15.幼い神子
このところ、変な夢をる。けれどどんな夢だったのか、さっぱり思い出せない。
紗江は頭の片隅に、消化しきれない靄のようなものを感じながら、用意された部屋の窓辺に佇んでいた。眼下には、広大な街並みが広がる。
紗江の部屋は、アランの持つ城の、中央塔にあった。床材に使われている乳白色の意志は、磨き上げられ、顔が映り込むほど見事な仕上がりだ。
こちらの世界の家は、全て石造りだった。『月の宮』から城に案内される道中、アランはガイナ王国の民について、ぽつりぽつりと教えてくれた。
多くの民が従事しているのは、宝石を発掘する仕事で、その石の細工をする技術者や小売業者は割と豊かな生活を送っているらしい。しかし、発掘を生業にしている人は酷く困窮しており、発掘に男手が駆り出される間、女たちは野菜などを育て、生計を保っている。
「神子様。本日はいかがされますか?」
侍女の声に振り返った紗江は、にこ、と笑う。紗江のために作られた軽い生地の着物が、動きに合わせてひらりと揺れた。
カサハの隙間から、紅色の唇が弧を描いたのを確認した、神子付きの侍女――ルーアとアリアが、嬉しそうに微笑み返す。
アランの城に連れてこられてから、一月が経過しようとしていた。
この間に、アランは重い着物を好まない紗江のために、新しい着物を用意した。薄い生地を幾重にも重ねて作られたこの着物は、薄紅色と白が重なり合って、淡い色合いだ。軽くて綺麗という、素晴らしい肝なのだが、唯一難点を言えば、妙に体の形に沿って作られていて、胸の谷間が露わになっていることだ。
『月の宮』で着せられていた、きっちりした着物と違って、胸がすーすーして、落ち着かない。
最も、動きやすさについては文句なしなので、紗江は本日も機嫌よく、二人の元へ駆け寄った。
「じゃあ、探検します」
二人は紗江が自分たちのもとへ駆けてきただけで嬉しいのか、満面の笑みで頷いてくれたのだった。
日中、アランは仕事に出かけるため、一人城に残された紗江は、何をするでもなく散歩をするのが日課になりつつある。異様に大きな建物は、どれほどうろついても初めて見る場所があり、果てが見えなかった。
この城は、外壁は赤銅色の煉瓦で覆われているが、内壁は全て、黒ずんだ石で仕上げられている。造りは西洋の城と似ている。天井がとても高く、照明はシャンデリアと似た形をしていた。
紗江の背後からルーアとアリアがついて来ている。
「このお屋敷はとっても大きくて立派だけど、なんだか薄暗いですね」
立派なシャンデリアも、内装も、どことなく黒ずんでいますねと言うと、アリアが頷いた。
「お城はガイナ―家が管理しはじめてから、二百年の歴史がございます。年季も入りますわ」
「ガイナ―家ってアラン様のお家の事ですか?」
身についた習性とはなかなか治りにくいもので、何となく自分よりも偉そうな人や、上品そうな人にはついつい敬語を使ってしまっていた。再三直せと言われているものの、どうにも慣れず、敬語を使っている。
アランに至っては、公式の場面でさえうまく話してくれればいいと、諦めの境地だ。彼は自分についてあまり語らず、紗江は彼の家名すらまともに認識していなかった。
「左様でございます。こちらは、ガイナ―家が所有している別邸です。アラン様が十五歳の時にお父上から譲られ、管理はアラン様の家令のクライブさんが担当しておりますの。クライブさんは御年七十ですが、今も現役で動き回っていらっしゃる素晴らしい方なのですよ。ただ少し、目がお悪くて」
目が悪いせいで、壁やシャンデリアのくすみに気付いていないそうだ。
ふうん、と気にしていない声音で返事をし、紗江は城を見渡す。この城は、大きさに対して、使用人が少ないのだろう。紗江の侍女は二名だが、アランの侍女はルルという、金髪に栗色の瞳の女性が一人で、主にルキアという執事が彼の世話をしている印象だ。
城門を守る兵士や、城内警護の人は沢山いるのだが、城内の菜園や掃除を担当する使用人は、ほんの数名程度しかいない印象だった。
「せっかく格好いいお城なのに綺麗じゃないともったいないですね」
