2.花の街
瞼を上げると、満天の星空が広がっていた。
紗江は、感嘆の声を上げる。
「わあ……すごい」
風を切って前方を見据えていた男は、ちらとこちらを見下ろし、口の端を上げた。
「綺麗だろう。お前たちの世界に比べれば、こちら側は空気が澄んでいるからな」
頬を撫でる風は、甘い香りがする。
「花の、匂い……?」
視線を落とせば、深い闇が落ちていたけれど、建物の光も見えた。川沿いには、無数の建物が並んでいる。川の流れを目で追うと、大きな山があった。
飲み込まれそうに濃い闇の中、そこに山があると分かったのは、山の穹窿にそって、無数の光が灯っていたからだ。山に近づくほど都会になるのか、川沿いに比べて、建物の灯が一気に増えている。山の頂点には、大きな城の影が見えた。白い石でできた城が、山の頂上を削り取って、聳え立っている。
「ここは月の精霊の祝福を受けた一大都市だからな。花も咲き乱れるよ、そりゃな」
自慢気に応えた男は、銀色の髪をなびかせ、嬉しそうに街を見下ろした。
随分、詳細な夢だ。風も、匂いも感じて、街や城まである。
「……これからあの城に行くの?」
目的地らしい大きな建物は、目の前にある城くらいだ。しかし彼は、眉を下げて苦笑した。
「あそこはもう、上等な月の精霊が長年城主を支えている。お前の出る幕は無いな」
「そう……。まあ、夢の中だし、知らないものの中なんて、行けないよね」
夢の中であれば、紗江の経験と知識が反映される。
山を削って作り上げられたと見られる城は、風変わりな外観だ。紗江の頭では、外観は想像できても、内観までは無理だったのだろう。
男が片目を眇めた。
「お前な……。夢じゃないと言っただろうが」
「だって人は空を飛ばないわ!」
紗江は力強く言い張る。紗江の中では、未だ空を飛んでいる以上、これは夢以外の何でもない状況だった。
男は、とても面倒くさそうに溜息を吐く。
「……俺は『守り人』で、飛び切り優秀な月の力を持ってるの。だから空を飛ぶ能力がある。こっちの人間だって、ほとんど空なんか飛べねーよ」
「そう……」
信じきれないので、とりあえず相槌だけ返した。彼は紗江の内心に気付いたのか、ふん、と鼻を鳴らす。だが、それ以上は何も言わなかった。
一時間くらい経つと、眼下は、明かりのない平原ばかりになっていた。
「ねえ、何もないよ。草原ばっかりだけど、どこに行くの?」
「お前は、『月の宮』に連れて行くんだ」
『月の宮』とは何なのだろう。そろそろ知識を増やす必要があるかしら、と考えて、紗江は、自分を抱えっぱなしの青年に、そもそもの質問を投げかけた。
「あのー……あなたのお名前は、何というのでしょう?」
「サーファイだ」
「私は水野紗江です。えっと……よろしく、お願いします……?」
夢の中の、ほんのひと時の交流に、宜しくも何もあったものではないかも――なんて思ってしまい、挨拶は語尾が上がるという、間抜けな感じになった。
サーファイは紗江を怪訝そうに見下ろし、ぷいと顔を背ける。
「よろしくなんぞ言わんでいい。どうせすぐにお前とは会わなくなる」
「どうして?」
サーファイの目が地上へ向いた。つられて見ると、何もない平原の中に森が現れていた。森の中に、明かりが一つ灯っている。
大きさは、学校の設備が一つ分と言ったところか。建物は、白い石でできているように見えた。
サーファイは少しためらいを見せた後、ぼそりと応える。
「おれは、あの宮殿にお前を届けるまでが、仕事だ。……だから、今後お前と関わることは無い。……多分な」
「そうなの?」
「ああ……。月の宮には、お前を世話してくれる侍女がいるから、心配はない」
――侍女。聞き慣れない単語に、紗江は戸惑いを覚えた。
「あのー……月の宮って、なに?」
「月の精霊を回収して、清め、求められる機関や雇用主へ送り出す場所だ」
「……おー……」
『まじで?』という、正しくない言葉が頭を掠めた。
何だか不穏な流れだ。
要するに、『あちらの世界』から回収してきた人を集めて、綺麗に清め、欲しがる人にあげる場所だという意味ではなかろうか。
「えっとつまり、人身売買かな!?」
暗くなるのもなんなので、元気に尋ねてみる。サーファイはぎくりと頬を強張らせ、言い訳がましく言いつのった。
「人身売買じゃない! そりゃあ、俺はあっち側から月の精霊を連れてきて、月の宮に届けたら金をもらうが、別に月の精霊を奴隷にするためとかじゃない。こっちの人間は、月の精霊を祀る人間がほとんどだ。中には飾り立てて、贅の限りを尽くす人間もいるくらいで、無体を働く奴は……その……ううん……」
――口ごもった。
飾り立てていただいたお礼に、無体を働かれるなら、奴隷と何ら大差ないではないか。
紗江はそっと視線を落とした。
「無体を働く人はいるんだね……」
サーファイは慌ててかぶりを振る。
「違う! ……そのっ。……月の精霊と、結婚する奴もいるんだ……。月の精霊が許せば、伴侶になることができるから。だからその……今、口ごもったのは……そういうこともあるからで」
「そ、そう……。うーん……。怪しい世界だなあ……」
「――降りるぞ」
「えっ、ひゃあ!」
サーファイは、予告と同時に、急降下した。一瞬、内臓が浮いたような感覚に、目を見開く。ふわ、と体が浮いた拍子に見上げた夜空は、輝く星が、無限に広がっていた。
きらめきは、とても鮮やかで、眩しいほど。
こんな星空を見たのは、生まれて初めてだった。