4.月の宮と守り人
白い廊下をぼんやりと照らす灯は、花の透かし彫りが入った灯篭だった。
蝋燭の明かりかと思って、何気なく見たが、蝋燭らしき形は見当たらない。丸い光の塊が入っているように見えた。
『不思議な世界』だから、灯籠も、もちろん蝋燭じゃないよ! という、おとぎ話好きな自分の脳のなせる技なのだろう。
暖かい風が、外回廊を通り抜ける。冷えた紗江の体は、ぶるりと震えた。
「……」
紗江は違和感を覚えた。
――夢……なんだよねえ……?
「…………」
頭の中で質問をしてみるが、脳内の質問に答えるような、不思議生物は存在しなかった。
前方を歩いている青年に尋ねたところで、既に何度か「夢じゃない」と言われているので、尋ねても無意味だ。
――否! 私はまだ諦めない! これは夢! ファンタジー!
胸内で力強く叫んだが、これに応じてくれる不思議生物もまた、存在せず、紗江の体を、ふわりと春風が撫でていくばかりだった。
――不安だ……。
回廊を渡り、建物の中に入ると、三方に分かれる廊下になっていた。左右に分かれる廊下の先には、扉があったけれど、正面の廊下の先は、ぽっかりと四角い枠だけがあるだけだった。
窓ガラスもない、その四角い枠の向こうには、庭がある。明るい月光のおかげか、夜なのに、よく見えた。
綺麗に切りそろえられた芝生。小さな池、池にかかる赤い橋、そして池の周りを舞っている、蝶々。庭のずっと奥には、どこまでも続いていそうな、森が広がっていた。
紗江は、瞬きを繰り返す。何度瞬いても、蝶々は、きらきらと光って見えた。
「紗江、この先だ」
「あ、うん……」
サーファイもその光景を見たはずだが、何でもない顔つきで、紗江に左手の廊下に行くよう、促す。蝶々について、詳しいわけではない。世の中には、光る蝶々もいるのだろう。
紗江は、またも深く考えないように、思考を転じるのだった。
左手の廊下の先にあった、細かな彫刻の入った扉を開き、サーファイは笑んだ。
「とりあえず、今日はこの部屋を使え。『月の滴』を中心に、東西南北に精霊用の建物があるんだが、ここは西の塔――『風香殿』だ。全部、精霊用の建物だから、別の塔が気に入ったなら、侍女に言いつければ、使えるようにしてくれる」
「……そうなの?」
どこを使ってもいいなんて、なんだかとっても特別待遇ね――と思いながら、部屋に入った紗江は、思わず声を上げた。
「うわあ、天蓋付きベッド……!」
部屋に入ってすぐ、目に飛び込んできたのは、右奥に据え付けられた、巨大なベッドだ。異国風の刺繍が入った、白い天蓋が付いたベッドは、憧れるばかりでとても手に入れられなかった、夢のキングサイズ。
部屋の中央には、スイートルームにでも置いていそうな、大きなソファセットが設置されている。ソファの前は、暖炉だ。暖炉の両脇は、全面ガラス張り。先ほど見た庭園が、真正面からみられるようになっていた。
「すごーい! こんなお部屋に泊めてくれるの? 贅沢だね! サーファイさんは、お金持ちのお坊ちゃまなの?」
床には毛足の長い絨毯が敷き詰められていて、寝転がっても気持ちよさそうだ。
紗江の後から部屋に入ってきた彼は、なぜか溜息を吐き出す。
「そんなわけあるか。俺はしがない『守り人』で、この施設は全部、『月の宮』の所有。――まあ、つまり、さっきのお二人のものだよ。あと、俺に敬称は付けなくていいから。つーか、付けてくれるな。敬語もやめてくれ。礼にもとる」
敬称を付けないどころか、敬語まで使わないなんて、そっちの方がよほど『礼にもとる』と思ったが、それよりも聞きたいことがあった。
「……こんなに大きな建物全部、あの女の子たちのものなの? すごいお嬢様なのね」
「女の子じゃねえぞ、あの方たちは」
「え」
サーファイは、紗江の脇を通り抜けて、ベッドへ向かう。
――そんな。とてもじゃないけど、男の子には見えなかったよ!
