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吹けば飛ぶような、命だとかいうもの。  作者: ドキドキ☆悪魔ちゃん
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7月1日 時期尚早


 ……ジリジリジリジリジリジリジリ――ジリジリジリジリ――。

 蝉時雨の拳が生命の躍動を握り締め、飴のように柔らかそうな空色ビルディングを打擲する度にきみは夏だなぁって思う。だってそれは当然のことで、振り返ってみるまでもなく、今現在七月一日の十時三十五分は夏だったからだ。夏の、真っ盛りだった。

 ところでわざわざおみくじにおける大吉の例を持ち出してみるまでもなく、全て栄える者が零落するのは自明の真理だとして浸漬しており、このビルの屋上の誰もが――つまり、きみと彼女とカラスと真っ黒な影法師は夏の終わりに思いを馳せずにはいられなかった。

 殊更に――と、きみは隣のちょっぴり上気した顔を見て、

彼女、周防甘夏はそうに違いない。と思う。

 このあたりでは名のある旧家の出である甘夏は、代々続く教育方針に従って、この秋から三年間海外留学することが決まっている。

もちろん、彼女とて海外に対する憧れがないことはないと言えば嘘になる。それでも、生活環境の変化とか、言語とかの不安は日ごとに山積し、そして自らの不在の間にどれほど何もかもが変化してしまうかを考えてみれば慄然とせざるを得ないのは自然なことだった。三年間も断絶した人間関係は果たして元通りに修復できるのだろうか――、と、ずっとそう危惧していて。けれど、誰にも打ち明けられなかった。

 ァア。そういえば――、

 きみはふと思い出した。

「一週間後は甘夏の誕生日だよね」

「はい」

 甘夏は、覚えてくれて嬉しいです、と、ちんまりと並んだ歯を見せて照れくさそうに微笑んだ。

きみは、アイドルのポートレートのように陰りのないその笑顔を見るたび、ナニやらゴツゴツとした鉛玉のようなものを胸の辺りに感じ、今すぐにでも彼女の手を掴んでどこか遠くへ高跳びしたい気分になった。押し花のようにこの手に永遠に留めておきたかったのだ。籠の中で小鳥のように飼いたかった。

籠の中の甘夏。

自由を奪われた彼女は弱弱しい声で出してくださいよぅと懇願して、潤んだ目で見上げてくる。それに対してきみは冷たく無視を決め込む。そうすると甘夏は泣いちゃうのだ、お腹すいたよぅ、帰りたいよぅ。お願いします出してください、何でもします。って――え? そ、そんなことできませんよぉ。た、確かに何でもするとは言いましたけど――ぅう、嫌なのに、こんなこと本当は嫌なのにぃ……。

主人の命令に逆らえず、甘夏は御嬢様なのに淫らなことをしてしまう。最初は嫌々。でも、

あぁ、お許しくださいご主人様。ビシッバシッ、ぅう、ごめんなさい、ごめんなさい。ぅう……おかしいよぉ、痛いはずなのに、嫌なはずなのに、なんだか身体がふわふわしゅる。もっとおぉ、もっとぉおちょうらい。ふにゃあぁあ……わたしヘンタイになっちゃった……こんなのだめなのにぃ!

…………。

随分と妄想が暴走した。

 しかしすぐにハッとして、自分の身勝手さ……。まるで幼女を誘拐し恣に養育する誘拐犯のような自分本位の考えを恥じ、咽喉のから、全身の毛孔から、縮こまらせた。

「うわぁああ、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんさい!」

「んん? どうしました?」

 突然謝りだしたきみは明らかに不審者だった。でも謝らずにはいられなかったのだ。純粋無垢な甘夏を妄想で汚すなど死罪に値する。

「もぉ、どうしたっていうんですか? 理由なく謝られるのは理由なく怒られるのと同じくらい困惑してしまいますよぅ。何か悪いことしちゃったんですか?」

「いや、その――」

 この場合素直にあけっぴろげな回答をするのは間違っているだろう。だから、きみは適当な言い訳をでっち上げた。

「さっきここへ来る階段でパンツが見えてしまったんだ!」

 大声で絶叫するようなことではなかった気がした。お前でエロい妄想をしていたんだと小さな声で白状するのと、パンツ目撃を大声で叫ぶのではどっこいどっこいではなかろうか。――というかそもそも誤魔化し方が下手過ぎだった。

 これは怒鳴られるのも覚悟しなきゃなと、沼の亀のように首を竦めていると

「別にパンツくらい構いませんよ」

 あっけらかんというのだった。

「なんで謝る必要があるんですか? だってパンツはお洋服ですよ?」

 まあ確かに、パンツというものについてたかが衣服という見方もあるかもしれない。しかしされど衣服という意見が世の中では大勢を占めているだろうし、実際ぼくもただの衣服とは思わない。パンツをただの衣服と言うのは、札束をただの紙切れと言うようなものだ。

真実ではあるけれど核心を衝いてはいない。

 概ね正しくあるが根本的に間違っている。

「その認識は改めた方がいいと思うよ? 男としてのアドバイスだけど」

 と、言ってしまって――きみは大変な罪を犯してしまったことに気付いた。

 なんてことだ!

