12.魔性の誘い
紗江が取りあえず命拾いして良かったとほっとしている間に、競りは滞りなく終わった。最高値を付けた落札者が、競りの十日後に迎えに来る。この十日間は競り落とした人間が月の神子を受け入れる準備期間で、屋敷を整えたり、『月の精霊』のための衣装を用意して、送ったりするそうだ。
用意された着物を着つけられていた紗江は、ソフィアとは裏腹に、渋面をつくる。これまで使っていた着物も、十分きめ細やかだったが、贈られてきた着物は、とても凄いらしい。ソフィアは大興奮だ。
「これほど貴重なサシャの糸を用いた衣は見たことがありませんわ! ゾルテの匠が手掛けた最高級品ですよ、神子様!」
白い布地の中に金の糸と赤い糸が編み込まれているのは普段着ている物と変わらないが、刺繍が妙に派手だ。満開の花に鳥の翼が無数に踊っている。サシャの糸というのは絹糸のような手触りで、肌心地はいいのだが、布が重かった。肩にのしかかる重さに紗江は嘆息した。
「こっちの服は、高くなればなるほど重いの? 無駄に糸を使いすぎじゃないかなあ……」
頭にも豪奢な宝石をちりばめた花飾りをいくつも差し込まれ、ほんの少し首を傾げるだけでも飾りを落としやしないか冷や冷やする。赤い襦袢の上に白の着物を重ね、襟首や袖口から赤い生地が見えるように完璧に計算されている。帯は金色でこちらにも赤い紐を編み込んだ飾りがついているのだが、また高そうな石があちこちに装飾されている。
しかも中指に金色の華奢な指輪がはまっているのだが、指のサイズを誰かに計測された記憶はないにもかかわらず、紗江の指の太さにぴったりだ。その中心で輝く琥珀色の石は、こちらの世界で最も固く、最も高価な石らしい。名前は忘れてしまったけれど。
文句を言う紗江の頭に、ふわりと紗の布が被せられた。
「こんなに大切な扱いをされて、文句を言う方は神子様くらいのものですわ。まったく、もう少しご自覚なさいませ。お時間が足りませんでしたが、この世の理についてお教えしたことはお忘れになられませんようにね」
「……」
すでにほとんどの知識は忘れている。
ソフィアは毎日、根気よくこの世の経済や農業、常識を話して聞かせてくれた。まとめると、大体は元の世界と一緒だ。
大きく違うのは、こちらの世界の動力がほとんど『月の力』に頼っているということ。更に、非常にありがたいことに椅子などの基本的な物の呼称は同じだった。だがたまに名称が違う。どう見ても牛でしかない獣の名前はボウというらしい。こんな感じで、単語の認識が面倒だが、異界なのだから仕方ない。
「神子様……?」
沈黙を不穏な答えとして受け取ったソフィアが、眉を吊り上げる。紗江はあさっての方を向いた。
「あ、そ……そういえば、結局誰が私を買い取ったの?」
ソフィアの目が据わる。
「買い取り手はご本人様同士で自己紹介をするまで秘密ですと申し上げましたでしょう」
「でも……ゾルテの人なんでしょう? こんなに高そうな服を用意できるのだから」
自国の特産に力を入れて、買い取った人形を飾り立てるのは常とう手段だ。
『月の精霊』という存在は、便利な魔法増強剤だ。『月の力』という魔法を使うために、便利な道具。それを国の偉い人が買い取り、人形として飾り立て、神のように扱う。
ソフィアはふふ、と少し楽しそうに笑った。
「ご主人様にお会いするのが、楽しみですわね、神子様」
同時に扉がノックされ、紗江は顔を上げた。扉の向こうから、耳慣れない誰かが、迎えが来たと告げた。ソフィアが紗江のために先に立ち、扉を開ける。
「では……門の前へお送りいたします、神子様」
紗江は未だ聞きなれぬ、『神子様』という呼称に片眉を下げ、笑んだ。
