3.招かれざる客
サーファイが下ろしてくれたのは、白い柱に囲まれた、中庭のような場所だった。
四方を囲むのは、自らぼんやりと光を放つ、白い石で造られた、外回廊。それぞれの回廊の先には、大きな建物がある。白い石を重ねて作られた建物の屋根は、ドーム型で、全体の印象は、まるで神殿だ。
紗江は、隣に立つサーファイを見上げた。
「あの……」
「し……っ」
一体ここは何の施設ですか、と尋ねる前に、目の前に手のひらを広げられ、制止された。彼は真剣な顔つきで、別の方向を見ている。
まったく訳が分からない。彼が見ている方に目を向けた紗江は、眉を上げた。
――池がある。
庭の中央に、大きな池があった。随分きれいな水だ。青く澄んだ池の中で、時々金色の何かが煌めいている。
水の中に、光を弾く魚でもいるのかもしれない。どうでも良い感想を抱いた紗江の隣に立っていたサーファイは、何の前触れもなく、くずおれた。
「えっ」
ぎょっと顔を向け、大丈夫ですかと声をかけようとしたが、紗江は声を出す寸前で、口を閉じる。
彼は倒れたのではなかった。紗江の脇で、片膝をついたのだ。深く頭を下げ、明瞭な声を発した。
「太陽の国より、月の精霊をお連れいたしました。お受け取りください」
――へ?
誰に向かって話しているのかわからず、視線を巡らせて、紗江は口を開けた。
物音一つしなかったから、気付かなかった。池の向こう側に、人が二人いた。
白い着物を来た女の子が、二人。
能面のように真っ白な顔に、深い闇色の瞳。二人とも、同じ顔をしている。頭から足先まで目を走らせたが、髪の色が違う以外、全部同じだ。――すごい。
白い草履、腹の前で重ねられた手のひら、姿勢――微塵も違いがない。
見た感じ、十五、六歳くらいだろう。お尻まで届く長い髪は、一人が白髪で、もう一人が銀髪だった。彼女たちの額には、サーファイと同じく、石が付いている。
――お人形さんみたい。
一人が、唇を綻ばせる。
「ご苦労だったなサーファイ。此度はいかがだった」
声を聴いた瞬間、紗江は、びくっと耳を抑えた。この世のものとは思えない、澄んだ声音だった。耳元で発せられたかのように、ぞく、と耳元から首筋までを、震えさせる深い音だ。
サーファイが、頭を下げたまま応える。
「――重畳かと。強い力を持つ精霊でございます。神子にも匹敵すると思われます」
二人はさっと紗江の全身に目を走らせると、頷いた。
「確かに、強い力を感じる。月の神子かどうかは定かでないが――良い精霊を見つけてきたな、サーファイ。良くやった」
銀髪の子が口を開いたが、話し方は長老のようだ。
「恐れ入ります」
「では、早速清めようかの」
「――は」
応えるなり、サーファイは紗江の腕を掴んだ。紗江は本能的に、両足を踏ん張った。何となく、どこかに連れていかれそうだなと感じたのだ。
サーファイが片目を眇める。
「ちょっと冷たいだけだよ」
「え、いえ、えっと……何が冷たいの……?」
「あれ」
サーファイが顎をしゃくって示したのは、目の前に広がる、大きな池だった。
え、――私、沈められるの?
紗江は瞳を丸くして、ぶるぶると顔を左右に振る。頭の中では――怪しげな宗教団体の儀式にて、水に沈められ、そのまま溺死する二十一歳OL――という、派手なんだか地味なんだか、という感じの記事を作り上げていた。
「えええええっと、無理です! 無理! あの、あ、そう、着替え! 着替えも無いですし、えっとその……っ」
まだ話している最中なのに、サーファイは頓着なく、引きずっていく。紗江の目尻に、ちょっぴり涙が滲んだ。
「わああああん! 無理ですってばぁ! 私、まだ死にたくないぃぃぃぃ!」
つい、本音が漏れてしまった。
サーファイが胡乱な顔で振り返り、嘆息する。
「殺すわけ、ないだろうが。せっかく見つけて来たのに」
「えっと、でも、あの……池に沈めて、怪しい儀式に使うとかじゃ……ないの?」
サーファイは、「はあ?」と顔を歪め、池の向こう側では、二人がころころと笑った。白髪の少女が、笑い含みに言う。
「なあに、心配めされるな。あちらから連れて来た精霊たちは、皆、その身に穢れを溜めておってのぉ。月の滴を浴びさせて、清めるのさ。」
次いで銀髪の少女が頷く。
「そう。我らは決して、其方を傷つけぬと約束しよう。ほんのちょっと冷たいが、痛くもかゆくも無いさ。着替えも用意しておるゆえ、そのまま池に。ほれ、その階段から、水底まで、降りて行っておくれ」
少女が指差した、紗江の足元には、確かに階段があった。水の中に沈んでいく、先の見えない階段が――。
背筋を悪寒が駆け抜ける。
「ううぅぅう……」
見知らぬ子供の言い分を鵜呑みにできるほど、紗江は阿呆でも、間抜けでもなかった。
それなのに、サーファイは背中を押してくる。
「ほれ。全身浸かって来い」
「……っ」
嫌だよ──!
