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花筐

曼珠沙華

作者: algol

 彼女の喉を吹き抜けた風が、僕の鼓膜を震わせた。真夜中過ぎ。

 僅かに開いた障子の隙間から、月光が零れていた。

 暗い部屋に、長く。長く。


 僕は布団から抜け出すと、茶羽織を纏い、薄い夜着の襟元を合わせて部屋の外へと滑り出た。素足のまま、月光に冷やされた廊下の木目を辿る。歩を進めるたびに軋みを上げる木板の悲鳴を踏みつけて、一歩一歩、彼女の部屋へと近づいていく。

 こん、と彼女がか細く鳴いた。

 小さく、繰り返される咳も聞き慣れていた。幼い頃から、まるで季節を知らせるように彼女は床につく。そして深くなったり浅くなったりを繰り返していた咳に、乾いた風のような音が混じるようになったのはいつの頃からだったろう。患いと患いの間隔が次第に狭くなり、一度に伏せっている時間は長くなっていった。

 白かった頬も今や太陽を忘れたように青みがかって、夜が明ける直前の空のようだ。けれど、やがて彼女に訪れるのは夜明けではないと、わかっていた。

 僕は彼女の部屋の少し手前で立ち止まって、天を仰いだ。

 祈りを捧げようかと思ったが、僕は神の名を知らなかった。

 静かに障子を開けると、月の光が彼女の部屋へ侵入り込む。透るように白い光は僕よりも早く、僕よりも穏やかに射し込んでいく。夜に燦然と輝く月は優しく、太陽のように彼女を傷つけることはなかった。

 僕は丸めた背中で月の光を遮り、彼女の部屋へと入った。

 彼女がこちらを見上げ、微笑んだ。

「お兄ちゃん」

 薄い胸を両手で押さえ、彼女が呟く。僕は茶羽織を脱ぐと妹の肩にかけてやり、傍らに座った。

「暖かくしてろって、言ったろう」

 叱ったつもりだったが、妹は「ふふ」と小さく笑い、僕の羽織を胸の前で掻き合わせ、握りしめた。濃藍の羽織に食い込んだ妹の指は白く、細い骨が浮き出して見えた。

「あったかい……」

「ばか」

 呆れたように呟いて、僕は顔を背けた。妹が唇を尖らせたのが、気配でわかる。彼女は僅かに身じろきをして、僕の傍に頬を寄せた。

「ねぇ、お兄ちゃん」

 咳で焼かれて、掠れてしまった声で妹は鳴いた。妹の指先が羽織から離れる。幽かな衣擦れの音を立て、羽織は彼女の肩から滑り落る。布団の上に溜まった濃藍の布はまるで深淵のように彼女を取り囲む。僕が手を伸ばすより早く妹が顎を上げ、自らの襟元に指を掛けた。

 彼女はまっすぐに僕を見据え、言った。

「からだ、拭いて」

 もうずっと、夜ばかり映し出してきた妹の瞳は黒かった。どこまでも深い闇のようで、僕は――彼女の肩に手を掛ける。

 ひんやりとしたその感触は、僕をいくばくか正気に戻した。深海に降り積もる死骸のような白い肌から、僕は慌てて視線を逸らす。どうかしている。彼女と、妹と深く沈んでしまおうだなんて。

 どうかしている。

 「少し待ってなさい」と言い残し、僕は風呂場へと向かった。彼女の体を拭くために、温かな湯と柔らかな布が必要だった。こんこんと桶に注がれる湯を見ながら、ふと思い出す音色があった。否、思い出すというのは正確ではなかったかもしれない、水音に紛れ、頭の奥から響いてくるような歌声だった。

 ――つくばねのォ……みねよりおつゥる……

 少年の声だ。まだ甲高い声で、からかうように唄う。児戯に嬌声が重なり、その声の主を思い出したとき、

「ああ、そうか……」

 僕は自らの独白で、現実に引き戻された。

 あれは僕自身の声だ。妹と昔、よくカルタ取りをした。まだ彼女が幾分丈夫だったころ、小さな体を弾ませてカルタに飛びつく様がおかしくて、僕は好んで読み手を取った。

「懐かしいな」

 笑み、僕は呟いたが、歌の続きは思い出せなかった。

 気がつくと湯が溢れていた。僕は桶を傾けて湯を減らすと手拭を放り込み、彼女の部屋へと向かった。陰鬱な廊下を通るたび、足元にじゃれつく幼子の笑い声が聞こえる、気がした。

「遅くなってごめん」

 謝りながら障子を開ければ、彼女が莞爾と微笑んだ。布団の上にきちんと正座をし、僕を見上げている。大きすぎる茶羽織が彼女の腰まで包みこみ、胸の前で掻き合わされた羽織の隙間から、指の爪だけが覗いていた。その様がまるで幼い子供のようで、僕も笑みを零した。

 僕が桶と並んで腰を下ろすのを眺め、彼女はゆっくりと両腕を広げた。羽化していく彼女の身体は、薄い夜着だけに包まれていた。その白い身体から、僕は努めて眼を逸らした。伏せた僕の瞼に妹の視線を感じる。妹は夜着の襟を広げ、あっけなく、滑り落としてしまった。