 天真爛漫天衣無縫な甘夏ちゃんにパンツの持つ性的なストーリーを教えてしまうなんて、一番やってはいけないことだったのに――。きみは処女雪原に墨汁を撒き散らすような、取り返しのつかないことをしてしまった。後悔した。

「うーん、東堂さんがそう言うならそうなのかもしれないですね」

「いや、今の発言は撤回するよ。パンツってのはただの洋服に過ぎない。よく考えてみろ、だって布だぜ? 綿とか何とかを縒り合わせただけの物だぜ?」

「え、でもさっきは――」

「パンツはパンツであり洋服であるのだ。それ以上でもそれ以下でもない」

「は、はぁ」

 きっぱりと言い切ってどうにか説得することができた。危ない危ない、危うく甘夏をビッチに育成してしまうところであった。もし甘夏がビッチになって誘惑してきたら――それはそれは恐ろしいことだ。淫魔どころの騒ぎじゃないな、ときみは想像だに恐怖して震えた。

 と、そのときだ。

 悪いことが起きてしまった。

タイミングも、運も悪かった――しかし一番悪いのはきみだろう。

涼しい風が吹いた。

「…………」

 あまりの衝撃に声が出なかった。

 きみは正面に立っているわけだから相当捲れ上がらなければ見えないはずなのだけれど、なんと言うかまあ風の気ままと言うわけだろうか、驚くほど見事にスカートはめくれ上がり幕の向こうに広がるステキな世界が露わになった。それはまるで閃光粉の輝きのようで、ぼくはそれをとてもじゃないが直視することはできかったと言いたいところなのだが、意に反してまじまじと見つめてしまった。意に反してだ。

 見たらいけない、それは分かっている。

 分かっているのに、抗いがたい力がパンツを見ることを強要した。

 と、ここで風が止んだ。ほんの一瞬の出来事だった。

 さて、怖いのはここからだ。きみは甘夏の顔を直視することができなかった、パンツを見ることはできたのに、顔を見ることはこれまた意に反してできなかった。

 でもきっと怖い顔で睨んでいるに決まっているのだ。

「ただのお洋服なんじゃないですか?」

「そ、そうだよ。そうに決まってるじゃないか」

「なのに釘付けでしたが――」

「そ、それはだな……」

 ダメだ、上手い言い訳が思いつかない。

「もしかして、実はパンツはお洋服じゃないんじゃないですか?」

「いや、お洋服さっ! 違うんだ、そうじゃなくて――」

「まあいいです」

「ご、ごめん」

「いいですよぅもう。さっき謝ってくれたじゃないですか、あれが謝罪の先払いだったってことで――ね?」

 彼女は笑って許してくれた。パンツを見られたことなどそんなに気にしていないようだ。

 でもぼくの気が済まなかったのだ。

 申し訳ない、そんな気持ちでいっぱいだった。

 罪悪感から逃れるべく、別なことを考えようと努めた。例えば誕生日プレゼントは何が良いだろうかとか。――もしかすると、これが最後の誕生日プレゼントになるかもしれないのだ。

もしかすると、いや、そんなことは考えたくもないけれど……。三年後きみと彼女は全く違う方向を向いているのかもしれない。だから、とびきり素敵なものじゃなきゃダメだろう。しかしそれは金額の問題ではない。

 三年後もきっときみと彼女を繋げてくれる、思い出となるもの――それはなんだろう?

 そんな最高のプレゼントを渡せたら、きっと、この夏は永遠に忘れられないものになるはずだ。忘れることのできない、忘れられることのない――。

 ぁあ……。

 アクエリアスに晴天な空を見上げ、きみは泣きたくなる。

 この夏が永遠に終わらなければいいのに、そしたら甘夏と毎日海に行きたいな、ラムネ色の浮き輪と二三本の線香花火を持って。それから死ぬほどアイスクリームを食べて、死ぬほどかき氷も食べたい。夏祭りの夜店には週一で通いたいな。スイカ割りもしよう、あと肝試しも。

 なんてことを、どれほど願ったところで――、願っている間でさえも太陽は月を追い抜く勢いで高くなり、鳩時計は独房のレンガを数える囚人の如く死んだようにチクタク時を刻んでいた。

 キリキリと引き絞られた弦から放たれた矢は、限りなく水平な放物線を描き、それは光陰の不可逆なることを白日の下に晒す。だから、きっとこれだけは確実に言えるだろう。

 この夏は終わるのだ、きみが永遠を望めども。







 地球を真っ二つにブチ割る赤道のように、この街のド真ん中にどこまでも長い一本の線を引くとして――、さあ、右手の側を見るがいい。

 角膜水晶体硝子体を通じ網膜に映るのは無骨な鉄筋コンクリート群。旧態依然のインフラストラクチャー。巨体を持て余すこととなった地方新聞社建築。未だいつぞやのバブルの怪物の死骸を食いつぶしながら生きている半死半生の終わった街だ。

