさんが注文を聞いてくれた。少しだけ気が紛れた。それでもシャノンは小さくため息をついた。


「アイヴィーさんとはよくお会いするんですか?」


 注文を厨房に伝えたおかみさんはこちらに戻ってきて、少しためらったような様子を見せるとまた声をかけてきた。

 シャノンは驚いてわずかに目を見張る。


「いえ……一昨日初めて会ったばかりですし……」

「そうなんですか。アイヴィーさんが誰かを連れてくるなんて初めてだったので。しかも女の人」

「あの女たらしがですか?」


 怪訝な顔をすると、彼女はカラカラと笑った。


「見てる限り全然そんな人じゃないですよ。いつも一人でお店に来てはどこか寂しそうな顔してました」

「え、」


 そうは見えない、という言葉は飲み込んだ。でもなぜだろう、このカウンター席に座って長いまつ毛を伏せる様子が目に浮かぶ。確かにおちゃらけたような素振りをしながらも、時折見せる態度に何か寂しさのようなものを感じさせる人だった。


「一人で来てたんですか」

「ええ。つい最近ですね、来て下さるようになったのは。ここ数年の事ですよ。この町の人じゃないみたいで」

「どこから来たとか聞いてますか?」

「いいえ、あんまり自分のことは話さない人で……」


 やっぱり掴みどころのない人だ。幽霊みたいな。追いかけようとして手を伸ばすとすり抜けて消えてしまう。

 だがもう手を伸ばすのはやめようと思う。そんな掴めそうにないようなものを掴みにいくのはバカがやることだし、私はそんなにバカじゃない。そうだそうだ、もうやめよう。――彼のことは、忘れよう。あんな人もう知らない。

 なぜか悲しみから諦め、さらに怒りにシフトしてしまったシャノンは唇を少し尖らせた。


「そうですよね。まぁどうせお互い行きずりなので別に良いですよ、もう会うこともないでしょうし」

「そんな事言わずに。あのアイヴィーさんがあそこまで執着してたんですからあなたのことがきっととても好きなんですよ。若いって良いですねぇ」


 拗ねてツンとした様子のシャノンに、彼女は笑って言った。その言葉を聞いてシャノンの頬は沸騰寸前かというほど熱くなった。それを見てさらに彼女は笑う。


「ちちち違いますよ!!そんなわけありませんって、一昨日会ったばかりなのに!」

「ふふ、まぁ落ち着いてください。ちょうどお料理も出来たので」


 目の前にほかほかと湯気を立てる料理が置かれた。食欲が湧かないと思っていたが料理を目の前にすると食べたくなってしまうのはなぜだろうか。


「……はい、いただきます」


 ナイフを使って切り分けると肉汁が溢れた。ハーブの香りが食欲をそそる。一口食べるとつい頬が緩んだ。やっぱり美味しいものって良いわね。


「美味しいですね」

「ありがとうございます」


 とりあえず食べた。何も考えなかった。あっという間に完食した。


「ご馳走様でした。食欲ないと思ってたんですけどペロッといけちゃいましたね」

「でしょう。主人の料理は本当に美味しいんですよ」

「ご夫婦でお店やってるんですね」

「ええ。結婚するなんて思ってなかったんですけどね」


 えっ、とびっくりした顔をすると彼女は真剣な眼差しでこちらを見ていた。


「私達素直になれなくて。すれ違いも沢山しました。だからすれ違っているように見えるあなた達が放っておけないんですよ」

「……」

「きっとまた会えます。だからそんなふうに気を落とさずに彼を信じてみて下さい」

「……頑張ります」


 素直にはいとは言えなかった。そんなに簡単に彼を信じられるほど私は彼のことを知らない。彼だって、そんな私を信じられるほど私のことを知らないはずだ。こんな風に繋がりを一方的に断ち切られて、もう二度と会えないかもしれないのにどうして彼を信じられるだろう。