「――諦めろ」
サーファイは、綺麗な顔に似合わず、強引だった。
心の声を口にする前に、彼は、紗江の背中を、どん、と突き飛ばしたのだった。
「うっひゃぁあっ!」
甲高い声と共に、紗江は勢いよく、池の中へ沈んだ。
派手な水しぶきの音が、どこか遠くに聞こえた。
水に沈みながら、紗江は妙な感触に気付く。――これは、水なのだろうか。
指の間を通り抜けた水は、片栗粉を薄く混ぜたような、とろりとした感触だったのだ。
何となく恐ろしくて、しっかりと目を閉じていたが、瞼の裏に、かすかな光を感じた。光に誘われて、そっと目を開けた紗江は、その光景に瞠目する。
青い、青い水の中に、無数の金色の粒子が、煌めきを放ちながら、瞬いていた。
上と思われる方向に目を向けると、揺らめく水面の向こうに、大きな月が見える。金の粒子は、どんどん数を増やしていき、一斉に月へ向かって登っていった。
「──わっぐぅ……っ」
あまりの美しさに、「わあ、綺麗」なんて感想を述べそうになったが、水の中なのを忘れていた。口から水が入り込む。紗江の喉がぐう、と音を立てた。器官に水が入った。――まずい。咳き込みたいが、水の中。空気はない。
「ぐ……っぅ……!」
――死ぬうぅぅ!
確実に呼吸困難で死ねる。紗江は血眼になって、水上を目指した。焦ったせいか、逆に時間がかかってしまった。
「ぷはぁ! ……ぅげほっ」
何とか水面に顔を出せた紗江は、丁度、近くにあった、池の淵に両腕をついた。しばらく咳き込み、長いため息を吐き出す。
「げほっ……はー……」
確かに殺されるわけではなかったが、死ぬところだった。――主に間抜けな自分の過失で。
「――っ」
誰かの息を飲む音に、顔を上げる。
サーファイがすぐ傍に立っていた。彼は空を見上げ、口角を上げる。
「すげえ……」
彼の視線を追って、空を見上げた紗江は、瞬いた。
小さな光の粒が、月へ向かって舞い上がっていく。どこから、と目を彷徨わせれば、光は、池から――特に、紗江の周囲の水から、無数に湧き上がっていた。
「……なに、これ」
まるで何万匹もの蛍が、一斉に生まれ、飛び立っていくかのような光景だ。
池の反対側にいる少女たちが、空を見上げて、満足げに呟く。
「――これは、見事なことよ」
「ほんに。何千年ぶりに見たのか……久方ぶりじゃの」
サーファイは、どこか気の抜けた声を漏らした。
「本当に……神子だったのか……」
それぞれが、どうも驚いているらしい。そんな中、彼らの感動を今一つ理解できない紗江は、のっそりと地上へ上がった。
服が水を吸って重いし、体にへばりついて気持ち悪い。
「はー……なんか……」
――体が、変な気がする。
何となく体の中が軽くなったような、違和感を覚えつつ、ブラウスの裾を引っ張る。水気を絞ろうと、布を掴んだ指を見て、動きを止めた。
――なんだか、指が、違う。
何が違うのかまでは分からず、じい、と見つめること数秒。紗江は脳内で指を鳴らした。
爪に塗っていたネイルアートが、全て綺麗に取れてしまっているのだ。ちょっとやそっとじゃ剥がれないものだったのに、どうして取れたのだろう、と爪を撫でる。妙につるつるで、おまけに艶が出ている。
――池の水? ……ううん、まさかね。
池の水は、普通ではなかった。だがネイルアートを溶かしてしまうような成分なら、自分の肌や目は、とうの昔にダメになっているはずだ。
でも、気付いていないだけで、肌が溶けていたらどうしよう。
慌てて頬を撫でてみるが、痛くはなかった。
紗江は、ほっと息を吐く。
――皮膚が溶けて血が出たりしていたらどうしようかと思った。
痛みどころか、肌も、滑らかになっている気がした。おでこを撫でると、吹き出物の感触がなくなっている。
「……」
なんだろう。――美肌効果抜群の池とかなのかな?
