いまは、いつか
「いってしまうんだ」
「彼女」は、こくりと頷く。しろく透き通るような彼女の表面は、どんな雪化粧よりも、きれいだ。
「そろそろ、時間なんでしょう」
「彼女」が聞き返す。澄んだ声。
「いろいろ、あったね」
「そう。いろいろ、あった」
公園で遊んだり、友達ができたり。お母さんに怒られたり、お父さんに抱き締められたり。
学校にいって、勉強して、遊んで、けんかして、笑って。
好きな人ができて、全身で甘酸っぱさを噛み締めて、思いを打ち明けて、そしてふられて。
就職面接も緊張したし、上司に何度も怒られて嫌になったり、そのたびにふたりで団結して頑張った。
心から想える人も、想ってくれる人もできて、結婚して、幸せを体全体で受け止めて。
娘が生まれて、育児の大変さも「ふたり」であの人と味わって、でもかけがえのない命を授かったことの嬉しさも抱き締めて。あの人とけんかもして大変だったけど、なんとか二人で、そして「ふたり」でうまくやっていけた。
途中から、「私」の具合が悪くなってしまって、「彼女」には迷惑をかけた。「私」が調子悪いときは、いつも一生懸命、「私」にいきる姿勢を見せてくれた。たまに耐えきれなくなって「私」と大喧嘩もしたけれど、いつも元気になれば、「私」のそばに寄り添ってくれた。
勉強、運動、食事、仕事、趣味、何でも一緒。それは当たり前だけど、でもそれってすごく特別なことで。「私」と「あなた」がいつも一緒だったのは、かけがえのないひとつの思い出で。
「そろそろ、かもね」
ボロボロになった「私」は、もう「彼女」と一緒にいられない。「私」は、もう「彼女」を包み込んでいられない。
「彼女」は次の、新たな命に受け継がれていく。「私」と一緒に過ごした思い出も包み込んで、新たな体たちとであっていく。
「私」は単なる物質の固まりかもしれないけれど、「ふたり」で紡いだひとつの「私」の物語は、娘や、まだ見ぬ孫や、多くの人たちに、確かに紡いでいかれるのだろう。
「私」の精一杯の鼓動が、最後の一回を打ち鳴らす。「彼女」はそれを合図に、「私」のもとから去っていく。
「それじゃ、そろそろいかなくちゃ」
「もう少し長く、一緒にいたかったね」
「仕方がないと言えばおかしいけれど、でもそう思う」
「また、会えるかな」
「巡りめぐって。わたしはどの生命に受け継がれるかわからない。わたしは、平等だから」
「それじゃあ、私は、私たちは巡りめぐって、木や花や、鳥やネズミや、いろんな植物や動物、菌類、もしかしたら空気や土に姿を変えて、生命として、またあなたとひとつになるように、ながくながくあなたを待っている。また会ったら、よろしくね」
「いつか、聞いたような台詞」
「彼女」は笑った。どんどん、「私」から離れていく。「私」から「意識」が、「魂」が、離れていく。
「あなたに宿れて、本当に良かった。また、いつか、どこかで」
「うん。また、いつか、どこかで」
「彼女」は、遥か彼方に飛んでいく。「私」の意識が、遠退いていく。次は、どんなものに姿を変えるだろうか。
またいきものだったらいいなあと、「私」は、「私たち」は目を閉じた。