 親身になって助言をくれた彼女に料理の代金を渡し、店を後にした。店のドアを押すとカランカランとベルの小気味良い音がした。

 もう日の暮れた町を足早に歩く。自分の足音がやけに耳についた。

 あぁ、私って今、一人ぼっちなんだなぁ……。

 昨日彼が手を振ってくれた曲がり角で立ち止まった。振り返っても誰もいない。胸のどこかに刺すようなチクリとした痛みを感じた。

 わずかな間軽く丸めた手を胸に当て、ゆっくりと歩き出した。足取りが重く、宿までの道のりが遠く感じる。

 なぜ連絡先も聞こうとしなかったのだろう。きっと驕りがあったのだ――彼は何度だって会ってくれるだろうという。


 人の心なんて移り変わりやすいものだって、色々な人に取材して来た私は十分に知っていたはずなのに。



 後日、宿に届いた祖母の遺品を受け取った。幸せそうに笑う若き時代の祖母はとても綺麗だった。そしてその祖母の隣で笑う男はアイヴィーによく似ていた。

 部屋に戻って日記を読んだ。祖母の婚約者――ランス・コーウェルへの想いを綴った日記は祖母の心そのものだった。文才を感じさせるその言葉は胸に響き、言葉の一つ一つがシャノンの心を揺さぶった。

 恋などしたことがなかったシャノンでも、その日記を読んで恋とはこのようなものなのだということが理解できた。恋人を、婚約者を亡くした祖母の悲痛な想いに触れ、日記の最後のページに数粒の水滴が落ちた。そしてもう一度写真を見た時、ふと脳裏になぜか、寂しげに伏せた緑の瞳が蘇った。

 夕陽に照らされた整った横顔。私の手を取った手のひんやりとした感触。笑った時に出来る目元の小さな皺。

 彼と繋がっていたはずの細く頼りない糸が完全に切れたと分かった時の胸の痛みと、ぽっかりと穴が空いてしまったような喪失感。

 婚約者を失った祖母の悲痛さとは比較にならないかもしれないが、それでも『誰かを失ってしまった』という感覚は彼女の胸に突き刺さった。

 気付くな。気付いて何になる。


 こんな風に、この日記に書かれているように、誰かに心を良いように掻き乱されたことなど今まで一度だって無かった。

 今まで何人かに告白されたことがあった。だけど、こんなにも誰かのことを知りたいと、その心の奥まで私に教えて欲しいと思った人は彼だけだった。……気付くな。気付いちゃダメだ。

 涙がこみ上げてくる。――彼に会いたくてたまらない。やめよう、やめようと思っていても頭の中は彼のことでいっぱいだった。彼の笑顔と寂しそうな顔が半々で心に浮かぶ。どうしてよ。だってまだ会って2日しか経っていないのに。どうしてこんなにも、あの人のことを考えてしまうんだろう。

 もう会えないのに。――気付いたって、もう言葉を交わすこともできないのに。

 瞳からこぼれ出て頬を流れる涙をそのままにし、シャノンはベッドに仰向けに横たわった。目を閉じると溢れた涙は目尻から流れ落ちて彼女の金髪を濡らした。


 ぼんやりと昔よく読み聞かせてもらったおとぎ話を思い出した。

 慎ましく生活していた女の子の元に、突然王子様が現れる。女の子はその王子様に初めての恋をする。紆余曲折を経て、最後には二人は晴れて結ばれる。ハッピーエンドだ。


 でも、現実はそうじゃない。現実で起こるのは、恋をするところまでだ。恋をしました、結ばれました――恋がそんな簡単に実るものなら世の中に失恋して泣く人はいなくなるはずなのだ。

 おとぎ話の女の子気分を味わえて良かったじゃない。たった2日間顔を合わせただけの関係だけど、……私にとっては立派な恋だった。待てど暮らせど再び王子様が来ることはありませんでした。私が主人公の物語はそれでおしまい。

 貴重な経験をさせてもらった。おばあちゃんの美しくも悲しい恋物語も知ることができた。彼にはその点で感謝しよう。お店のおばさんには悪いけれど……私は彼とまた会えるとは思わない。おとぎ話を夢見る少女じゃないんだ。だから――。


 シャノンはその日のうちに町を出て、職場のあるビル街へ帰った。




* * * * *




 町での取材をもとに書いた記事はまぁまぁの評価を得た。概ね思った通りの出来になったと言える。

 胸のつかえはしこりになって残った。彼のことを忘れるなんて、出来なかった。たった2日間会っていただけの相手なのに、と笑いたくもなった。でも、どうしてか――彼の寂しそうな顔が、謎めいた雰囲気が忘れられなかったのだった。あの時は振り払ってしまったけれど、あの細くて長い指で私の手に触れてほしかった。緑の瞳の奥の、いたずらっぽい光に見つめられたかった。


 シャノンは小説を書き始めた。この失恋の痛みを無くすためには小説の中で自分の願いを叶えればいいと思ったから。安直だとは思ったが、文章を扱うことを得意とする自分に出来ることと言ったらこのくらいしか思いつかなかった。

