6.神子の力
何とか気持ちを立て直したソフィアは、紗江を伴って早々に帰路についた。
『月の宮』の門は大きい。神殿を囲う壁は、見上げた感じ、約三メートル。門はその長さに加え、頭頂部に半円形の飾りの格子までついている。
出てくる時は、周辺に人影などなく、唯一、門の脇の小さな建物で番をしていたロウイという茶斑の髪のおじさんに、挨拶しただけだった。
紗江とソフィアが出た後は、しっかり閉ざされていた門だが、えっちらおっちら戻ってきたところ、その門が大きく開いていた。
大きな門との対比のおかげで、一際小さく見える。こちらの世界では、とてもすごい人らしい少女が二人、門前に佇んでいた。
「あ、雪花様と青花様だよ、ソフィア」
二人なら何とかしてくれるんじゃない? と目を向けたところ、ソフィアのくりっとした目が、限界まで見開かれた。
――あれ?
「宮様方……っ」
悲痛な声を上げ、ソフィアは真っ青を通り越した、真っ白なお顔で、二人の元へ駆け寄った。
「え――」
紗江の方は、目が点だ。
ソフィアは何と、勢いよく二人の元へ駆け寄り、土下座をしたのだ。平伏とはあれを言うのだ、という見本のような土下座。額を地面にこすりつけて、重ねた両手もまた地面としっかりくっついている。
彼女は顔も上げず、叫んだ。
「お傍仕えの私がご一緒でありながら、このような事態を招いてしまい、申し訳ございません! お叱りは、この身を持ってお受けいたします!」
紗江は瞳を真ん丸にして、よたよたと近づいた。
「えっと、あれ? そんなに? そんなに大変なことしちゃったの、私?」
ちょっと草原と森を花まみれにしただけなんだけど、己を差し出すくらいに重罪だったなんて――恐ろしすぎる。
青花と雪花は、白い顔に冷たい笑みを浮かべ、ソフィアから紗江に視線を移す。
「……無事に戻られたようで何よりじゃ、神子殿」
「ほんに。……到着早々、月の宮一帯を転変させてしまわれるとは、まこと、元気の良いことよの」
ソフィアは地面に伏したまま、くっと苦しそうに喉を鳴らした。
サーファイから教えられた――『死罪』、という言葉が脳裏をよぎる。
まさか草原を花畑に変えただけで、死刑なんて言わないよね、と聞いてみたかったが、雰囲気は思ったより重い。
雪花と青花はどうも、ご機嫌が優れないようだ。
二人の機嫌を損ねた際には、ソフィアのようにするものなのだろう。なにせ、異世界にいるみたいだし、どんなルールがあるのかわからない。
紗江は、先人にならい、ソフィアの隣に正座をして、頭を下げる。
──あ、土下座って割と屈辱。
生まれて初めての土下座は、新鮮な敗北感を与えた。
「えっと、すみませんでした……」
隣から、ひゅっと息を飲む音が聞こえた。
「ほ!」
「よさぬか!」
「みみみ、神子様……!」
雪花と青花が同時に声を上げ、ソフィアは唇まで青くしつつ、紗江の腕を引っぱって、立ち上がらせた。
「え、えと、え? あれ、なにか、違った……?」
引きずられるまま立ち上がると、ソフィアが狼狽も露わに捲し立てた。
「『月の神子』様は、誰の前にも膝を屈してはなりません! 『月の精霊』様でさえ、主人以外へ膝を折ってはならないのです! 神子様は、『月の精霊』の頂点なのですよ。お気を付け下さい……っ」
「……お二人にも、跪いちゃいけなかった、かな?」
『月の精霊』の頂点だとか、よく分からないが、そういえばソフィアから、何度か頭を下げるなと言われていた。
ソフィアは大きく頷き、白い髪の雪花が、どこからともなく扇子を取り出し、口元を隠す。黒い瞳をすっと細め、淡々と言う。
「――さよう。『月の精霊』は、この世に置いては崇めるべき存在としている。例えそなたがあちら側で平民だったとしても、こちらでは特別な存在だ。お前たち神子が頭を下げると、他の精霊の立場が危うくなる。我らは精霊を奴隷として扱うことのないよう、この世の理を統一せねばならん。お前たちが奴隷の扱いを受け、この世を疎んじれば、我らの未来は無いのだから。」
――全く意味が分からない。
青花が銀色の髪を揺らし、小首を傾げる。能面のような顔をしているが、そこはかとなく、苦虫を噛み潰したような、苦々しさが漂ってきた。
