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月の精霊~異世界って結構厳しいです~  作者: 鬼頭鬼灯
ゾルテの精霊― 一章
8/112

8.口付け


 『月の宮』は、月の光を最大限吸収できるように作られているそうだ。特に宮殿の中央にある『月の滴』は、毎夜月がずっと映り込んでいる。

 闇の中に沈んだ『月の滴』の池は、光る何かが水の中でキラキラと煌めいていた。夜中にちょっと散歩をしていると、『月の滴』の傍らに雪花や青花が立っていることもしょっちゅうだ。昼間はあまり彼女たちを見かけないので、夜の時間の方が重要なのだろう。彼女達が寝静まっている早朝──ソフィアも目覚めない時間、紗江は一人で起き出して門番に挨拶をした。

「おはよう、ロウイ」

 門番のロウイは茶斑の髪を短く切った男だった。茶褐色の肌でいつも酒に酔っている。気位が高そうな雪花や青花のもとで働いていながら、何故に彼は毎日酔いつぶれても怒られないのか。疑問だ。小さな小屋の窓口から顔を覗かせると、彼は椅子に座ったまま眠っていた。だらりと垂れた手は小さな酒ビンをしっかり握っている。

「そんなにお酒を飲むと体を壊すよー……」

 起こさないように小さな声で囁き、紗江は窓の脇に置いている帳簿に外出の記録を書いた。勝手に門の隙間から外へ出る。

 すっかり常春の国と化した月の宮周辺の景色は、壮観だ。咲き乱れる桜の花びらが時折舞い散り、見渡す限りの花畑。正に桃源郷。

 冷えた早朝の空気を肺一杯に吸い込み、背伸びをする。着付けの仕方は今一つ分かっていないので、適当に着物を合わせて帯で押さえている。帯の結び目は、蝶々結びだ。

 こちらの世界に来てからというもの、一人で過ごす時間がめっきり減ってしまい、窮屈に感じていた紗江は、時折こうして散歩に出ていた。

 駄目だとは言われていないので、構わないのだろう。ソフィアに外出する時は頭から布を被るように注意されているが、邪魔なので言うことを聞いた例はない。バレなければ問題は無い。

 紗江は足取りも軽く門からの一本道を進んだ。桜並木をしばらく進むと、花畑が目の前に広がる。ソフィアに、これ以上行ってはいけませんと言われた場所だ。

 紗江はいつものように、花園の中に腰を据えて、勝手に持ってきた茶道具で朝茶を淹れた。こちらの茶道具の良いところは、お湯を運んでも零れないところだ。なんでも道具に月の力を施しているので、主人が茶を入れようと思ったときにしか湯が出ないらしい。こんなささやかなところで魔法──もとい『月の力』の実在を実感する。

 甘い香りがする、茶色いお茶を飲もうとしたとき、紗江の視界が陰った。

「やあお嬢さん。こんなところでお茶会ですか?」

「……」

 ぱちりと瞬いて、視線を上げる。紗江の背後に、男の人がいつの間にか立っていた。彼は背後から紗江の顔を覗き込み、ふっと吐息交じりに笑う。

 白い髪がさらりと目元を隠し、耳にするとぞくりとする、低い声音が響いた。

「私も、ご一緒させていただけますか?」

 紗江は急速に早くなっていく鼓動を意識しながら、茶器を花園の中に置く。

「……アラン様……。えっと……おはようございます」

 お茶を一緒に飲む云々はおいておこう。アランは紗江が返事をしている間に正面に回り込み、片膝をつく。漆黒の着物は質が良いのか、彼が動くたびにてらてらと光を反射して、眩い。指という指に宝飾品をつけた手のひらを左胸に当て、彼は首を垂れた。

「一度お目にかかっただけだというのに、我が名まで覚えて頂けていたとは、光栄です」

「えっと……」

 紗江は目を泳がせた。高貴な雰囲気の人に、どういう物言いをしたらいいのか分からない。

 アランは紗江の微妙な反応など気にも留めず、立ち上がった。そして大きな手のひらを差し出す。

「……?」

 意味が分からず見上げると、彼は甘く微笑んだ。

「お立ち頂けますか、神子様?」

「えっと、はい……」

 有無をいわせぬ気配に押され、紗江はその手の上に自分の手を重ねた。紗江の手よりもずっと体温が高い。暖かな手は、紗江の小さな手をぎゅっと握り込み、そのまま紗江を体ごと引き上げた。

「わ……っ」

 強引に立たされた紗江は、目を丸くする。腰に腕が回され、引き寄せられたのだ。

「えっ」

 着物でよく見えなかったが、彼の腕はとても筋肉質で、抵抗らしい抵抗もできない。ぽす、と彼の胸に顔を埋めることになった紗江は、次いでされたことに、悲鳴を上げた。

 アランは紗江の腰――帯に手をかけ、結び目を解こうとしたのだ。

「あ、待って……っ、ちょ、ま……っ」

 ――その帯を解かれると、全部はだけちゃう……っ!