 私と彼との出会いと、私達の不思議な縁――おばあちゃんとランス・コーウェルの悲恋を、もちろん登場人物の名前は変えてほぼそのまま書き綴っていった。小説を書くのは初めてだったが、文章を書くのには慣れている。彼との記憶を辿っていくのは楽しかった。

 仕事の合間に時間を見つけてはひたすらパソコンに文字を打ち込んだ。だんだんとのめり込み、毎日小説の事ばかり考えながら過ごした。


「シャノン、突然小説なんて書き始めてどうしたの? あんた確かに文章上手いけど、もしかして作家デビューでもする気?」


 職場でも書いていると、同僚のルビーが笑いながら聞いてきた。編集者である彼女は数年一緒に働いてきて気心のしれた友人でもある。が、失恋したからとは口が裂けても言えない。普段のキャラを考えると恥ずかしすぎて軽く死ねる。


「そんなつもりは無いわよ。昔から小説読むの好きだったし、自分でも書いてみようかなって」

「ふーん。シャノンが書いたら売れそうだけどね。あたしが赤ペン入れてあげよっか?そしたらバカ売れすること間違いなしよー」


 ルビーはすでに目をギラギラさせて小説をパソコンに打ち込むシャノンの手元を舐めるように凝視していた。若干引きながら苦笑いする。


「や、やめとくわ。趣味だし」

「でももったいないよー、せっかくこのシャノンが小説書いてるっていうのにー。せめて読ませてくれない?」


 食い気味だ。目がマジだから怖い。生唾を飲み込んだ。


「か、書き終わったらね」

「いつ?いつ書き終わんの?もはやいつとは言わず今読みたい」

「書き終わってからね!!」


 ついにノートパソコンにまで手をかけ始めたルビーから守ろうと胸に抱えた。

 彼女は不満げに唇を尖らせたが、ようやく諦めてため息をついた。


「じゃあ、書き上げたら。約束ね?」

「は、はい。」


 正直に言おう。ルビーを怒らせると怖い。シャノンは書き上げたら必ず見せることを決意した。あの執念ならこの約束を忘れることはないだろう。例え一方的な約束でも。


 実はもうほとんど書き上がっていた。フィクションを織り交ぜたが本当にあった事までは。ここからは事実と全く違うことを書いていかなければならない。

 夢物語。掴みどころのない彼は、フラッとまたあの町にやって来て、そして彼と会うことを諦めなかった主人公と再会する。


 彼がもし私のことを好きでいてくれたなら。また会いに来てくれたなら。そんな願いを言葉に乗せていく。

 彼は私を抱きしめる。会いたかったと言う。私は泣く。

 そして、夕焼けの中、あの荒野で手を絡めて繋ぐ二人。


 これでおしまい。現実と違うこの物語はハッピーエンド。

 これ以上は要らない。この先幸せになるだろう小説の中の二人を描く必要はもう無い。おとぎ話だって二人が結ばれて終わりだ。

 いや――本当は違う。本当は、虚しくなってしまったのだ。

 こんなことをして何になるんだって。

 現実では叶わないことを描いて、何になるのよ。

 でも、想い出を辿っている間は確かに楽しかった。結ばれた場面を書いている間は少しだけ主人公に自分を重ねることができた。

 もう、充分だ。


 涙が一粒だけ零れ落ちて、手の上で弾けた。熱を失って生ぬるかったその水滴は、拭うとすぐに蒸発して消えた。




 ルビーに見せないとうるさいので仕方なく見せた。せっかく編集者に見せるなら印刷したものを見せた方がいいだろうと思い、結構な厚さになった紙を渡した。


「うっひゃー、滾るわーー」

「……ルビー、ちょっと気持ち悪いわよ」


 彼女は数枚読んだだけで異常に喜び、持ち帰って赤ペンを入れてきてもいいかと言った。断るとまた面倒なことになりそうだ。仕事中にデスクの周りをうろちょろされたり、恨みがましげな目でじっと見つめてきたり、もしくは家まで付いてくる等のストーカー行為をされることが容易に想像できる。投げやりにOKを出すと、ルンルンとスキップでもしそうな足取りで会社から帰っていった。つくづく彼女は仕事が好きなんだなと思う。


