20.王立軍特務曹長の冷静な眼差し
王妃の居室を出て、城内を移動していく主人に付き従っていた王立軍特務曹長、クロス・ダイトンは、横目に神子を確認した。アラン王子の腕の中、ぎゅう、と抱き潰されている様子の少女は、息苦しそうな声を漏らしている。共に城へ上がっていた神子付きの侍女が、心配そうに声をかけた。
「あの……アラン様。大丈夫でしょうか……?」
「何がだ」
アラン王子の返答は、素っ気ない。侍女が眉尻を下げ、神子を覗き込んだ。
「そんなに抱え込まれては、神子様の息が苦しいのではありませんか」
腕の中に小さく抱え込まれた少女は「むう。むうう!」と抗議の声を上げている。
普段ならば彼女の呼吸が楽にできるよう、腕を広げてゆったりと彼女を横抱きにするアラン王子だが、今はできるだけ、彼女を他人に見せないよう、腰を折らせ、更に彼の胸に顔を押し付けさせて抱えている。
クロスも見かねて、声をかけた。
「殿下。神子様を降ろして差し上げてはいかがですか」
即座に「ああ?」という、高貴な人間とは思えぬ粗暴な返事が飛んだが、彼ははたと腕の中にいる少女を見下ろし、立ち止まった。
月の神子は、アラン王子が立ち止まると同時に、彼の胸から顔を抜き、に声を荒げる。
「もう! 一人でも歩けるので降ろしてください! 抱っこされるとバランスがよく分からなくて嫌なんです!」
普段から主に抱えられ、運ばれている彼女の文句は、巷の令嬢が聞いたら怒髪天を抜くだろう。しかし彼女は、誰もが崇める月の神子だ。どんな口をきいても、誰も文句は言えない。
時折、アラン王子の私城の警護に配備されるクロスは、日常の光景を思い出す。
階段を上る際は、体力のない彼女を気遣い、アラン王子が抱き上げる。普通の姫なら、ぽっと身を竦める場面だが、神子は心底辟易した表情を浮かべるのが常だ。夜も更けた頃合いになっても、庭園から神子が戻らなければ、アラン王子自ら迎えに行き、部屋に連れ戻す。この時も当たり前のように横抱きなのだが、彼女の顔は不満で満ち溢れている。
月の神子は、月が煌々と照り輝いている夜は、ずっと外にいたいものらしい。晴れた夜は、もう寝るようアラン王子に諭され、寝室へ運ばれる毎日だ。
気を抜いた日など、庭でそのまま眠りにつき、彼女に触れることを許されていない兵たちは、戦々恐々だ。万が一神子が風邪でも引いたら、大事である。
最も、寝ている彼女は天使のように愛らしく、目覚めている際は、気安く兵達へ話しかけてくれる無邪気さに、警備兵たちはそろって彼女に骨抜きだ。
主は耳に心地の良い、落ち着いた声音で、彼女に言い聞かせる。
「どうせすぐに疲れるのだ、文句を言うな。しかも、また無駄に力を使いおって……」
先程、王妃に対し月の力を与えていたことだろう。これまで見た経験のない、溢れ返る程の光の粒子を見せつけられ、反応はしなかったものの、クロスは度肝を抜かれていた。
こんなに幼い見た目だというのに、神子というのは本当だったのだと、改めて思った。
普通の人間が使える月の力は、せいぜい手のひらの中に小さな光の塊ができるかどうか位で、人一人を包み込むほどの力は、誰も生み出せない。
神子は眉を上げ、不思議そうに首を傾げた。
「無駄じゃないです。アラン様は、月の力がなくなると思いすぎじゃありませんか? 王妃様に力を分けても、私はなんともありませんよ」
本人の言う通り、神子の様子に変わりはない。対して王妃の顔色は、確実に初めに顔を合わせた時よりも、随分と良い状態に変わっただろうことが分かる程、血色が良くなっていた。
アラン王子は不満げな少女を見下ろし、諦めた雰囲気で、丁寧に彼女を床に降ろす。
神子はふう、と背伸びをして、アラン王子を見上げた。
「ねえアラン様。私知らないことがたくさんありすぎて、何から聞いたらいいのか分からないのですが……」
「……」
アラン王子は目を眇め、何も言わない。アラン王子は、神子を婚約者とし、その事実をひた隠しにしていた。城内の者は皆、知っていたが、内密にするよう命じられていたのだ。
アラン王子としては、本人の了解もなく婚約してしまった事が後ろめたく、また本人に知られぬよう、何とかうまく立ち回ろうと考えていたようだ。それをあっさりと王妃が漏らしてしまい、彼の計画は現在、真っ白なのだろう。
神子はアラン王子の顔をしばらく見上げ、容姿と相反した、大人びた反応を返した。
「……言いたくないのなら、無理には聞きませんが」
アラン王子が眉を上げる。何も言わずに、納得させられるとは思っていなかったのが、よく分かる表情だ。神子は愛らしい仕草で、髪を揺らし、小首を傾げた。
「でも、私が月の力を使うことを、止める必要はないと思います。アラン様の言う、『必要なとき』というのが、いつなのかも分からないし……。私なら──」
「それは、できない」
アラン王子は、ひたと神子を見据え、言葉を遮る。
「え……?」
「お前は、求められれば、全ての者に力を与えるつもりだろう。神子というのは、そんなお手軽な存在ではない。お前は政治をしたことのない、幼い人間だ。国政というものは、それ程易くはない。万人に祝福を与えては、この世の均衡が崩れるのだ。――お前が、我が国を鎮めたいのであれば、話は違うがな」
「──」
少女は目を見開き、言葉を失った。
アラン王子の言う通りだった。
この世のすべての人間は、神子の力を欲している。だが月の力は魔力だ。神子とは、この世の理を覆せるほどの、強い魔力を持つものだ。力あるものが、悪戯に富をばら撒けば、すぐに国は沈む。
だからこそ、神子は国家が買い取るのだ。
アラン王子は国家として彼女を買ったわけではないが、いずれは国が所有することになるのと同義だ。いずれ彼が、玉座に納まる。
国王をはじめ宰相、国官達が彼の独断先行を許したのは、将来を見据えているからだ。そして結婚して、神子とのより強い結びつきを求めている。
国が、神子を失わぬように――。
少女はしばらく、身動きしなかった。
アラン王子の脇に控えていた青い髪の青年──王立軍第一部隊伍長ソラ・パドリーユは、不躾にもそのご尊顔を覗き込み、情けなく眉尻を下げる。
クロスは眉根を寄せた。よく見ると、ソラは涙まで滲ませていた。
警護の立場でありながら、周囲に目を配らず、警護対象に目を奪われるなど、大声で怒鳴りつけたい有様だ。
馬鹿な下官の表情から察するに、神子は相当悲しそうな顔をしているのだろう。
アラン王子は短く息を吐き出すと、物言えぬ少女を再び抱え上げた。
「帰るぞ」
「……」
大人しく腕の中に納まった少女は、珍しくその細い腕をアラン王子の首に回した。そして彼の肩口に額を押し付け、小さな声を漏らす。
「申し訳、ありません……」
揺れる声から想像できる、悲しげな顔を誰にも見せぬよう、顔を伏せる少女から、クロスはそっと視線を逸らした。
神子はただ、幼いのだ――。