「跪く――ということは、誰かに従属する、ということだ。『月の精霊』は、主人を持つが、彼らに従属しているわけではない。主人から酷い仕打ちを受ければ逃れる権利を持ち、更にそれは主人の死を意味している。『月の精霊』に従属しているのは、主人のほうなのだ。『月の精霊』は、生活を保障される代わりに、主人の願いを叶えてやる。かような摂理で成り立っている以上、『月の精霊』よりも一つ格上である、お前達『月の神子』は、決して何者にも膝を屈してはならない」
雪花が続ける。
「お前たちが跪くと、この世の人間は、勘違いする。『月の精霊』達はこの世の人間が居なければ生きていけない。そこに付け込んで、奴隷同然の扱いが始まりかねない。だがそれが始まれば、この世は終わる。なぜなら、『月の精霊』達は、この世にあることを疎んじると、『月の力』を失い、元の世界へ消えるからだ。『月の精霊』が消えると、この世は恵みを失い、枯渇する。しかし、人とは愚かであり、過つ。少しでも勘違いさせないために、理にて明確に線引きをしているのだ。――わかったか?」
交代で説明をしてくれた二人には悪いが、途中から頭の中がぼんやりしてしまった。青花の視線が額に突き刺さり、慌てて頷く。
「はい、わかりました。誰にも跪いちゃいけない。これ、絶対」
どこかのポスターにでも書いていそうな感じでまとめると、雪花が扇子の向こうで、深い溜息を落とした。
「……仕方がないのお。自覚してもらわねば、困る。お前の月の力は、尋常でないのだ。お前が甘いと、国が沈む。分かっておるか?」
「……国?」
きょとん、と瞬いた紗江の反応を見るなり、雪花はソフィアに目配せをした。
「ようよう、学ばせるのじゃ、ソフィア」
「時間は、左程ないのだからの……」
青花はそう呟くと、ふう、と溜息をこぼしながら、視線を逸らした。
どうやらお咎めはなかったようだ。
ソフィアに連れられて、部屋から見えていた庭に案内された。紗江の使っている部屋からは死角になっていたが、部屋のすぐ脇に、テラスがあった。
木製の机が三つ適当な間隔で並んでいる。月の宮の周りの木々はすっかり桜に変貌してしまっていて、風が吹くと桜吹雪になった。
ソフィアは、角の席へ紗江を案内し、茶を用意し始めた。
「『月の神子』様は月の力を人々へ分け与えることにより、人々の願いを叶えます」
「う……」
紗江は思わず、呻いてしまう。とても自然に勉強会を開かれる流れだ。
なぜ異世界に来てまで、毛嫌いしていた勉強をしなくてはいけないのだろう、と切なく桜を見上げると、ソフィアがきりっと咎める。
「神子様? よろしいでしょうか。こちらをご覧ください」
「……はい」
逃げる術は無い。しぶしぶ見ると、ソフィアが差し出した手の中に、小さな鈴が乗っていた。言われるまま鈴を見ていると、彼女は鈴の上に指を置き、何かを呟いた。
ぽん、と空気が弾ける音が鳴ったと思ったら、彼女の手の上に、手のひらサイズのウサギがいた。
「わあ、かわいい」
上手な手品だ。丸いフォルム、赤い瞳、柔らかそうな毛。とても精巧に作られている。すごいねえ、とソフィアを見上げようとした紗江は、目の端がとらえた動きに、視線を戻した。
ウサギが紗江の動きに反応して、顔を上げた。
「え……」
小さな鼻が、ひこひこしている。――瞬きをした。
「い、生きている……?」
こんな小さなサイズのウサギは見たことが無い。例に指先で触ってみるが、体温もあった。
ソフィアは何てことなさそうに説明する。
「これは鈴を変化させたものです。今は命がございますが、元は鈴ですので、主の意向を汲み、『使い』になる、道具です。神子様。私の左手に手を重ねていただけますか?」
「……? はい」
言われるまま、ウサギが乗っていない方の手に、手のひらを重ねる。
別に何も起こらない。ソフィアは言い含める。
「よろしいでしょうか。今から私が質問いたしますので、はい、とお答えくださいませね?」
「はい……」
訳が分からない。
「では、このまま私に力を与えていただきます。神子様? 私はこの兎を大きくしたいのです。お力を分けていただけますか?」