 翌日会社へ行くと、先に来ていたルビーが飼い主を見つけた犬のように駆け寄ってきた。目が真っ赤だ。そして手に持っていた紙も赤いペンがそこそこ入っていた。


「え、もう赤ペン入れ終わったの?」


 驚いきながらも受け取ると、彼女はものすごく相手の神経を逆撫でするようなドヤ顔を向けてきた。


「当たり前でしょ、あたしを誰だと思ってんだよ。凄腕ルビーさんだぞ」

「……ああそう」


 否定出来ないのが悔しいが、手渡された紙を見ると実に丁寧にペンが入れてある。小さな言葉のミスまでしっかり目が届いていた。もとは小説家に付いて編集者をやっていただけある。

 ルビーは急に真剣な表情になって


「この小説、面白いよ。あたしが言うんだから間違いない。あんた多分出版社に持ち込んだりとかはする気無いんだと思うけど、それを世の中に出さないのはすごいもったいない事だよ。だからネットに上げなさい」

「え、」

「上げなさいよ?ちゃんとあたしのペンが入ったとこを修正してね?」

「……う、うん」


 有無を言わせぬような視線でシャノンを射抜くと、ルビーは少し表情を緩めた。


「あんたさ、失恋したの?」

「なんで……?」

「文章がさ、恋してる感じがするんだ。でも叶ったわけじゃなさそうだし。あんた何となく諦めてるような雰囲気出してるし」


 すごい。彼女は本当に聡い。

 黙っていてももう表情が答えだったらしい。ルビーは元気出しなよ、と言ってスタスタと自分のデスクへ戻っていった。その場に取り残されたシャノンは少しの間呆然としていたが、ため息をつくと自分もデスクへと向かった。

 ルビーは多少強引だが、彼女の言うことは大抵正しい。そしてよく他人を見て理解している。深く事情は聞かずに放っておいてくれるのも彼女なりの気遣いだろう。

 小説は後でどうせ上げたか確認を取られるだろうし、シャノンは素直にネットに上げることにした。帰ったら手直しをして投稿でもしよう。

 シャノンは口元に小さく笑みを浮かべた。



 ……ルビーの凄さを思い知った。

 シャノンはパソコンの前でため息をついた。机に頬杖をつくと座っていた椅子がギシリと鳴る。

 彼女の赤ペンの通りに直すと、繋がりがおかしかった部分は自然に繋がり、自分では気づかなかったような言葉のミスは適切な言葉に変わった。そしてみるみるうちに自分で書いた小説だというのに自分でも面白い小説だと思えるようになってしまった。

 緊張しつつ、先程会員登録を済ませたばかりの小説投稿サイトに小説を投稿した。これならルビーも文句はあるまい。

 ひと仕事終えたような気分でシャノンはフーっと息を吐きながら天井を見上げた。しばらく呆然と天井を眺める。

 なんだろう、やりきった感がある。彼への思いを昇華できた気がした。

 彼女は両手で両頬をペチンと叩くと、椅子から立ち上がった。

 ルビーには感謝しないとな。これで前を向ける。



「シャノン、あんたが投稿したサイト見たよ。なかなか上々ね」


 顔を上げるとルビーがニヤニヤしながらこっちを見ていた。手にはレタスがはみ出たサンドイッチが握られている。

 シャノンは片眉を上げルビーを見た。


「そうなの?全然気にしてなかった」

「結構人気よー。ま、当然の結果だけどね」


 バチンとウインクをすると彼女は颯爽と戻っていった。かっこいい女性の典型だと思う。シャノンはクスリと笑いを漏らす。

 休憩時間だから大丈夫だろうと思い、パソコンでインターネットブラウザを立ち上げて投稿したサイトを覗いてみた。なんと人気ランキングの上位に食いこんでいた。感想もいくつか寄せられている。あらびっくり。

 自己満足のためのものとは言え、評価をもらえるとやはり嬉しい。

 ルビーのニヤついた顔が移ったなと思いながらも自分の書いた文章を読み返してみると、あの日見た夕陽の光景と彼の顔が脳裏に浮かんだ。幽霊みたいな彼と、寂れた荒野。シャノンは目を伏せた。会いたい気持ちには踏ん切りをつけたはずなのに。

 あぁ……あの町にもう一度、行ってみたいな。


「……行こう」


 小さくそう呟いて、シャノンはブラウザを閉じた。視界の端には、あの日の荒野の夕焼けがちらついているような気がした。




* * * * *


 ――あの日と同じ荒野に立っていた。時間も同じ。黄昏時。

 何もせず、しばらくの間ずっと立ち尽くしていた。聞こえるのは穏やかに吹いていく風の音くらいだ。

 彼と会った時のことをぼんやりと思い出す。空想にふけるように周りの音が遠くなる。そうだ、あの夕焼けに彼の横顔は美しく照らされていた。私が会いたい人はここにはいないけれど、夕焼けの美しさはあの日と何も変わらない。