と彼の背中に声をかける前に、サーファイはベッドの上にあった何かを、放って寄越した。
「あのお二人は、少なくとも千年くらい前から、代替わりなさっていない。見た目は少女だが、お前なんかよりずっと年上の、至高の方々だ」
「…………せ、ん年……」
目を見開いた紗江の頭の上に、放り投げられた布が、ばさりと落ちた。地味に痛い。彼は、布で隠れた視界の向こうで、また嘆息を吐いている。
どうやらサーファイは、お疲れのようだ。
「それに着替えたら、もう寝ていいから」
ずるりと頭から引っ張り下ろしたものは、赤と金の刺繍が入った、白い着物だった。肩口に、帯らしき紐が二本、乗っている。
「えーと……あのお嬢さんたちは、人外の生き物というわけで……?」
どうやって着るのだろう、と二本の紐と着物を見比べる。
サーファイは、はは、と軽く笑った。
「さあな、知らねえよ。『月の宮』は他国不可侵を貫く、孤高の聖地だ。『月の宮』の主が、どこから来て、どこに帰るのか。ましてや、主が死ぬのかどうかなんて、俺ら臣下はもとより、この世の誰も知らないぜ」
「……」
理解し難く、見返すしかできずにいると、彼は肩を竦めた。
「『月の宮』については、深く考えるな。ここは、あっち側から、『月の力』を溜めこんだ人間を連れて来て、清め、各地の安寧のために精霊を売っていく。それだけの施設だ」
「……やっぱり人身売買組織なんだね……」
聖地だなんだといったところで、しているのは、誘拐。そして転売。何と恐ろしい『月の宮』。
サーファイは聞いているのかいないのか、だるそうにソファに向かい、どっかりと腰を下ろす。
「はー……しかし、まずいな。アラン様に見られちまった……」
サーファイは背中を向けてしまったので、紗江はとりあえず、ブラウスを脱いだ。
「アラン様というのは、どういう人?」
「アラン様は……ガイナ王国の宰相補佐官で……。最悪だ……。大事な商品を出品前に公表しちゃったようなもんだよ。これじゃあ公正な競りができない……。しかもあの人、神子だって気付いてたなあ……。競りの価格……高騰するよなあ……。あーあ。他国まで介入したら、どうしよう」
下着もびしょ濡れなので、上半身は全部豪快に脱ぎ捨て、さっと着物を羽織る。幸い、サーファイはちらとも振り返らなかった。
紗江はとりあえず、二本あるうちの一本で着物のあわせを留め、パンツを脱ぎつつ尋ねる。タイトなパンツは、濡れると脱ぎにくさが倍増だ。
「競りって……やっぱり、最高値の金額を提示した人が、商品を買うというやつ?」
「そ。お前を競りにかけて、最高額を提示した人間が、お前の主になるんだ。だけど『月の精霊』は、競りが終わるまで誰もその姿を見られないというのが、基本になっててな……困ったなあ……」
「え、見ないで競り落とすの? 買うなら、どういう子か見ておきたいものじゃないの?」
闇鍋じゃあるまいし、お金を払うなら、容姿の確認は最重要事項だろう。
サーファイは首を振る。
「昔はそうだったけど、ちょっと前に規則が変えられたんだ。『月の精霊』がいると商売が上手くいったり、統治が安定したりする。だから大体、国のお偉方や金持ちが精霊を欲しがるんだが……見た目を気にする人も、確かにあってな。規則ができる前は、見た目が良い精霊は、その分、価格が高騰したんだ」
「そうなるだろうね」
よくわからないが、『月の精霊』がいるだけで恩恵を得られるなら、いくらだってつぎ込むのが人の心理だろう。その上、見た目が上等なら、願ったり叶ったりだ。
サーファイは、ソファの背もたれに両腕をかけ、顔だけこちらに回す。
「精霊というのは、本来、そういう娯楽のような扱いをされる存在じゃない。……なんだお前、いつ着替えたんだよ……っていうか、なんだその着付け」
渡された紐を腰で蝶々結びにしてみたのだが、お気に召さなかったらしい。紗江は両腕を広げ、へら、と笑った。
「着物の着付けって、よく知らないんだよね。帯、どうして二本もあるの?」
彼は何度目か分からない溜息を吐くと、のっそりと立ち上がった。
「しゃーねえなあ……。今日は俺がやってやるけど、明日は侍女に教えてもらえよ……。ああ、まあお前は、着付けなんか知らなくても良いかもしれないがな……」
彼はぶちぶちと訳のわからないことを呟きつつ、紗江のもとへ歩いてくると、手早く着付けてくれた。着物は合わせるだけのようだが、帯はなんだか二本重ねてややこしい結び方をしていた。見る間に、腰に花飾りが二つも出来上がった。
サービスをしてもらった気分で、紗江はにっこり笑う。
「ありがとう。サーファイって器用ね。花まで作ってくれちゃって、可愛い」
彼は胡乱な眼差しで見下ろし、脱力した。
「ちげーよ。これが正式な結び目なんだよ。誰でもこうやって結ぶの。――『精霊』の帯は、な。覚えておいたほうが無難だから、一応、明日侍女に聞いておけよ」
「ふうん……」
『精霊』には、特別な帯の結び方があるようだ。しかし結び方は、非常に細かかった。覚える気は――まだ無い!