 つまらないホメオスタシスだけを墨守して、成長に背を向けた街。

 移り変わる現実から目を背け、停滞することをヨシとした「変われない」変わらない街。

 心なしか、道行くスーツメン達の顔も活気がなく見える。

「ったく、バカだわね」

 あたしは屋上の縁に腰掛け足をバタバタ。眼下のアリンコ人間たちを睥睨して、慣れた手つきで煙草を口にくわえた。煙草――と言っても入ってるのはタバコ草じゃあない、もっとアブナイ葉っぱ。もう何が何だか分からないくらい色々ヤバい物が混ぜこぜになったアブナイ葉っぱ。慣れないヤツが吸ったらブッ飛んじゃうような凄いヤツ。そうゆーのを平然とぷかぷかやっているのがあたしはすげーカッコいいと思っていた。

 ぷふぅー。

 あー、本日も平和です。本日も平和でーすっ。

 ガバリと天を仰ぐと、街中のエネルギーを吸い取ったかのように馬鹿に元気な青空を、一匹の真っ黒なカラスが飛んでいる。カラスはまるで空をチョキチョキ鋏で切ってこさえた穴のようだった。真っ黒な穴。――と、すると切り取った部分の青空はどこへ行ったんだろうね。

 ――って、どーでもいいわーいっ!

 おいっ、カラスめっ! あたしの青空を勝手に飛ぶんじゃねえーっ! 喰らえっ、根性焼き!

 そうして迷子のように洋々たる空を彷徨うカラスくんに、火の付いた煙草を投げつけた。これはドンキホーテが風車に突撃を仕掛ける様なもので全く無意味千万なことだ。――とも思われたが、彼には風車が巨人に見えたように、あたしにとってカラスはただのカラスではなかった。カラスに煙草を投げつけることにはきっともっと重要な意味があったのだ。意味があり、そしてその行為による事態の好転を望んだのだ。しかし、結局のところそれが良い結果をもたらすことはなかった。むなしかった。泣きたくなった。胸の内に溜めこんだタマラナサ――ヤルセナサ……、それは消えもせずシズシズと積もって行くだけ。

 手から離れた煙草は、重心を軸にクルクル縦回転しながら、見事な放物線を描いて、硬いアスファルトに向かって投身自殺をした。うぉおっ、南無南無。……なんて言って、ハッパでハイの気分のままアハハと笑ったが、寄せては返す波はすぐさま沈鬱を運んできた。

 ――こんなこと、してらんないよなぁ。

 耳に付いた慣れないピアスを弄りながら溜め息を吐く。あと七日――なんだよね。かなりハードなスケジュールだ。けれど、やらなければならない。やるしかないのだ。

 うぅん、と猫のような伸びをした。パキパキと全身が軋んだ。

 んじゃっ、いっちょ決めたりますかっ!

 ピリッと気合いを入れて――あたしはふらり。十九階の空色ビルディングから身を投げた。






「何なのよっ! 何だって言うのよ、もうっ!」

 わたしはバリバリと寝癖の髪を半狂乱に掻き毟って頭を抱えた。頭皮ごとごっそりと抜けるのではないかと思うくらい髪を引っ張り、目玉がゴロンと転げ落ちるくらいに目蓋を開いた。ペりぺリと軽い音を立てて瞼が目尻から裂けるのではないかと思うくらい目を見開いた。

怖かった。堪らなく怖く怖く怖く怖く怖かった。

とても恐ろしく、非常に重大な問題が両手を広げて前にも後ろにも上にも下にも立ちはだかっていたし、おまけにそうやってとうせんぼしている全員が屈強な相撲レスラーってカンジなのだった。

ホントのホントに万事休しちゃってた。最近は正月でも結構な店が休まないっていうのに何よそれ! ――なんて冗談とか、軽口とか言ってみるけど、正直次の一手としては自殺が最有力候補なほどに限界ギリギリ状態なのだった。いやホントだからね。

 そう、こうなっちゃったのはほんの十分前――と、わたしの頭はぎゅるぎゅる高速回転。

 アレは午前六時十分。

 いつものようにスマホのアラームで飛び起きて、これまたいつものように二度寝に興じようと思ったものの――ビックリ! いやもう息が止まるかと思ったわよ。

 だってね――。あのね、赤ちゃんがいたの。

 生まれたてのほやほやの赤ちゃんが腕の中でスヤスヤ眠っていたのよ!

 ――で、わたし思うわけ。ああこれは夢なんだな。まだ夢を見ているんだ。だから赤ちゃんなんて抱いてるんだなって。でも赤ちゃんがいるってことは、夢の中のわたしは――せ、……せっくす? とかしちゃったのかなー。きゃーっ! なんてバカなことを考えてたのよ。

 で、あとはほら、名前とか付けたわけ、夢だし。

男の子――つかさって名付けたわ。

 三樹つかさ――悪くない名前よね。

 で、さあ――、まあなんて言うかさ……。ものは試しっていうか、母親になったときの練習っていうか――。

 たっ、単なる好奇心よ!

