31.思い馳せる彼方
黙っていれば美麗な容貌を、アラン王子は怒りに染め上げ、クロスは表情を引き締める。
彼は王子の私軍である、王立軍第三部隊に所属していることを、誇りに思っていた。現状、第一部隊が王直属部隊の第一位ではあるが、王子が王へ代を移された暁には、王子の私軍が第一位を頂くのだ。つまりいずれ国家第一位を得ることを保証されている舞台だからこそ、現状を危惧している。
神子が見つからなくては、アラン王子を失うことになる。
最も、主の懸念はそこではなかった。
彼は真実、神子の身を案じているのだ。
他国不可侵を貫く、気位の高い月の宮の協力さえも取り付けた結果、彼が得た答えは、神子の不在である。
彼女はガイナ王国に存在しない。
更にはガイナ王国におけるもう一人の月の精霊の気配さえ、失われているという、危機的状況の報告を受けていた。
そして月の宮がアラン王子に突き付けた現実は、過酷だった。
――ゾルテに精霊の気配がある、と守り人が言った。
守り人はそれ以上の協力を拒否した。それ以上の協力をすることは、他国への干渉になるからだと。
あくまで中立を貫く彼らにとって、王子の生き死になど些細なことだ。彼らにとって重要なのは、月の精霊がいかに幸福に過ごすか。
現状、守り人の対応から考えて、月の宮はガイナ王国を優良な主と認めていない。
なぜなら、月の神子ともあろう者をさらうのは至難の業だからだ。
神子はその気になれば、己の力で自在に転移できた。彼女がそれをしないのは、彼女が望んで主を変えた可能性があり、それが守り人の勘気に触れた。
アラン王子はその情報で十分だと言った。
彼は現状に非常に立腹している。
他国への派兵は戦だ。それは避けねばならない。
外交ルートを頼ってゾルテ王国への介入を試みる必要があり、それはこの争奪戦の延長化を意味していた。
そして外交の筆頭官は、フロキア宰相である。
宰相は優秀な人物だ。しかし、彼は神子を所望していた一人でもあった。
国内での神子争奪戦は褒められたものではないため、あまり詳しい情報は流れて来ないが、宰相は大敗を帰した。アラン王子が主となったというのに、以降も宰相は頻繁に神子との対面を希望しているらしい。
そのためか、アラン王子はフロキア宰相と神子様を合わせることを、殊の外嫌がっていた。
クロスは知っている。
主はフロキア宰相を恐れているのだ。本能的に取られると危惧していた。
フロキア宰相の所作は非常に洗練されており、普通の女性はほぼ全員が彼に陥落する。若干三十八で宰相抜擢、整った容姿、柔らかな物腰、女性を褒める術は群を抜く。押しにおいて弱点のある主にとって、彼は脅威である。
だが、そんな些末な問題を気に掛けるようでは、神子様を取り戻せまい。事態はそのような浮ついた問題ではなく、主の生き死にが関わっているのだ。
心中そう結論付けたクロスは、しかしアラン王子が自分の命を懸けた崖っぷちに立たされた状況を理解しているのか、一抹の不安を覚えた。
「ですから……使者としての出向は私がと申しているではございませんか……」
鬼の形相で主が睨みつけているのは、彼の上司である、フロキア宰相だった。
フロキア宰相は、いつも通りの、柔和な微笑みだ。
彼は執務机に肘をつき、両手を顎の下で組んで、アラン王子を見上げた。
「いいよ、外交は慣れている人間がしたほうが良いでしょ?君はほら、国内でテトラ州の州官長を尋問してくれればいいから。僕がゾルテ王家に探りを入れてくるよ。リビア姫も、さぞお綺麗に成長されていることだろうしね」
「……リビアとお話をされるのでしたら、私の方が適役です。私たちは幼少のみぎりより、親しくしておりましたので」
フロキア宰相は眉を上げて、失笑する。
「ああ、そうだよね! 元婚約者だもんねえ?」
元、の部分を強調され、アラン王子は顔色を悪くする。
「ご縁談の御断りは、どちらから入れたのだったかなあ? 思い出せるかい、アラン?」
幼少の頃、アラン王子がゾルテの姫君との縁談を自ら断ったのは、有名な話だった。しかし時期も時期だったため、有耶無耶のうちにそれが了承されてしまっていた。
引け目があるのか、アラン王子の目元が痙攣する。
「……リビアは、縁談の話など、気にも留めておりません……」
「リビア姫はそうでも、王家の方々や家臣の皆様はどのようなお気持ちだろうねえ。幼い時分に、何の落ち度もなく、しかもつらい状況にあった彼らの姫を捨て置いた、他国の王子の顔など――見たいと思うかな?」
「それは……」
今回は、分が無いようだ。実績、権限ともに現状ではフロキア宰相が勝っている。
神子の追跡調査を報告するため、宰相の執務室へ入ったクロスは、退室するタイミングを見唸っていた。報告を入れるなり、宰相がゾルテ王国への使者に行くと言い出し、討論が始まってしまったのだ。聞きたくもない成り行きを見守ったクロスは、目を伏せた。
アラン王子は諦めきれず、言い募る。
「では、私を共に……!」
フロキア宰相はそっけなく却下した。
「駄目だよ。僕の秘書はノラだし。補佐官の君は、僕の代打として州官長の尋問をするのが立場としては理にかなっているよ。まあまあ、そう焦るなよ、若君」
「く……!」
アラン王子が最も屈辱を感じる、青二才呼ばわりを選んだフロキア宰相の腹は、黒い。彼の目は兎角、彼の腹黒さを語っており、にたりと笑んでいた。