力強く、内心、拳を握り、紗江は話を逸らした。
「あ、それで? 『精霊』の顔を見せない理由は?」
「あ? ああ……。『精霊』は、存在そのものが祝福を与える存在だ。だが、競り値が上がれば上がるほど、金持ちしか『精霊の祝福』を得られなくなる。公平性が失われるって危惧した『月の宮』が、規則を作ったんだ。“月の精霊は、こちらの世界に降臨した後、一月は裳に付す”。“その間、誰の目にも触れてはいけない”としたんだ。本人にとっても、あっち側の世界で受けた穢れを、全て清められ、この世ではゼロからのスタートになる。つまり、一度死んだようなものだから、”喪に付す”わけだ。それで、その間に競りをするのが、今の正式な流れ」
「でも、競りなら……お金持ち以外が参加できない、というのは、変わりなくない?」
「法で、一人が所有できる『月の精霊』は一人だと定められている。だから、金持ちでも競りに参加するのは賭けだ。一人買ったら、精霊の寿命が終わるか、別の人間に所有権を譲るまで参加できなくなるからな。更に酷い高値がついた場合は、各国家によって、公正な取引だったか調べ上げられ、不正があれば買い手は罰せられ、『精霊』も取り上げられて、もう一度競りになる。だから買い手たちも値を無為に上げられない。これで競りに参加できる対象が上流貴族のみに限らず、中流貴族までに広げられた。まあ金持ちが多いのは、どうしようもない。――精霊一人を養えるだけの、経済力が、絶対的に必要だからな」
「へー……なるほどー」
なんだか難しそうな内容なのは分かった。
彼は、真剣さに欠ける紗江の反応を、不満げに見下ろし、頭を掻き毟った。そして何かを吹っ切るように、短く息を吐き出す。
「ま、俺の仕事はここまでだ。ひと月後にお前を迎えに来たやつがご主人様だから、せいぜい可愛らしく微笑んでやってくれよ、『月の神子様』」
「あれ、これで今生の別れ?」
そう言えば、空を飛んでいるとき、『月の宮』へ届けるまでが仕事だとか言っていたが、このまま永遠にさようならなのは、少し寂しい。なにせ、あちら側の紗江を知っているのは、今や彼しかいないではないか。
ベランダで空を見ていた紗江も、ワインを飲んでいた紗江も、着物なんかじゃなくて、現代的なブラウスとパンツを着ていた紗江も、知っているのは、この男だけなのに。
彼は非情にも、ひらひらと手を振った。
「そうそう、お別れ。まー、たまには会うんじゃないか。多分、今後はもう、あっち側にはいかないからな。……明日から、侍女がお前にこの世について教える。この世の理とか、力の使い方とか、色々ちゃんと勉強しろよ」
「おー……」
なんと。別れを惜しんでみたものの、お勉強を強要されてしまった。自慢じゃないが、勉強はとても好きじゃない。勉強ができないわけではない。しないからできないだけだ、と信じて二十一年。お陰様で、さほど賢く無い自覚はある。
さらっと出ていこうとしていたサーファイが、振り返った。やる気のない顔を見るなり、紗江の鼻先に指を突きつける。
「おい、ちゃんと勉強しろよ。こっちと向こうは似ているけど、根本が違うんだからな!」
「なによ。勝手に連れてきて、勉強しなさいだなんて、あんたは私のお母さんか!」
本音が漏れてしまった。サーファイの目元が痙攣している。
「……確かに、連れて来たのは俺だけど……。もう、来ちまったんだから、諦めろよ! こっちで生きていくしかなくなったんだからな!」
「――え、戻れないの?」
サーファイは、あっち側に来て、こっち側に来たのだから、帰れるに違いないと思うのだが。
紗江の楽観的な思考に対して、彼の表情は、明らかに強張った。
――嘘でしょ。
悪い予感に、紗江の顔は、中途半端な笑顔のまま、凍り付いた。
「――お前はもう、向こう側には戻れない」