 あのねっ、おっぱいあげてみたの!

 ――ちょっ、なっ! 引いた目で見るなぁあ! いーじゃないっ、夢なんだからそれくらい! つーか、わたしのおっぱいなんだからわたしがどーしようとわたしの勝手よ! あ、あんたらは自分のち、ちんちんでも触ってろぉ!

 で、でさぁ。赤ちゃんって本能的に分かるのね。おっぱいにきゅーって吸いついて――、そしたら出るかなって不安だったけどちゃんと出たわ。ああ、母親になるってこーゆーことなんだなって。嬉しいなあ。って思ってたんだけど――。

 つかさがね、噛んだのよ。

 ぎゅーって、ち……ち、くび、を噛んだのよ!

 当然痛いわよね。

 痛い?

 それで、わたし、ぞぞーってした。

 だってさ、夢じゃないってことじゃんっ! いやまあ、薄々は気付いてたんだけどさあ。

 でね、今度は、ああ、これはわたしの赤ちゃんじゃないんだなって思ったわけ。だってわたし、せ、っくすとかしたことないし、生理だって全然止まって無かったし。第一寝てる間に出産しちゃうとかそんなのってある?

 でも――それもすぐに否定するしかなかった。

 パンツにべっとりと付いた胎盤だとか、血だとか、ぽたぽたと垂れる母乳だとか、ありとあらゆる物証が、自分が母親であるっていう事実を雄弁に物語っていた。

「どうするってのよ――」

 ――処分しちゃう?

 ううん、それは出来ない。名前まで付けちゃったもの。今更そんなのムリよ。施設に預けるなんてのも絶対ダメ。わたしの子供よ? 出来るわけないじゃない。

 じゃあどうする? 学校で、この子わたしの赤ちゃんです、よろしくおねがいしますってみんなに紹介するっていうの? 正気? 仮にも風紀委員だって言うのに?

 あぁもう神様。いるんだったら教えてよ。ねえ神様ってば!






 焼けるような痛みが突然首に襲来し、跳び上がったきみは地面に煙草が落ちているのを見た。火の付いた煙草、煙が上がっている。おや、と思う。――上から降って来たよなあ。

「ポイ捨て?」

 まったく、ビルから、しかも火の付いたままの煙草をポイ捨てするなんて、危険極まりない迷惑行為だと憤慨して天を仰ぐと、真っ白な太陽の中心に人影らしきものを見た。

 燦然と輝く光の中に黒々と。

 人影?

 ――――。

 って。ええ――っ!

 まさか、落ちてきている?

 あ、危ない! し、死んじゃうって――。いや、それよりも自分も避けなきゃ!

 理性的にきみはそう思った。避けなければ、避けなければ死ぬ、そう思った。

でも、どうしてだろう? その後に取った行動は理性的な頭とは全く異なる行動で、今考えたところでやはり不可解極まりないものだ。きっと暑さにやられていたのかもしれない。そう思う。

つまり、無意識に構えていた。受けとめようと、大地を支える巨神アトラスが如く両足を踏ん張り、全力で腕を前に突き出していたのだった。

――って、何やってるんだぁあ! 無理に決まってるだろぉ! アニメとか漫画の見過ぎだって――。や、ヤバい。ぶつかる――。

「うわぁあああああああああああ!」

 悲鳴ともつかない叫び声を上げてぎゅっと目を瞑り身構えた。そして、いつだか、飛び降り自殺した人間に通行人が衝突したというニュースを思い出した。あれはどちらかが助かってどちらかが死んだのだった。――どっちだっけ? 自殺者か、通行人か――。

 自殺者か、通行人か。

 自殺者か、通行人か。

 自殺者か、通行人か――、

――一秒、二秒、三秒経った。

「あ――、ぁれぇ……?」

「おかーさーん、なんかあの人、叫んでるーぅっ!」

「ダメよ、たっくん! 指差しちゃいけません!」

 なんだぁ? そろーりそろーり、恐る恐る目を開けてみる。誰もいない。

「あれあれあれあれぇー?」

 きみはマスオさんみたいに素っ頓狂な声を出した。出さざるを得なかった。あるべきはずのものが無かったからだ――すなわち墜死体。

あの高さ――数十メートルはあろうかというビルからの転落である。やはりすべからくパンケーキのようにぺしゃんこになってしかるべきだろう――が、どこにもそれらしき死体はなく、その痕跡もない。道を行き交う人々が擦れ違いざまに、あざ笑うかのような視線をちらりと向けるので、きみはキツネに抓まれた表情で立ち尽くしていた。――ユメマボロシデモミタノダロウカ?