「やっぱり綺麗ね……夕陽」


 ボソッと呟いた時だった。周りの風がざわついたような気がした。肌がぞわりと粟立つ。





「君の方が綺麗だよ」





 耳に届いたのは、あの日、この場所で聞いた声。何度も頭の中で反駁した。もう聞くことはないと思っていた。

 いや、そんな、まさか――。


「――え」


 弾かれたように振り向く。夕陽に自分の金髪が舞うのも、あの日と同じ。人目を引くような美しい顔に、穏やかな緑の瞳がこちらを見つめているのも、あの日と同じ。

 一瞬のことなのに、もっと長く感じた。ずっと会いたかった彼が、こちらを見て微笑んでいる。それが信じられなくて。


「待ち合わせてたのにすごく長く待たせちゃったみたいだね、ごめん」


 困ったように笑う彼を見て、胸の奥からこみ上げてくるものがあった。途端に目の前が曇る。涙が零れる前に隠そうと思ったが、一粒だけぽろりと零れ落ちてしまった。慌てて目を背け俯いたが、その頬に伸ばされた手が零れ落ちた涙を拭う。


「どうして泣くんだい?泣くほど俺に会えなくて寂しかったの?」


 わざとらしく眉尻を下げ、少しニヤついてこちらを見てくる彼にも、そんな彼のキザさに胸をドキドキさせている自分にも腹が立ち、涙で濡れた瞳で睨みつけてやった。ちょっとだけ彼は動揺したようだった。


「そうよ――バカ」

「……ごめん」


 申し訳なさそうに目を細めて一言謝り、一瞬目を瞑った彼が再び目を開けた時、背筋にゾクッと走るものがあった。涙などすぐに引っ込んだ。

 あの穏やかな、でも不思議な緑の瞳。シャノンはその瞳に釘付けになった。今までのように、ただ穏やかで優しい瞳ではなかった。その中にちらつく熱が彼女を捉える。

 呆然としていると腕を掴まれた。決して乱暴なわけではなく、あくまで優しく。でも力強く。ゆっくりと体を引き寄せられる。


「え、どうし」

「マルヴィナ」


 固まったままでいると、きつく抱きしめられた。頭の中にたくさんの疑問符が浮かぶ。なぜ私は、彼の腕の中にいるのだろう?なぜ彼は――祖母の名を呼んだのだろう?これは、この人は――本当に、アイヴィーなのだろうか?


「……っ!」

「君を置いていってしまってすまなかった。僕のことを忘れず、それでも君は幸せになれたんだね。僕もやっと……君のもとへ行けるよ」


 激しい自分の心臓の鼓動を感じ息を詰めていると、熱を持った吐息と乞うような声音が耳元を撫でる。囁くような、相手に聞かせることを意図していないような、そんな声。顔が一気に上気したのが自分でも分かった。しかし、頭のどこかでは冷静だったようだ。――彼の違和感に気づく。

 なぜか頭の中で、アイヴィーの顔と写真で見たランス・コーウェルの顔が重なった。変わった一人称と、別人のような瞳。目を見張って背の高い彼を腕の中で見上げる。


「な、何言って……」

「ありがとう……すまなかったね、マルヴィナのお孫さん」


 そう言うとパッとシャノンを放し、動揺する彼女の両肩に手を置いた。彼の腕の分だけ二人の間は空き、シャノンを深い緑の瞳がじっと見つめてくる。目を逸らせないでいるとその瞳が徐々に、アイヴィーの本来の瞳に戻っていく気がした。訳が分からなくてシャノンは彼の瞳を見つめたまま呆然としていた。しばらく見つめあったままでいると、彼の美しい眉が顰められ、見つめていた瞳には涙の膜が張った。


「え、」

「……、さん」


 アイヴィーは泣いていた。泣き声を上げることもなく、ただ静かに涙を流していた。

 シャノンは場違いながら、あぁ、この人は泣いていても綺麗なんだなと思っていた。彼が呟いた言葉はよく聞こえなかったけれど、きっと大叔父さんを呼んだのだろう。

 シャノンはさっき自分がされたように、手を伸ばして彼の頬の涙を親指で拭った。アイヴィーは小さく笑うと、シャノンの手に自分の手を重ね頬を擦り寄せた。再び一気に顔が赤くなる。