長年蓄積された黒ずみで沈んだ色をしているが、元の色はおそらく白に近かったはずだ。黒ずみが一分剥がれて見えた石の色の方が、ずっと綺麗で好みだ。
紗江はこの汚れは頑固なのかなあと、ぺたりと壁に手を置く。ルーアが頬に手を置いて息を吐く。
「ルキアさんはアラン様の側近としては、とても優秀な方なのですが、生活に支障が無ければそれでいいという方なので……館の管理までは大して興味が無いご様子なのです」
アランの側近は、癖があるようだ。
紗江は二人を振り返った。
「あ、お庭に行ってもいいですか? 確か香草や変わった植物を育てているんですよね」
中央塔と東塔の間にある菜園には、食べられる植物を植えているらしく、専任のおじさんが毎日かいがいしく世話をしている。色とりどりの野菜が実っているので、近くで見ればさぞ楽しいだろう。
紗江が瞳を輝かせて伺うと、ルーアとアリアは、答えようとして、やめた。ぽかんと口を開き、紗江の向こう――廊下の先に視線を向けていた。ちかちかと、光の粒子が紗江の視界に入り込む。
「あれ?」
光の粒子は、確か『月の力』を使った時に見えるものだ。誰か使ったのかな、と視線を背後へ向け、紗江は眉を上げた。
「……」
「なんという御力でしょう……」
「お噂には聞いておりましたが……これほどまでとは」
ルーアとアリアの声が、興奮してか、揺れている。
紗江は瞬いて、その現象を見守った。紗江が触れた壁から、布を捲るような音を立てて、石の色が変わっていく。
廊下と廊下の角で控えている兵士が、びくりと体を強張らせ、壁から背を離した。
別の兵士が、足元の石の色が変わるのに合わせて跨ぐ仕草をする。
程なくして、くすんだ壁は見事な大理石色に戻り、天上を彩っていたシャンデリアは磨き上げられた透明度を取り戻した。灯火の強さも増したらしく、城中がまばゆく明るい。全てを確認したわけではないが、見渡す限りその現象が繰り広げられていたので、城中のくすみを取り除いてしまったようだった。
「……綺麗になって、良かったね」
少し戸惑いつつも、侍女たちに笑いかけると、彼女たちは嬉しそうに笑う。各所に配置されている兵士達からは、物言いたげな視線を注がれた。良いことをしたのか、してはいけないことをしたのか、判然としない。
ともあれ、機嫌の良さそうな侍女たちに連れられ、庭園に案内された紗江は、庭師のおじさんの元へ移動した。
ルーアが作業着姿の彼を紹介した。
「庭師のログです。菜園の管理と薬草の調合などを担当しています」
ログは口を覆っていた布を顎下まで下げ、頭を下げた。紺色の短い髪に白いものが混じっている。口元を覆う髭が動いて、低い抑揚のない声が聞こえた。
「おはようございます、神子様」
顔はすでに何度か見たことがあるので、紗江は膝を折って笑んだ。
「おはようございます、ログさん。お野菜見てもいいですか」
ログは真顔で頷いた。
このおじさんは表情が乏しいのだろう。
緑の葉が豊かに茂る菜園は、長い畝がいくつも連なって、元の世界と変わらない、草と土の匂いがした。ログが手入れしている植物は、長細く指先程度の長さの葉が茂っている。
紗江はログの隣にしゃがみ込んだ。筋が目立つ、大きな手のひらが、脇に置いていた籠の中から鋏を取り出す。茂った葉を丁寧に一つ一つ切り取っていく。
「……この葉っぱは何ですか?」
「これはヤミーユの葉です。香り高いため、葉は香料になります」
「レモンみたいな匂いですね。」
葉を切るたびに爽やかなレモンの香りが漂う。ログは紗江を見返し、首を傾げた。少し離れた位置で見守っているルーアを振り返る。
「レモンは確か黄色い果実だったか。酸味の強い果実だと聞いた気がするが」
ルーアが頷き、紗江は口角を上げた。元の世界の果実を、ログは知っているようだ。
「そうですね」
「レモンはこちらにはないの?」
「そうですね。ヤミーユにも実はなりますが、色は青いままです」
「へえ……」
どんな実がなるのか気になり、葉の中を覗き込む。ログがゆったりと葉をかき分けて、木の幹と枝の間になった、実を見せてくれた。サクランボのような実がたくさんついている。
「わあ、豊作ですねえ……」