「ったく、バカだわね……」

 背後から呆れたような声がして、振り返れば。

真夏を謳歌しイキイキと繁茂する街路樹から、綺麗なおねいさんがすとんと降りた。に、忍者だーっ、いや違う。

美人な女性だった。

手触りの良さそうな軽く清涼な印象を与える生地の黒いミニのワンピースを、風を纏うような自然さで着こなしている。顔は目元まで長い前髪で隠されていて、ミステリアスな――何やら重大な秘密を握っていそうな危うさを感じさせた。触れるとただでは済まない、そんな雰囲気を漂わせているのだった。

と――不意に、ふぁっさーっと、地面に付くか付かないかの長い髪を掻き上げて、一陣の風が吹き、きみは初めて彼女の顔を視認した。

大人っぽいリップ、切れ長の目、そして、真っ黒で、鉱石で作られたかのような冷たい瞳はその背後にいくつもの血と修羅を匂わせた。おねえさんではなく、おねいさん、というのがぴったりな、クールで強くてカッコいいってカンジのイケてる女性だった。正直――見惚れた。きみは頭の先から爪先まで金縛りに掛かったように動けなかった。

「んぇーっとぉ。確認のため訊くけど、きみ名前は?」

「と、東堂ですけど。東堂夏輝です」

「うんー、だよなー。一目見て分かったわ」

 ぇえ……分かったのに訊いたの? 何それ。

 何それ、と思いながらもきみはどうしてだかきみに接近してきた彼女に、いささかの興味を抱き、頭からつま先までもう一度じっくりと観察してみた。

以下、分かったこと。

・一見大人びて見えるが、高校生か大学生か社会人にしても、ともかく十代。

  ・おっぱいがデカイ。

  ・趣味の悪い髑髏のピアスを何故か右耳だけに付けている。

  ・やっぱりすげー美人。

 結論、よく分からん。

「ねえ」

「はい?」

「お菓子あげるから付いてきてもらえる?」

 素敵な笑顔で何をバカなことを言い出すんだと思った。今時小学生でもお菓子には釣られまい、ましてや花も恥じらう中学三年である、確かにぼくは子供っぽいかもしれないけれど、それでもバカもホリデイホリデイにしてほしい。

「いやです。知らない人に付いて行ったらいけないってお母さんが言っていたので――」

「ふむん」

 おねいさんは困った表情をする。

 形のいい眉を顰めるその表情は見とれてしまうくらい綺麗で――、ああ、美人ってのはこういうことを言うのだなって思った。それだけに、パンクロックな腕輪やらチョーカーやらは残念だ。というか美人でなければかなり悲惨なファッションだった。

「なるほど――任意同行は不可能かぁ――。んじゃぁこうしよう。今からあたしがきみを拉致することにする――、どうだ? それなら問題ないだろ?」

 問題のありなしでいえば、大アリだ。アリアリのアリーデヴェルチなんだけれど、有無を言わせぬ迫力があったのできみは反論しかけてやめた。まあ、中高一貫の中学三年生ほど暇なものはないので多少は付き合ってもいいだろう。

 なんて――事件の依頼を請け負った探偵のような余裕ぶった言い方をしてみたけれど――本当のところを言うときみは待ってましたとばかりにその話に飛びついたのだった。

 女性の提案は刺激的な香りがした。

そしてきみは柑橘風味のスリルとか、ヴィヴィッドな出会いに飢えていたのだ。

退屈凌ぎという言葉があるけれど――、きみにとって退屈は致死性の毒物であり、何とかして退屈を凌ぐことは急務であった。でないと押し潰されそうになってしまうから。余計なことばかり考えてしまうから。

「そういえば。どこかでお会いましたっけ?」

 あまりに馴れ馴れしい態度をとるのでそう訊いた。まあ一種の牽制だ。邂逅の記憶はないけれど、年下だからとあまり侮られるのはいやだったから。

すると意外にもおねいさんは寂しそうに唇を歪めて俯き加減に

「……無理もないか」

 聞かせる気のない言葉だった。もし、少しの風でも吹いたら掻き消されてしまうくらい小さな声だ。だけどぼくにははっきりと聞こえて、なんだか悪いことをした気になって――

どこかで出会ったことがあるのかもしれない――ときみは記憶を漁り始めたものの、すぐにそれは採石場のズリ山から砂金を探すような無意味な作業でしかないことに気付いてやめた。知らないのだ。きみは知らない、小指の逆剥け程にも彼女のことを知らない。そして彼女も、きみが知っていること、覚えていることをやはり期待していなかった。

 だから、久しぶりではなくて、はじめまして。それでいいやって――。

 そして彼女も彼女で、

「さあ、どうだかね――」

と、わけもなく韜晦してみせてた。

そんな韜晦はミステリアスな彼女にはぴったりで、ともすると彼女も自分の魅力を分かっての行為なのかもしれないが、それこそ彼女しか知りようのないことで、一つだけ言えるのは悪戯っぽく笑ってちろりと犬歯をのぞかせると、ちゃんとティーンエイジャーらしい可愛さが表れたということだった。




 昼休みの時間が終わり、サラリーマンのいないオフィス街を歩く。彼女はきみの手を引く。きみは付いて行く。一体どこへ向かっているのだろう? なんてことを考えつつも、自己紹介や世間話をするでもなく前を向き黙々と歩き続けているので訊くに訊けなかった。少しだけ不安が首を擡げる。