「……」
心臓が、急速に鼓動を早くしていく。気にもならなくなっていた、体の冷えが、急に意識された。指先が、凍り付いたように、動かない。
サーファイは、申し訳なさそうに笑った。
「こちらの人間は、決して『月の精霊』を手放さない。こちらの人間にとって、『精霊』は神に近いんだ。いてくれるだけで、幸福になり、いなくなると、不幸になる――と、信じられている。だから……手放す人間は、滅多にいない」
「……逃げ出す精霊は、いないの?」
買い取り主が手放さないなら、逃げれば良いだけじゃない、と思った。
けれどサーファイは、苦しそうな顔をする。
「……精霊が逃げ出すと、主は罰せられるんだ。精霊が逃げたということは、主が精霊を大事にしなかった証拠だから」
紗江は内心、呻いた。しかし、聞かなくては、いけない。
「その罰って……どういう……罰?」
サーファイは瞼を閉じて、重く言った。
「――死罪だ」
紗江は胸の内で叫んだ。
逃げられない。自分が逃げたら、その主人が殺されるだなんて、洒落にならない。
優に一分は黙り込んだ紗江は、頬を痙攣させつつ、頷いた。
「そ……そっか……。じゃ、じゃあ……安易に逃げちゃったら、駄目だね」
サーファイは、真摯な表情で、紗江の肩を掴む。
「……ああ。でも、ひどい仕打ちを受けたら、逃げろ。俺に助けを求めてもいい。お前が苦しむなら、お前を連れてきた責任をとって、俺がお前を、向こうへ連れ帰ってやる」
その慰めに、どれだけの意味があるのか疑問だ。
だって買い取り主は、お金持ちで、逃げ出せないようにすることだってできるのじゃないの――?
紗江は喉元までせり上がった疑問を、飲み込んだ。そして、視線を逸らす。
「……わかった」
「……紗江」
サーファイが気遣わしげに名を呼んだが、紗江の意識は、逸らした視線の先に集中した。
ソファを挟んで、ベッドの向かい側には、白い扉と、その脇に姿見があった。等身大の自分が映り込んだ、その鏡には、見覚えのない少女が映り込んでいたのだ。
「……なに?」
呟くと、鏡の中の少女の口も、同じ形に動いた。
「え?」
と、頭を撫でてみる。鏡の中の少女も、頭を撫でた。
「え、え、え……!」
「おい、どうした?」
怪訝に尋ねるサーファイの方が、どうかしたんじゃないの、と言ってしまいたかった。
だって鏡の中にいる少女は、十五、六歳の頃の――幼い自分。
茶色く染めていた髪は、漆黒に戻り、性格のきつそうなメイクは、すっかり取れている。それだけなら、まだ分かる。しかし、年相応にややこけていた頬が、張りのある、丸いそれに戻っているのだ。瞳も、幼さが残る、大きいばかりのものに戻っている。
白くて張りのある手が、少女の両頬を包み込んだ。
「若返っている……っ!」
鏡越しに紗江を覗き見たサーファイは、小首を傾げる。
「俺も、顔が違うと思ったんだが……『月の滴』の影響じゃないか? あれは、お前の体の穢れをすべて払うんだ。それこそ、年齢そのものも、穢れと判断したんだろう。あと、経験済みだったら、処女に戻っているだろうけど、そこはそういうもんだと、受け入れてくれ」
「しょ……しょしょしょ処女!」
愕然である。どうやったら戻るのか、お伺いしたい。だが――そう、これは夢! 夢だから、都合よく(?)、処女にも戻っちゃったという設定にしただけだ!
なんとか自分の中で折り合いを見つけた紗江は、胸を押え、ほう、と溜息を落とす。
「なんてびっくりな世界なの……」
そう呟くと、サーファイは、紗江の頭をがし、と掴んで、破顔した。
「なーに言ってるんだ! こっちの人間にとっちゃあ、お前が一番、びっくりな存在なんだからな!」
「へ――?」
紗江は、きょとんとサーファイを見返すしかできなかった。
――本当、わけ分かんない。