小さいウサギは可愛いが、大きくしてもきっと可愛いだろう。言われるまま紗江は頷いた。
「はい……っう──」
重ねた手のひらから、ソフィアの手に何かを吸い取られる感覚に襲われ、紗江は眉根を寄せる。同時に、ソフィアの悲鳴が上がった。
「きゃあっ」
ぼたりと鈍い音を立てて、床の上に巨大な何かが落ちる。
その塊を認識すると、紗江は顔を歪めた。
「……うわー」
淡い光をまとった巨大な毛玉――もとい、巨大なウサギが、つぶらな瞳で紗江を見ていた。体高が、ソフィアの腰辺りまである。
いくらなんでも、大きすぎる。可愛いが、大きいげっ歯類は、ちょっと怖い。噛まれるとどうなることか――。
紗江は可愛い顔をした怪物を、早々に片付けてもらうべく、大きく頷いた。
「うん。なるほど。よく分かりました。よくわかんないけど。大きいね!」
ソフィアは、すこし顔色悪く、頷く。
「ええ、ええ。その、こうして、こちら側の人間は、精霊様たちからお力を分けていただき、通常以上の効果を発揮させることもでき…………あ! お待ちなさい!」
ソフィアが説明をしている間、ウサギはきょろきょろと周囲を見渡し、「あ、あっちに森がある」といった風情で、森の中へ跳ねて行ってしまった。
ウサギに追い縋ろうとした、ソフィアの手のひらが、虚しく空を掻く。
彼女は、キュッと唇を引き結ぶと、何事もなかったかのように紗江に向き直った。
「とにかく、このように私一人では小さなウサギしか作れませんが、神子様のお力があれば大きくさせることもできるのです」
「……ウサギ……逃げちゃったけど……大丈夫? 主の意向を汲む『道具』なんじゃ……?」
ソフィアは聞こえないふりをした。
「――神子様のお力は『月の精霊』様よりも強うございます。『月の精霊』様は、今ご覧いれたような、主人の力の増幅が主な役目ですが、『月の神子』様は、それ以上の役目を果たせます。多くの国は、大地を清浄に保ち、肥沃な土地にするために、『月の神子』様の力を使っています」
「……大地は、家畜の肥やしだとか、枯らした植物とかを混ぜて栄養を蓄えるものじゃないの……?」
青いお茶が入ったカップが目の前に置かれる。匂いはアールグレイだ。色粉をふんだんに混ぜたような液体だが、出された以上、飲まないのは失礼だ。紗江は意を決して、ごきゅりと飲む。普通のアールグレイティだった。さわやかな喉ごし、ふわりと鼻を通り抜ける香りも心地よい。だが、液体を見ると、微妙――。
「あちらの世界ではそうらしいですわね。でもこちらの世界の大地はそのような異物を受け入れません。大地は大地なのです。大地の栄養は植物を育てれば枯渇し、『月の力』で栄養を与え直すのがこの世界の常識。かつては天より降り注ぐ、月光のみで、大地は整ったそうですが、現在はそうは参りません。人による補充が必要なのです。全ての人間が『月の力』を持っておりますが、大地を潤す『月の力』となると、農業に従事している者たちだけでは支えられません。ですから、『月の神子』様の力を持って、大地を整えます」
「そう……じゃあ、『月の神子』が各国に一人いるんだね?」
大地を整えるのが仕事なら、この世には『月の神子』という人が各国に存在しないと、整合が取れない。しかし、ソフィアは首を振った。
「確かに、各国に『月の神子』様がお一人ずついらっしゃるのが理想です。ですが、『月の神子』様は早々現れません。少なくとも、ここ一千年は私共の月の宮に神子様は現れておりませんし、現状・世界においても月の神子様は、僅かお二人しかおりません」
「え、それってどういう……」
『月の神子』がいないと大地が潤わないなら、この世界の大地は潤っていないといことだ。
ソフィアは頷く。
「方々で月の精霊達が力を尽くしていますが、付け焼刃に過ぎません。ここのところ大地は栄養を十分に蓄えられず、この世界は枯渇の一途をたどっております。大地の恵みが無ければ、家畜も人も育ちません。人口も減る一方です」
「……そうなの」
紗江はあまり深く考えたくないなと思った。考えると、恐ろしい。