同年代だから気を許したのだけれど、それも間違いだったのかもしれない。もしかするとこの女は吸血鬼でぼくを取って食おうとしているのではないか、あるいはシリアルキラーで路地裏に誘い込んでぼくを殺すつもりかも――なんて色々妄想。これもまた退屈しのぎの一環だった。

夏、午後二時。

ただ只管に――ただ只管にと言っていいほど執拗に照りつける日差しは、本来、色彩を一層鮮やかにするものに違いない。けれど、硝子張りのオフィスビルは空を鈍色に映し出し、硝子の中の太陽は茫洋と生気を失っていた。

 街路は真夏の北極の雪原のように雪目にならんばかりに白かった。

 その白のそこかしこに黒い点が散らばっている。それは時折もぞもぞ動いたり、あるいは爆ぜる焼き栗のように跳ねたりしていたものの、概ね蝉の死骸に違いなかった。

踏まないよう慎重に歩く。

 ところが逆に、ハイヒールおねいさんは、油蝉を――きみ達の襲来に思い出したかのように羽をばたつかせる大ぶりのを、一切の逡巡なく踏み抜き踏み抜き闊歩し闊歩した。きみは一抹の恐怖を覚えた。油蝉は断末魔の叫びを上げた。一歩――歩くたびに聞こえるくしゃりという乾いた音は、何かと思えば外骨格が粉微塵に破壊され内臓の飛び出る音だった。

 ジジジジジジジジジジジジジジジジ――ジジッ。

「ここらでいいかな?」

 おねいさんは突然振り返った。

道の真ん中。周囲には誰もいない。何もない。――いや、真っ赤な自動販売機がある。

コーラでも買ってくれるのかしらやったーっ、なーんてきみは淡い期待を抱いたもののどうやらそうではなさそうだ。くるりと、こちらを振り向いた彼女は口を真一文字に結んできみに歩み寄って来た。きみの両肩を掴んだ。

 ナニやら先ほどとは様子が違う。

 空気が違う。ダラリンと洒脱したような、人を小馬鹿にしたような薄笑いは影を潜め、迫真そのものの顔つきだ。きみは肺臓ヤラ心臓ヤラをさわさわ撫で回されるような妙な感覚を覚え、ひょわわと身体を震わせた。そして彼女は、

「きみは死ぬ」

――と、言い切った。

…………。

「は、はは……。それはあれですか? どんな人間も必ず死ぬ的な――」

 両肩に載せられた手を軽く払いのけながら、期待も込めてそう口にしてみた。

「いや。きみは七日後に死ぬんだ」

噛んで含めるように言われ閉口した。

もしかして、ちょっとアレな人なのかな。

「でも死にたくはないだろう?」

「はあ、まあ、そうですけど――」

 あまりの状況の飲み込めなさに御座なりの返事しかできない。いくら美人だとは言え、こうもおかしな話を切り出してくるとなるとやっぱり引いてしまう。美人だからこそ不敵になるのも分かるけど、残念ながらその免罪符は無敵ではない。限度があるのだ。限度が。

「ち、ちょっと待ってくださいよ? それってあれですよね、守護霊とかのお告げとか教祖様の教えとかそういうやつですよね――」

「いや、宗教じゃなくてさ」

「ぁあ、じゃあ、タロットカードの暗示とかですか?」

「いや、占い師でもなくて――」

 ん? 占い師でも宗教でもなければ一体どうゆーことなんですかねぇ。

てゆーか、死ぬってどーゆーことでしたっけ? ねえねえ、ちょっとやってみてくださいよーっ。と、きみが死という概念そのものに疑問を抱き始めたところ、突如、彼女は大胆に開いた胸元から棒状の物体を取り出し――きみの口にぐいと押し込んだ。

 ひやり、と口の中に冷たい感覚があり驚いて舌を奥へ引っ込めた。目を白黒させた。

 何だ!? 何を口の中に入れられたんだ!?

 取り出してから口の中に入れられるまでの数秒の間に見えたモノ――黄色い柄、鋭い先端、銀色に光る金属――結論:カッターナイフ。図画工作の授業でおなじみあのカッターナイフである――でも、あれは人の口の中に突っ込むものじゃなかったような気がするけどなー。だからそうだ、これはきっとチュッパチャプスなのだ。優しいおねいさんはきっとチュッパチャプスをぼくの口に突っ込んでくれたに決まっている。優しいにしては乱暴な方法だけど。

 じゃあ、ありがたく頂くと致しましょう。

 ぺろり。

 鉄味のチュッパチャプスだった――

 うわぁあああああああ!!

 ガクガクガクガクガクガクガクガクガクガク、全身の関節が軋み、外れそうだった。脳ミソが寸刻みに切り刻まれごちゃごちゃと手で掻き混ぜられているくらいに思考が混濁した。

 待て待て待てよ!? なんでだ!? なんで凶器が口の中に? 死ぬって! 冗談じゃ済まないって!