 必死に彼の手を抑えるが、力の差は歴然だった。こんなところで裸にされてなるものかと、せめて着物のあわせだけでもぎゅっと手で押さえたところ、程なくしてアランは動きを止めた。そして頭上でぼそりと呟く。

「……なぜ帯が一本だけなんだ……」

「……」

 紗江はちょっぴり涙ぐみつつ、視線を落とした。紗江の着物は、朝になるとベッド脇に勝手に用意されている。いつもそれを、ソフィアが着つけてくれるのだ。

 今日枕元にあった着物は、以前着つけてもらったものと、少しだけ違うなあとは思った。帯の数が三本で、多いなあと……。

 でも形は似ているし、寝起きで面倒くさいので、帯一本で結べばよいだろうと気楽に着てしまった自分が悪かったのだ。襦袢の形が崩れ、外に出て来ていたのを、アランは見過ごせなかったのだろう。

 帯は既にアランによって解かれていた。胸の前で紗江自身が着物のあわせを抑えていなければ、全部丸見えになる状態だ。

 でも、だからって……ほぼ初対面の女性に、何という仕打ち――……。

 もう泣いちゃおうかな、と思った時、アランが気を取り直すように、咳ばらいをした。

「失礼。着つけが不十分のようだったので、手直しをして差し上げようと思ったのだが……これは、『月の宮』の者がしたのだろうか……?」

 言葉の端々に、あり得ないという気持ちを感じ、紗江はしょんぼり俯く。

「いえ……私がしました……」

「……着つけは覚えられるがよろしい」

「……すみません」

 なぜか無体を計られた紗江の方が謝罪し、アランが嘆息した。

「本来この着物は、襦袢に帯を一つ使い、上着に二本使うのです。申し訳ないが、胸の前は押さえておいてください」

「え……っ」

 アランは淡々とした表情で、紗江の前に跪いた。

 ――む、胸の前を抑えても、そこに座られたら、下着が……っ!

 内心絶叫している紗江など気付かぬていで、アランはさっと腰から下の着物の合わせを整えていく。あわあわと顔を赤くしている紗江の手から帯を抜き取り、腰回りに巻いていった。長い帯の先は、サーファイと同じく、器用に花の形にしてくれる。

 ──こちらの世界は、男性も女性の着つけができて当たり前なのかな……?

 綺麗に整えられた紗江は、気恥ずかしく思いながらも、立ち上がった彼に頭を下げた。

「……あ、ありがとうございます……」

 瞬間、アランは息を飲んで紗江の頭を鷲づかみにした。

「い……っ」

 ――痛い。

 思わず、といった雰囲気で、紗江の頭をがっしり掴んだ彼は、低く呟く。

「頭を下げてはいけないと……まだ教育されていないのか……?」

 地を這うような低い声だった。若干、怒ってさえいそうだ。

 恐る恐る顔を上げ、紗江は背中に嫌な汗を滲ませた。

 こめかみに青筋を浮かべたアランが、目を見開いて紗江を凝視していた。

 ――着つけだけでなく、行儀さえ知らないのかお前は。と言われた気がした。

 紗江は小声で言い訳をする。

「……な、習っては、いるのですが……癖で……」

 アランはしばし黙り込み、ふう、と大きく溜息を吐き出した。呆れ果てた、溜息だった。

「では、今後はいかなる場合も、頭を下げぬよう、意識なさいませ。……()の神子が他者に頭を下げるなど、想像もしたくない」

 最後の方の声は小さくて、よく聞こえなかったが、紗江は苦く笑う。

「二十一年間頭を下げ続けてきたので、すぐに直せるかどうか……」

「……」

 彼は眩しいほどの、美しい笑顔を湛えた。

「――直せ」

 紗江は、にこっと笑った。

「――はい」

 よく分からないけれど、逆らわない方が良さそうだ。

「えっと、着つけをしていただき、ありがとうございました。私はこれで……」

 下着を見られてしまった恥ずかしさもあり、紗江はそそくさと茶器を片付け始める。

「そうですか。月の宮までお送りしたいところだが、私も時間だ」

 彼が上空を見上げると、大きな鳥が旋回していた。

 ――大きい。ううん、大きすぎる。

 徐々に降下してくる鳥の両翼は、端から端まで広げて、五メートルはあろうかという大きさだ。怪物レベルの巨大さを誇っていた。獰猛な猛禽類の嘴をもった鳥は、風圧を生まないよう、上手に花畑の中に着地する。

「大きい……」

 人間を一飲み出来そうな、大きなくちばしの鳥は、アランの方を見て両足で跳ねてきた。カラスが地面を飛び跳ねるのと同じ仕草は、見た目にそぐわない可愛さである。

 鳥は甘えた声で一つ鳴くと、頭を地面に伏せて背中を見せた。良く見ると馬に乗せるのと似た鞍が背中に乗っている。

 アランは紗江の手を取った。

「もう出仕の時間だ。それでは神子様も、気をつけてお戻りください」

 手の甲に柔らかく口づけると、彼は鳥の背中にひらりと乗り、手を振った。鳥の翼が大きく開き空へ飛翔していく。

 紗江は唖然と鳥とアランを見送った。

「すごい……。あの人、鳥の背中に立ってた……」

 てっきり跨いで座るのかと思ったのだが、彼は首回りの手綱を掴むと立ったまま、飛んで行ってしまった。巨大な鳥は、既に遠い空を飛んでいる。

 紗江はふと、口づけられた手の甲を見る。

 口づけされた感触は、しばらく消えそうもなかった。


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