「だ、大丈夫……?」


 慌てた彼女は顔とともに熱くなった手を引っ込めつつ彼に声をかけた。アイヴィーは笑顔になる。


「……うん、大丈夫。何でもないんだ。それより、君にお願いしてたもの今持ってたりする?」

「おばあちゃんの日記のこと?悪いけど、今は持ってないわ」

「そっか。まぁ内容は大体知ってるんだけどね」

「は?」


 彼は輝くような笑顔を浮かべる。嫌な予感が止まらない。


「君の書いた小説を読んだんだ。『古戦場にて』、あれって君の小説だろう?途中に君のおばあさんの日記を元にしたような部分があったから、俺は大叔父さんの想いは無駄じゃなかったんだって分かって安心したんだよ。――あれを見るまで、正直少し怖気付いてたところはあったんだ。それに君ってやっぱり文章上手いんだね、すごく良かったよ」

「……読んだの?全部?」


 冷や汗が止まらない。

 別に彼に祖母の話を知ってもらうのは構わない。だけど、あの小説には……シャノンの恋心が存分に描かれている。それはもう、余すところなく。しかも若干盛ってある。誰に対する恋心なのかは言わずもがな。

 冷や汗が本当に止まらない。頭の血が下に下がっていく。

 ニヤニヤした顔のアイヴィーはそのまま続ける。


「うん、もちろん。ちなみに」

「ひゃっ」


 今度は先程とは違い、急に抱き寄せられた。視界が狭くなり、優しく掴まれた顎が上を向かされているせいで見下ろす彼の顔しか見えない。

 上気する頬がとても熱くて。見下ろす彼の視線が口調や態度と違って真剣なもので。


「……君、2日間しか関わりのなかった俺に恋したの?」


 口元には微笑みを残したまま彼は言った。

 絶対に言われたくなかったことだった。絶対に、知られたくなかったことだった。でも、もう否定なんてできない。もう、二度と会えないなんて嫌だった。

 シャノンは頬を赤らめたまま黙っていた。恥ずかしすぎて声も出せない。


「…………!」

「あはは、照れた顔も素敵だね。肯定だって受け取っても良いのかな?」

「……そういうところは嫌いよ」

「『そういうところは』?じゃあ他は好きなんだね。俺すげー嬉しい」

「うるさいっ」


 ああ言えばこう言うとはまさにこの事だと思った。抱きしめられたままなのも、からかわれたのも恥ずかしくて彼の胸を押し返そうとした。

 しかし、アイヴィーはそうさせまいと彼女を固く抱きしめる。シャノンの耳元を熱い吐息がくすぐった。


「俺もさ、君のことが大好きだよ……最初に見た時から……一目惚れだったんだ。これはさ、きっと君のおばあさんと俺の大叔父さんが繋いでくれた縁なんだよ――」


 さっきまでと違う、小さくかすれた声だった。余裕なんてなさそうな声だ。いつもの、人を食ったような雰囲気は無かった。そして、別人のような気配もない。これは彼本来の――。

 しばらく彼はシャノンを抱き締めたままでいた。彼女も彼の背中に腕を回し、軽く力を込める。

 堪えるような吐息を漏らし、彼は腕の力を少し弱めた。そしてアイヴィーは少しだけ体を離し、手をシャノンの頭の後ろへ持っていく。顔は、鼻と鼻とが触れ合いそうなくらい近い。心臓が、大きく跳ねる。


「君と俺なら、この先もずっと――」


 熱を帯びた緑の瞳が、シャノンを捉えて離さない。夕陽の最後の光が、彼の横顔を淡く照らし出す。

 シャノンはそっと、震える瞼を閉じた。

あとがき


初投稿です。拙い作品ですが読んでくださりありがとうございます。

終わった後だから言いますが、アイヴィーの大叔父さんのランスにはちょっとストーカー気質なところがあるとだけ言っておきます。ご都合主義っぽいところはこれで補ってください。笑

この作品は長編を書き始める前の手慣らしみたいなつもりで書き始めたものです。原案自体は高校時代にありましたが、なんとか完成まで持っていけました。

正直なところ、あまりライターのお仕事については詳しくありません。インターネットで調べられる程度のことなら少し調べましたが、違和感を感じるところがあったらすみません。

その他、気になるところがあればご指摘いただけると嬉しいです。

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[良い点] (論評は性分ではないので単なる感想しか書けませんが) 短編としては長い部類だと思いますが、その長さが気にならずに一気に読み進めることができました。 (主人公2人が再会した際の)「一瞬の…
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