しかし、きみが大嵐の鳴門の渦潮みたいに激しく狂乱の最中にあっても、おねいさんは依然としてそこいらのコンクリート壁並に無表情で、それは驚愕と動揺を一周して再び恐怖に逢着したきみをさらに震撼させた。

「少年、これが運命だよ」

 幼い子供に言い聞かせるように言ってカッターナイフを一息にスライドさせた。

 カカカカカカカカカカカカカカカカ――ッ!

「ッ!」

 ズブリ――。

致命傷である。

死んだのだ。

呆気ない最後だったな、カッターナイフで喉を吐かれて血を噴き出して終わり。あまりにも呆気なく情けない……。

 しかし――何故だろう?

痛みがない。

――ぁあそうか、と合点する。きっと痛みも感じないくらい酷い傷を負って死んでしまったのだな、と。人間は許容を超える痛みがあると痛覚の接続を切断するという話を聞いたことがある。その上、出血もないし首に傷跡ができた様子もなく苦しみもない、とするならば死というのは存外楽なものなのかもしれないと結論付けてみるが――有り得ない。このはっきりとした意識。地面に両足を付けて立っている感覚。そして未だ止まない恐怖――。

んん?

もしかしてやっぱり生きているのか?

死後の世界にしてはやけに意識も気色もハッキリしているしなぁ。やっぱり生きているのかなぁ。

なーんだ、人間ってカッターで喉を突き破られたくらいじゃあ全然痛くないし、出血もなく、傷跡もなくて、死ぬことなんて有り得ないんだなぁハハハ――ハハハ、可笑しい、おかしい……何かが、あれ? 何かが……おかしい。おかし……い……ぞ?

「ウごォゲゥェええええええええええええェエ!」

 異常に気付いたときにはきみは酔客が吐瀉物を撒き散らすように剃刀大に折れたカッターナイフの刃を吐き散らした。じゃらじゃらじゃらじゃらんと、ちょうど財布ごと小銭をぶち撒けたみたいだった。ねっとりと粘性の唾液の中にキラキラ金属片が光っていた。

「へぇ、どうやら刃が途中で全部折れたみたいだね」

 おねいさんは自分がまったくの傍観者であるかのように面白可笑しそうに言う。

 さすがに殴ってやろうかと思った。

 でも、新しいカッターナイフを取り出したのが見えたので、ギリリと握り締めた拳は、最近凝り固まっている腰を叩くのに使った。あー腰が痛い痛い。トントントントン。

「つまり、これこそが運命ってワケ」

 バッチコーンとウィンク。

「運命、ですか――」

「そそっ。きみはどーやっても死なないのさ、来るべき七月八日まではね」

 たとえカッターナイフで口を貫こうとしようが、拳銃で撃とうが、ナイフで刺そうが、屋上から突き落とそうが、運命がきみを殺しやしない、とおねいさんは笑顔でいう。笑顔でいいながら、ジャキジャキとカッターナイフの刃を剥き出しにしペン回しでもするかのように慣れた様子で振り回した。肝を潰した。

「それはそれは――」

 カッタァアアアナイフぅぅう! なんでもう一本持ってるんだよぉぉお! 殺す気だな! 一回目は失敗したから、今度こそぼくを殺す気なんだな!

「しかし、死にたくはないだろう?」

「そうですね、はい。死にたくないです、死にたくないです、死にたくないですっ!」

 何でもいいからその物騒なものを仕舞ってくれよォオ! お願いしますって!

「ではでは、誓ってくれたまえ。運命を変える代わりに大切なものを一つ手放すと」

「もうなんでもいいですって、誓います誓いますっ!」

「いや――だから――」

「誓いますっ、誓うって言ってるでしょっ!? だから早くそれを片付けてくださいよぉ」

「……ああ、これは悪かった悪かった」

 おねいさんはようやく胸元に凶器をしまう。これで安心だろ? なんて掌をひらひら見せて――って全然安心じゃないってばっ! 身の危険度は冬山エベレストから、冬山モンブラン程度には低下したものの、相変わらず死の淵にいることには変わりない。ああ、やっぱり、知らない人に付いて行ってはいけないってのは至言だったんだなぁ、と、きみがしみじみと噛み締めていると、

「それで誓ってくれるんだよな?」

 え、何を? とは言えない雰囲気だった。今のこの気持ちを例えるならば、長すぎる利用規約を適当に読みとばしてしまった後の同意ボタンを押す気分だ。よく分かんないけど、誓うって言っても問題ないんだよね? ていうか凶器を所持した相手の手前とても否とは言えないし。

「は、はい。誓います」

「そうか――ありがとう」

 おねいさんはほっとしたように言って――

 きみにキスをした。

 な――。

 頭が真っ白になる。瞬く間に顔が熱くなって、鼓動が速くなって、蝉の声も、風の音も、みんなみんな遠くなって――、街にはぼくと彼女しかいない、そんな気がした。――って、いやいやっ、一体急に何やってんのさ、この女っ!