ひどく重い着物は、紗江の足取りを遅くした。人目からは、非常に淑やかな所作になっているのだろう。今までどこにいたのだかよく分からない、白い制服を着た、『月の宮』の関係者と思しき人々が、各所に立って紗江をうっとりと眺めている。
紗江の動きまで計算してこの着物を贈ったのなら、買い手はかなり計算高い人だろう。指輪のサイズを測るまでもなく、ちょうど良いものを贈っているだけでも、用意周到である。
回廊を渡り、門へ通じる廊下を進んだ紗江の目に、大きな白い門が映った。門の前に整列した、大勢の人間を目の当たりにした紗江は、息を飲む。
門から森へ通じる道の両脇に、黒い軍服を着た兵士が、ずらりと並んでいたのだ。
門の目前に付けられている馬車は、非常に豪奢だ。金銀装飾の限りを尽くしたような眩さだった。
そして、門をくぐった、一行の先頭に立っている男に、紗江は眉を下げる。一際、人目を引く。黒い軍服の中で唯一、外套を羽織った男。白い髪の毛がさらりと風に舞い上がり、赤い双眸が強い色合いで紗江を見つめていた。
「……ガイナ王国の……」
──あの人、本気で私のこと買い取っちゃったんだ……。
若く見えたので、紗江を買い取ってしまうような財力があるとは思っていなかった。
紗江の体が一度、震えた。
「神子様……大丈夫ですか?」
手を取って歩んでくれていたソフィアが、気遣わしげに視線を上げる。
アランに向かい合って何事か話していた雪花と青花が、振り返る。
彼女たちの、白い顔が笑んだ。
「見事じゃ……」
「誠に。月の神子にふさわしい」
紗江はゆっくりと、彼らの元へ進んだ。ソフィアがアランと雪花達の前に紗江を案内し、手を離した。紗江が足を止めた刹那、アランの背後に控えていた兵士の一人が、声を上げた。
「――ご降臨である!」
あまりに大きな声だったため、紗江はびくりと肩を竦めた。掛け声とともに、甲冑がこすれ合う音が響いた。
──うわあ……。
紗江は閉口する。アランをはじめ、兵士達が一斉に片膝をついて、頭を下げたのだ。
雪花と青花が高らかに声を上げる。
「喪は開かれた。――これより神子は自由」
「――よくこの世を導きたまえ」
漆黒の美丈夫が、すっと立ち上がる。赤い双眸は喜びのためか輝き、形良い唇が、満足げに弧を描いた。
「迎えに来たよ、私の精霊」
「──……」
紗江は薄く口を開き、瞬く。肩から肘にかけて、血が凝った。心臓は壊れそうなほどに鼓動を打ち、指先が震える。
紗江は、この感情を良く知っていた。泣き出しそうな、切ない気持ち。けれど──何故。
自分がこの人に迎え入れられ、『迎えに来た』と言われたことのどこに、自分が動揺する理由があるのだろう。
理解できない自分の感情を堪え、紗江は唇を引き結んだ。何かを口にすれば、きっと涙が溢れてしまう。
森が風に揺れる。
アランは、無骨な手のひらを差し出した。
「さあ、行こう──」
彼の指を彩っていた指輪は、一つもなかった。
飾らない指先が、紗江に伸ばされる。一緒に行こうと、誘っている。
──この手を取れば、きっと終わり。
何かの終わりを感じた紗江は、しかし、白く細い己の指先を、重ねた。
触れた瞬間、彼の大きな手のひらは、怖気づく間も与えぬ素早さで、紗江の手のひらを掴みとった。
「……っ」
手を強く引かれ、腕の中に抱きこまれる。
かつてと同じように、彼の胸に顔を埋めた紗江は、顔を上げ、目を丸くした。
血よりもずっと鮮やかな、輝く紅色の瞳が、艶やかに揺れ、そして甘く微笑んだ。
「――やっと手に入れた、私だけの神子。決して手放さないと誓う」
ざあ、と風の音が聞こえ、桜の花びらが辺り一面に舞い上がる。
紗江は怯えと自分でも分からない、小さな感情を抱え、目を閉じた。
さあ、これが――私の終わりと、始まり。
兵士たちが顔を上げる。桃色の花弁が舞い踊るその光景は、まるで桃源郷のようだった。