池を振り返ると、頭の上から、何かが落ちて来た。
「うっ」
「お疲れさん」
サーファイの声だ。頭に乗ったものは、タオルのような、大きな布だった。これで体を拭けという意味らしい。
紗江は小さく頭を下げる。
「あ、どうもありがとう」
サーファイは、なぜだか片眉を下げて、苦笑した。
「ま、礼儀はおいおいだな」
「……?」
頭を下げてお礼を言ったのだから、礼儀正しいと思うのだが、彼にとっては今一つだったようだ。
――あ、こっちの世界では、お礼は跪いてするものなのかも。
彼が女の子たちに挨拶をした時を思い出し、紗江は勝手に納得した。
サーファイは、四方を囲む建物のうちの一つを指さす。
「じゃあ、『風香殿』で着替え……を」
顔を上げて建物を見た紗江を、ちら、と見たサーファイは、視線を逸らそうとして、勢いよく紗江の顔を見直した。
「おぉおお!?」
あんぐりと口を開け、まじまじと紗江の顔を覗き込む。
紗江はぎく、と両手で頬を覆った。やっぱり、水の影響で、顔がどうかしたのだろうか。
サーファイは、紗江の両肩をがっしりと掴んだ。
「どうした! おい! 顔が違うぞ!」
「へ? え? わわわわわっ」
力強く揺さぶられて、頭ががくがくと揺れる。おかげで、上手く物を考えられない。
目を白黒されるばかりの紗江の耳に、低く、穏やかな声が聞こえた。
「月の滴で清めたのだ。顔も体も、元の姿に戻っただけだろう」
声が聞こえた方向に目を向けると、外回廊の一角に、人影があった。
紗江は目を丸くする。
背の高い青年が、回廊の、白い柱に軽くもたれて、こちらを見ていた。
濃紺の着物だ。服の形はサーファイの着物と同じようだが、見るからに、上等そうな、豪華な刺繍が入っている。
耳には赤い飾り紐が付いた、金色のピアス。鍛えていそうな、立派な体躯。白銀の髪に、凛々しい眉、高い鼻筋。猛禽類を思わせる、鋭い瞳は――なんと、赤色。
目が赤い点を除けば、完璧じゃないかと思われる美丈夫が、紗江を見て、笑んだ。
「……なるほど、美しいな」
その感想に、紗江は内心、頷く。光の粒子は、いまだ池からあふれ出ており、とても美しい光景だ。
サーファイが、「げっ」と声を漏らし、慌てて紗江をその背に庇う。
「アラン様……! なんだってこんな日に!?」
どうも、非難している調子だ。
池の向こうにいる少女たちも、声を荒げる。
「アラン! 満月の夜の儀式は、何人たりとも侵入を許可しておらぬぞ!」
「月の精霊に見えるは、皆等しく降臨の一月後と定めておろう! どうやって入った!」
とっても怒っている。
あんなにご立派な身なりなのに、年下そうな女の子たち――話し方はかなりのお婆さん節だけれど――よりも、立場が弱いのだろうか。
サーファイの背中から、ちょこん、と顔を出して覗き見ると、怒られている彼は、堪えた様子もなく、おおらかに微笑んだ。
「ご機嫌麗しゅう、雪花様、青花様。しかし、それは言いがかりというもの。私は今夜、月の精霊がもたらされるなど存じ上げておりませんでした。……ただ、満月の夜に、この『月の滴』に映る月を愛でるのも一興かと思い、参っただけのこと。月の精霊の儀式が行われてようとは、夢にも思っておりませんでしたとも。……しかし不思議ですね。儀式の折は、門戸が閉ざされますものを。――本日は、常と変わりなく、解放されておりました」
彼女たちの名前は、雪花と青花らしい。どちらがどちらかよく分からないけれど、と再び彼女たちの姿に目を走らせ、紗江は小さな違いに目を留めた。
──袖括りが青と白だ。でもどっちがどっちだろう?
名前について思案している紗江の目の前で、双子は同時に顔を顰める。
「なんと! またロウイは出歩いておるのか!?」
「知らぬ……だが、居眠りくらいはしていそうだな」
ロウイは職務怠慢な人らしい。
紗江は寒気を感じ、身震いした。春の気温とはいえ、濡れたままでいると冷える。
アランは、さっとサーファイに目配せした。
「問答も結構ですが、大事な月の精霊が風邪を引きそうですよ。守り人は速やかに風香殿へご案内するべきでは?」
サーファイが我に返ったように、振り返った。
「おっと、悪い! さ、早く風香殿に行こう。案内する」
「あ、うん」
風香殿がいったい何の施設なのかは計りかねたが、付いて行くのが正しいようだ。
紗江は、いつもの癖で、その場にいる人に挨拶をする。まず、一番身分が高そうな、雪花と青花に頭を下げた。
「失礼します……」
雪花と青花は、同時に頷いた。
「「ゆるりと休まれよ」」
一言一句違わず、声が重なる。次に、アランだな、と目を向けると、彼は赤い目をにい、と細めた。ぞくりと肌が泡立った。
「またお会いしよう……月の神子殿」
雪花と青花が息を飲んだ。
その意味に想像を巡らせられる知識もない紗江は、ぺこ、と頭を下げて、サーファイの後に続いた。