「拭いて」

 真っ黒い目で、妹が言った。

 妹の肌を隠すように、僕は濡れた手拭を彼女の鎖骨に押し当てた。妹が息を吐くと細い喉がひゅうと鳴る。それでも僕の手に零れる吐息は、温かかった。

 どうしようもなく、悲しくなった。僕は無言で、妹の身体を拭き続けた。

「おにいちゃん」

 不意に、彼女が僕を呼んだ。思わずびくりとした僕に、妹がくすくすと笑う。細い手で自分の肩を押し包みながら、妹は戯けたように言った。

「いたぁい」

 小さな骨の浮き出た妹の指が、手拭を示していた。彼女は布団の上に両手をつくと、胸を反らし、唇を尖らせて僕を見た。

「もっと優しく拭いて」

 子供じみた我侭は僕を安心させる。僕が笑うと、妹も安心したように笑む。僕はもう一度桶で手拭を濡らし、妹の身体に当てた。浮き出た肋骨と鎖骨の間に、僅かな膨らみがある。彼女の唇にも似た、唯一赤いその部分が震えている。寒いのだろう。淡く、勃ち上がったそこに僕はそっと手拭で触れた。

「おにいちゃん」

 もう一度、彼女が呼んだ。

 彼女の黒い瞳に笑みはなかった。

 彼女の唇がゆっくりと動く。

 その声を、僕は聞かなかった。

 ただ痺れた耳の奥、甲高い少年の歌声が響いていた。


 妹が死んだ。

 僕の罪を隠すように、その唇はしっかりと閉ざされていた。

 今、僕はただ一人、彼女の部屋に立ち尽くしている。

 古びた障子の隙間から、月光が降り注いでいる。部屋中を満たす柔らかな光に憎しみを覚え、僕は障子を叩きつけるように、閉ざした。

 最期の時、僕は彼女の傍にいてやれなかった。町へ、卵を買いに出ていた。妹が食べたいと、言ったからだ。

 臨終のとき、とても苦しんだと人づてに聞いた。か細い喉を引き攣らせ、彼女は何度喘いだだろう。彼女の荒い息を、僕は今もなお耳元を掠めているかのように思い出すことが出来る。柔らかな胸を汗が伝っただろうか。それとも乾ききった肌を震わせて、ただ安らぎを求めたのだろうか。

 妹は僕を、憎んでいただろうか。

 僕を、愛していただろうか。

 彼女の唇が最後に刻んだ言葉を、僕は知らない。

 閉ざされた闇の中、僕が作り上げた闇の中、僕は指先で乾いた畳に触れる。ざらりとした手触りが、還らぬ時を知らしめる。

「――……」

 冷たい畳に向かって、僕は彼女の名を呟いた。

 答えは返らない。もう二度と。

 判りきったことに、僕は笑った。

 闇の中、僕の笑い声だけが響いている。狂ったように、僕は笑い続けた。耳の奥に響き続ける少年の声が、僕の罪を朗々と語る。

 妹が消えても、罪は消えない。罪だけが有り、妹は亡い。滑稽だ。おかしくてたまらない。

『お兄ちゃん……?』

 遠くから、くすぐるような甘い声が聞こえる。空耳だ。優しい声は、もう聞こえない。もう二度と。


 誰が予想しただろう。

 私が生き残り、兄が死ぬなんて。

 兄の死は突然訪れた。兄とは違う足音を立てて、いつも兄が開けていた障子は開け放たれた。黒服の人々は皆一様に沈鬱な面持ちで、酷く遠慮がちに兄の死を告げた。人々は皆口々に憐憫の言葉を述べ、私に泣くようにと促したが、私は白痴のようにただ頷くばかりだった。”事故”という単語さえ、その時の私には、酷く現実離れしたものに聞こえていた。

 初めて顔を見る、遠戚の人々はとても優しかった。それは父から兄へ兄から私へと引き継がれた財産に依るものだと判っていたけれど。熱の篭らない優しさは、熱に浮かされた私の身体にとって、心地良いものだった。時折白い服の人が訪れて、冷たい金属を私の胸に押し当てた。最初無表情に溜息を落とすばかりだったその顔に、少しずつ笑みが浮かんでくると、私の身体にも少しずつ肉がつきだした。

 広い家の中で、私は変わらず一つの部屋だけを使っていた。変わらず床を延べ、夜着にくるまって過ごしている。布団の床には手水用と嘔吐用の桶が二つ、寄り添うように並んでいる。擦り切れかけた手拭が、しどけなく桶にもたれかかっている。

 私はそっと、自分の腹に手を当てた。

 今でも時折、兄がこの部屋に訪れてくるような気がする。

 兄は知っていただろうか。

 今夜もまた障子が幽かに震え、軋みを上げる。張り替えたばかりの畳が何度も撓んで、息遣いさえ聞こえてきそうだ。やがて足音がやみ、沈黙と暗闇が部屋を支配すると、月の光を完全に拒んだ部屋の中で、私はそっと目を閉じる。

 兄はおそらく自分の死を悟る間もなく逝っただろうと聞いた。息を詰める間はあっただろうか。その目は驚きに見開かれただろうか。そして閉ざされたのか――あの夜のように。

 これは罰かもしれない。私たちの罪の。

 今でも、兄が呼ぶ声が聞こえる。今夜も、兄の笑い声が聞こえる。

 喪われた命と与えられた命。同じ源を持つ縁はまるで必然のように思えた。この身に宿る罪が、愛おしくてたまらない。

「お兄ちゃん……?」

 私は今日も帰らぬ人を呼ぶ。

 ゆっくりと胎を撫でながら、私は笑みを浮かべた。

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