この世界は『月の神子』を喉から手が出るほど欲しがっている。そこに、のこのこと現れた、『月の神子』らしい――自分。
ソフィアは憂鬱な溜息をこぼす。
「『月の神子』様は、世界が欲しております。この月の宮は、ガイナ王国、ルキア王国、ゾルテ王国を加護しておりますので、この三国政府は紗江様が欲しい事でしょう。神子様というお立場上、各国に神子の降臨をお知らせする義務はございますが、できるだけ神子様の存在は隠す必要がありました」
「……えっと、それはやっぱり、競り値の高騰が問題と……?」
確かサーファイは、競り値が上がったら公平性がどうのと唸っていた。
ソフィアは首を振る。
「確かに競り値についても問題でございますが、致し方ないとしか、申し上げられません。――『神子』様ですもの。二束三文で手に入るなんて、誰も思いませんわ。問題なのは、神子様のご降臨を、こんなに早い内から、知られることなのです」
「どうして? サーファイも、アラン様に見られたって、困ってたけど」
アランの名が出た途端、ソフィアの眉間に深いしわが刻まれた。
「お伺いしております……。満月の夜に月の宮へ入り込むなんて、常識外れもいいところですわ! しかも、よりによって『神子』様だと気付かれたと」
「どうして見られちゃダメなの? サーファイに聞いたけど、別に私は見た目が美しいわけでもないし、特に問題になりそうな点は、『神子』っていう扱いをされている以外に無いと思うけど」
『神子』の競り値が高騰しても問題ないなら、何が問題なのだろう。
ソフィアは苦悶の表情で首を振る。
「……『神子』様のご降臨は、事前に三国へ報せます。ですがこれは、国家機密事項です。無暗に多くの一般市民が競りに参加することを避けるためです。一般市民たちは競り当日に各国の王室関係者が出入りするのを見て、初めて『神子』様のご降臨を知る……これが理想の流れなのですが」
「うん」
ソフィアの声が、どんどん暗くなっていった。
「……アラン様は、『月の神子以外はいらない』と豪語していらっしゃったお方です……。その方が競りに参加すると意思表示するだけで、皆に神子様のご降臨を告知するようなものなのです。これを聞きつけた、各国の富豪が競りに参加し、競り値の高騰は必至でございます。これは国の痛手となります」
「え、痛手になるの?」
「もちろんです。各国の王室が喉から手が出るほど欲しい『月の神子』様ですが、富豪の経済力は馬鹿にできません。王室は何が何でも『神子』様を手に入れようとしますので、吊り上った競り値を支払うために、国民の税がいくら費やされるか。国の出費は国内整備の不和を起こします」
「あー……なるほど……」
ソフィアは頬を押え、溜息をこぼす。
「月の宮は、いずれの国の干渉も拒否する独立機関でございます。月の宮の臣下である『守り人』も、国に所属しない遊民です。ですから、私共が儲かる分には結構なのですが、『月の神子』様を買ったために、国が傾くような本末転倒を招くのは本意ではありません」
「……うん。つまり値を吊り上げないように、アラン様がこっそり競りに参加したら良いってことだね?」
ソフィアは眉を上げ、ふっと遠くに視線を投げた。
「……そのようなことは不可能でございます。アラン様はガイナ国宰相の第一補佐官……。いいえ、それ以前にあの方の立場では、移動するだけで周囲に知れてしまいますわ」
「……そうかなあ?」
いい考えだと思ったのだが。
『月の神子』だとか、『月の力』だとか、良く分からないもののために、大金を払うなんて、なんとも無駄な話だ。それも、役に立つのかどうかも分からない、紗江を買うために。
せめて混乱を起こさないように、アランにお願いすればいいだけじゃないのかな、と考えていると、ソフィアが身を乗り出して来た。
「神子様。お気遣いは不要でございます。神子様はこちらで、ごゆっくりと静養と勉学にご集中くださいませ」
笑顔だが、目はあまり笑っていない。今日の二の舞は御免だと、丸い瞳が物語っていた。
「そ……そう?」
静養はいいけど、勉強は嫌だな――。
紗江はへらっと笑って、明言を避けた。