目を輝かせると、布の下でログおじさんの口の端がピクリと揺れた。これは笑ったのだろうか。
「果実は食べてはいけません。毒があるから」
「果実は神経をマヒさせる効果があるのですよ」
ログとルーアが合わせて説明をしてくれた。ヤミーユの隣には、トマトと思しき植物があった。色艶美しい赤い実を一口頂けないだろうかと見つめていると、ログは菜園の向こう側を指差した。
「回廊の反対側は、花を植えています。あちらは危なくない」
アリアがログの言葉に頷いた。
「そうですわね。こちらの菜園は触ると被れる薬草もございますもの。花園に参りましょうか、神子様?」
「あ、はい。そうですね」
赤い実を未練がましく一瞥したが、紗江は言われる通り、立ち上がる。中央塔の外回廊を挟んだ向こう側には、確かに美しい花畑が広がっていた。背の高い花が多く、庭園の入り口に設けられたアーチに絡まる、蔦薔薇にはまだ花はついていない。
「すごいですねえ。でも咲いてないのも、一杯ありますね」
花園はとても広く、公園のような広さだ。その三分の二くらいが、青い葉を茂らせるだけだった。
「そうですわね。ここは、場内を彩る花を作るためのお庭なので、季節ごとの花が揃うよう、いつもこんな感じですわ」
「なるほど……」
言われる意味は分かるが、やっぱり半分以上、花が付いていないと寂しいな、と紗江は手近な植物の葉に触れる。そしてはっとした。
花園にさざ波が立ちはじめ、既視感に襲われる。慌てて手を離したが、意味はなく、紗江の周囲に光の粒子が溢れ返った。粒子は風に乗って庭園中に広がっていき、全ての花が開花するまで、左程時間はかからなかった。
「あらあらあら」
「まああああ」
「神子様……全部咲くと、意味がない」
「……」
リーアとアリアが瞳を輝かせ、のっそりと後ろからやってきたところの、ログが淡々と苦情を口にする。
花々の甘い芳香が、一斉に放たれた。
紗江は気まずく笑う。
「すみません……」
アリアが何故かさみしげに眉を落とした。
「神子様、再三申し上げましたけれど、私共にはそのように丁寧なお言葉遣いをしていただく必要はございませんわ」
「……あ、はい」
しかし、見た目はともかく、精神年齢は立派な成人女性なのだ。世話を焼いてくれる人々に敬語を使わないのは、どうにも居心地が悪い。
弱ったなと庭園を見渡していたログも、頷いた。
「そうだな。そのほうが、こちらも安心する」
「神子様は最上のお方ですもの。私共に敬意など必要ないのです」
紗江の心臓が、どき、と音を立てる。敬語をやめてほしいと言っている三人の顔は総じて、不安そうだった。
紗江は『月の宮』での教えを、思い出す。
”『月の精霊』とは、こちらの人間にとって『最上の存在』であり、『神』だ。”
紗江の胸が、ぎゅう、と詰まった。
紗江にとって自身は、唯人に過ぎないが――彼らにとっては違う。
彼らが敬語を厭うのは、それだけの役目を紗江に求めているからだ。人々にへりくだる必要がない、人の上に立つことを当然とする、それだけの恵みを与えるべき存在だから。
競りの日に感じた不安が、紗江の胸を覆った。
『神』として紗江を見ているなら、彼らは、『月の精霊』の不安など見たくないだろう。横柄に振舞い、人々にかしずかれるのが当然の、至高の存在であって欲しいと望むことだろう。
自分がそんな存在だと、自覚できるはずもなく――しかし、自分の振舞い一つが、彼らの気持ちを左右する。
それなら、自分は、そう――あらねばならないのだろうか。
腹の内で惑う、己の感覚を消化しきれないまま、紗江は周囲に呑まれ、口を開いた。
「じゃあ……そうする」
抑揚のない声で応じると、三人はそろって、ほっと目を細めた。
紗江は強張らないよう、慎重に、微笑んだ。
闇の中で、彼は白い腕を伸ばした。
しかし細いその腕が、彼の背に届くことはない。
――行かないで。
お願い、行かないで。
どうか、行ってしまわないで。
僕を置いて、行かないでください。
――お願い。
聞いて。
僕の全部をあげるから──。
血を吐くほどの、必死な声を上げたが、振り返る者はいなかった。
――お願いだよ……。
絶望が、彼の光を奪い始めていた。