 きみはこの変態女を押しのけようとするけど、如何せん中学三年生の腕力では大人にはかなわない。――と、抵抗を諦めたのをこのクソ変態女は受け入れられたと勘違いしたのか、変態親父同然にも貪り喰うようなキスをして、あまつさえ舌まで入れてきやがった。噛み千切ってやりたいっ、そう思うけれど顎をガチリと掴まれているからムリだった。

 て……、ていうか、さ――、女の子の唇ってこんなに気持ちいいんだ……。

「ん、ちゅっ……っく。……っ、ちゅ……んん」

 大蛇のように暴れ回る舌に口の中を掻き回されて乱されて、きみはまったく蕩けそうだった。

 く、くそっ――、なんでぼくがこんな奴なんかにっ!

「ん……はっ――」

 おねいさんはようやく口を離した。蕩けそうな顔つきでじゅるりんと口を拭った。満足げで――しかし、さびしげでもあった。何か遠くを見つめる様な、失ってしまった何かを懐かしむような、そんな瞳をしていた。だから大激怒の雷を落とそうかと思っていたきみは気勢を削がれてしまった。ほんとに……まったく……なんだよもう。

「きみの瞳を見ていると――、思い出すよ」

 …………。

 ぼくは首を傾げた。おねいさんは微笑んだ。そして、こんなことを言った。

「イマニュエル・カントって知ってる?」

「カント? 哲学者でしたっけ?」

「そそっ。まあ、ドイツ最大の哲学者って言っても過言じゃないってくらいのすっごい人。あたしね、この人結構好きなんだー」

 いきなりそれがどうしたんだと聞きたがったがぐっとこらえて。

「……何をした人なんですか?」

「まあ、色々やってるんだけどね。やっぱり精神革命だよね。あれだ、ウィトゲンシュタイン的に言うなら、認識できぬものについては沈黙せねばならない! ってカンジ? これってさぁ、凄くない? 凄くない? だって今までの形而上学を全部がっしゃーんって引っ繰り返すようなもんなんだよ? ちょーロックでビンビンだよねっ」

「……すみません、分かりません……」

「んん……と。……ミステリー小説ってあるじゃん?」

「ありますけど」

「例えばあれの登場人物がさぁ。俺は主人公だから犯人じゃない! とか、あいつはどうも作者が動かしにくそうなキャラだから死にそうだな、とか、わたしは唯一のヒロインだから死なないわよねうふふっ、なーんて言ったらすげー興醒めじゃん。っつーか、そんなのってナンセンスだよね。物語の中の人物が物語の中であるって気付くわけないし。あーこれ、物語の中だなあーって、そんな経験ってどんな経験よ? つまりさ、そんな感じで物語の外側みたいに、絶対に経験できないことを理性的に論じるのは無理だーってことをカントさんは超難しい言葉で懇々と説いたわけ」

「でも、アニメとか漫画にはメタネタって有りますよ?」

「あたし、それ嫌い。ていうか好きな人この地球上にいる? あんなのリアルじゃないじゃん」

 おねいさんは苦虫を噛み潰した表情をする。なにやらメタネタに関して苦い経験があるのだろうか――まあ、メタネタが取扱注意な代物であることは疑いようもない。真剣な場面とか、感情移入している場面とかでやられると醒めるもんね。

「おーい、きみきみ! だーかーらーっ、そこのきみだってば! 今この文章を読んでいるきみだよ! あたしのことが見えるかぁ――って文章じゃ無理かっ。ははは。そうだ、もうあたしが登場してから六ページ目だよな、読者さんもそろそろあたしが何者か気になっている頃だろうし、ここら辺で少し自己紹介なんてどうだ? うんうん、そうしようか。えーっと、あたしは加賀美だ――名字が加賀美だぞっ! ごくフツーの高校二年生だ、よろしくなっ!」

 …………。

 彼女はきみを見つめながらそう言った。

「……ないですね」

「だよな」

 初めて意見が一致した時だった。

 おねいさんは話を続ける。

「つまりさ、あたしらは認識できるつまり、経験できるものしか語れないってことだけど、逆説的に経験したものは全て語り得るって思いこんでいるわけだ」

「正しいんじゃないですか? それは。経験しているんだから」

「経験が歪められていなければね」

 つまり現象界というのは制限された世界ではなく、自由自在に伸縮可能な領域なんだよ――と、彼女は言った。きみはいま一つ理解できなかったが、ともかく、それがとてもとても恐ろしい事実だってことだけは分かった。なんだか世界全体が揺らいで見えた。

「きみは本当にそこにいるのかい?」

 からかうように彼女は訊いた。ペロリと赤い舌を出していた。

「いますよそりゃあ! いるに決まってるじゃないですか!」

「じゃあ、あたしは今ここにいるのかな?」

「いますよ……いますって……たぶん」

 自信がなくなってきて最後の方は消え入りそうな声だった。

「分からないね。なにも」

 彼女はそう言う。きみもそうかと思う。けれど、蝉の声はやはりリアリアルな躍動感を伴い、大地を深層から熱く滾らせる大合唱を奏でていた。それは途轍もなく生の実感であり、命の質感であった。この世界にはやっぱりきみはいるし、皆がいるのだ。それは確かなことだった。


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