秘書官までも、容赦なくアラン王子を貶す。
「そうだぞ。宰相補佐官の立場のお前が、宰相に勝てる術なぞないに決まっているだろうが。諦めろ」
クロスはお労しいという気持ちを、胸の内に留める。
アラン王子は何故か、秘書官に食って掛かった。
「だいたい、お前はどうして秘書なんていう立場を選んだんだ! 能力からすれば補佐官が妥当だろう! 宰相は当初、補佐官を二名所望していたはずだ!」
秘書官は呆れた眼差しを返した。
「阿呆か、貴様。男女平等が謳われない、この後進的国家において、いち早く昇進するためには、秘書の選択が最も妥当だ。女の私が補佐官の希望を出したところで、最終面接へ行く前に一次で落選だ。己の国家の現状くらい分かっておけ、無能め!」
ついには無能呼ばわりである。
才ある王子と謳われる彼に、秘書官は暴言を吐き続けた。
「しかもなんだ、貴様。己の女さえも守れんとは、軍人の風上にも置けん! 悪趣味にも幼女に手を出そうという変態であったとしてもだ、己の婚約者を奪われるとは笑止千万! 恥じろ!」
アラン王子は、普段誰からも浴びせかけられるはずのない暴言に、青ざめるどころか、平然としている。クロスはアラン王子の心の強さに、感嘆した。
アラン王子はそれでもやはり、無礼な物言いが気に入らないのか、僅かに眉根を寄せる。
「――あれは幼女ではないと、何度言えば分るのだ」
何の話をしているのか、クロスは混乱した。秘書官が信じきれない顔で笑うと、更に言葉を重ねる。
「年端もいかぬ少女のような見てくれだが、本人によれば、二十一歳だ! 事実だとすれば、立派な淑女! 不確かな情報でもって俺を愚弄するのは止めてもらおう……!」
「へえ、そうなんだ? 神子様は大人の女性なんだねえ……それは良い情報を聞けた」
フロキア宰相が瞳を輝かせ、食いついた。アラン王子はびくっと宰相を見返し、額に汗を滲ませる。
「……言っておきますが、彼女は私の婚約者候補です……」
フロキア宰相は、些末なことだと言いたげに、ふっと笑い、前髪を払いのけた。
「所詮は候補だからねえ。神子様の意中の相手が、君にならない事には、結婚など夢のまた夢」
「それは……」
言い淀んだアラン王子の言葉に被せ、フロキア宰相が皮肉を言う。
「噂によれば、幼気な美少女に、色香漂う特性の着物を大量生産させて着せ替えているらしいじゃないか。さすがだなあ、アラン。毎日、邪な目で愛でていた姫様を失って、ご乱心かい?」
アラン王子は怪訝にフロキア宰相を見返した。
「……私のどこが、乱心中とおっしゃるのです……」
フロキア様は飄々と笑んだ。
「本当に、君は自分が心乱れていないと、言えるのかい?」
「……」
「なあ、アラン。国家とは些細なきっかけで沈むものだよ。この巨大な船のかじ取りを任される王の責は、大きい。その采配に置いて、間違いなどあってはならない」
「……」
アラン王子は、ばつが悪く、唇を噛む。
「今回の件、この状況に置いて、君と僕、どちらの意見が正当で肝要だろうか」
「……」
アラン王子は苦悶の表情で、頭を下げた。
「……お手数をおかけして申し訳ございませんが、何卒よろしくお願いいたします。僭越かと存じますが、ゾルテ王国へ移動の際の護衛は、王立軍第三部隊よりの選抜をお許しいただきたい」
フロキア宰相は目を細めた。
「いいよ。どうせそこの彼を使いたいのだろう?」
紺色の瞳が、初めてこちらを捉えた。もはや存在そのもの忘れているのではないだろうかと思っていた。
フロキア宰相と目線があったクロスは、顔を強張らせる。
自分を値踏みする眼差しだった。
クロスは無意識に敬礼した。
「御身の護衛および、アラン王子殿下の命のもと、速やかに目的を遂行する所存であります。どうか我が一小隊、お使いください!」
「そう、よろしくね」
フロキア宰相はにっこりと微笑んだ。アラン王子がこちらを振り返り、念を押す。
「僅かでも良い。必ず情報を手に入れろ」
「――は!」
苛烈なまでの強い眼差しを受け、クロスは力強く応えた。
フロキア宰相と秘書官がこちらを見て、無表情に頷いていた。
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神子様が、お隠れになった──。
アラン王子率いる、第三部隊には箝口令が布かれた。
王子の首を守るため、なんとしても神子様を奪還せねばならない。
そう思いながらも、クロスの胸はどこか、虚しさを覚えていた。
傍若無人に城内を歩き回っていた少女がいない。
カサハも付けず、その愛らしい顔を晒しては、主に注意されていた少女。晴れた月夜には必ず、庭園でステップを踏んで、踊っていた。
彼女が咲かせた花は、不思議なことにいつまでも枯れず、芳醇な香りを城内へ拡散させている。
花と月と蝶々が彼女の周囲を彩る夜は、誰もがひっそりとその光景を眺めていたのだ。
月光を吸い込み、仄かに光を放つ彼女を、いつも堪えきれず抱きしめていた王子。
睦まじい情景のない庭園は、時が止まったまま、奇妙な沈黙ばかりが耳にうるさい。
──神子様はお元気だろうか。
王子の私邸は、ぽかりと穴が開いたように、静まり返っている。
城の者は皆、元気がない。




