女神の祝福
ひらりと黒い影が舞い降りたのは、夕暮れだった。州城の警護を無理矢理突破した影は、方々を探して回っている様子だった。そして目的の対象がいないと悟ると消えた。
蒼雲山を通り過ぎる黒い影は、命の灯を惜しげもなく消費しつづけていた。息切れを起こしてもおかしくない状況で、影は表情一つ変えなかった。堅牢な第一王子の私城の警護は厳しく、影に無数の矢傷を負わせた。それでも影は消えようとしなかった。いないのだと気づいた影は、よろりと浮かび上がり、王城へ向かった。飛び去る影が零していく血痕を見て、第三部隊の兵は恐怖を覚えた。対象は、死に匹敵する血液を零していた。それでもなお飛べるその尋常でない月の力に、恐怖を覚えたのだ。
報せは即座に王城へ届いた。
蒼貴館の最上階、賓客の為に設けられた柔らかな長椅子に座っていた神子は、こくりと首を傾げた。彼女はカサハを被っていなかった。
「蒼貴館周囲に弓兵を配置せよ。第三部隊に……」
扉前に膝を折った兵に、神子の隣に立つ王子が指示を出す。
「ねえ」
王子を遮ったのは神子だった。
「その方は……どんな方なのか、あなたはご存知?」
神子から直々に声を掛けられると思っていなかった兵は、兜の下で狼狽した。狼狽は反射的に、日頃受ける訓練通りの即答を選んだ。
「灯篭花の役者です。通り名はケイと――」
即座に王子に睨み据えられ、兵は失態を犯したことに気付いた。
何も知らぬ彼女は王子を見上げる。
「聞いたことがあります」
王子は嫌そうに視線を逸らす。
「そうか」
王子は神子に殺人鬼の詳細を知らせていなかった。そしてそれ以上を告げる気もないのだと彼の表情は雄弁に語ったが、神子は彼の顔を凝視してぽつりと言った。
「私の舞を踊った、役者ですか?」
兵はびくりと震えてしまった。
王子は応えなかった。彼女を無視して采配を告げる。采配を記憶するに専念した兵は、彼女が立ち上がる姿を見上げ呆けた。
揺れる衣。立ち上る花の香り。赤い唇。優しげな、瞳。
「そう……彼だったの……」
「おい」
こつり、と彼女の靴が床を叩いた。王子が怪訝に彼女に声を掛けるが、彼女は王子を無視して歩みを進めた。目の前まで歩いてきた神子を見上げ、兵は思わず道を開けてしまった。
彼女の口元が弧を描いた。
「ありがとう……」
「待て! どこへ行くつもりだ!お前はこの館で待機だと言っただろう!」
王子が乱暴に彼女の肩口を掴もうとした時、ばちりと火花が散った。
「っつ」
彼女は石でできた冷たい色の廊下で一度立ち止まり、王子を見上げた。
「私に秘密を作るような、主人の言うことを聞きたくはありません」
王子は目を見開いた。
「何を……!」
彼女の周囲には金色の粒子が舞っていた。その粒子が、王子の手を拒絶する。どうあっても触れない。王子は口惜しげに拳を握り、神子に訴えた。
「お前に教えれば、お前はまた慈悲を垂れるだろう! お前は甘すぎる! 何故憐れむ。お前の命を欲する者だぞ!」
神子は淡々と廊下を進む。
「そうなのかしら……。彼は私の命が欲しいのでしょうか……」
「当人が言っておっただろうが!」
神子は首を傾げる。自分をはらはらと見守る兵達の瞳を一つ一つ見ながら、彼女はぼんやりと呟いた。
「黒い目……」
廊下に配備された兵達は二人を見守るしかできなかった。神子は、自らを守る防壁を、自ら破壊することを選んだ。
蒼貴館の隣にある庭園へ足を延ばす神子を、王子は強く叱責した。
「いい加減にしろ! お前の為に、どれだけの兵が尽くしていると思っている! 全てを無駄にする気が!」
神子は聞く耳を持たなかった。カサハも被らず、己が造り上げた花園へ向かう。
「無駄になど、なりませんよ」
彼女は王子を見やる。
「報せにあったでしょう?致死量に及ぶ出血量だと」
「本当にその通りかは分からぬ!」
神子の周囲に一定の距離を保って兵が集う。その様を見やり、神子は笑った。
「私の周囲に、これほど多数の兵がいるというのに、それでもあなたは危険だとおっしゃるの?」
王子は低く言う。
「そうだ」
「随分と、脆弱な部隊ですこと」
明らかに、挑発的な発言だった。だが王子は冷静だった。
「お前の挑発なんぞには乗らん。どんなに馬鹿にされようと、お前は館の中に居るべきだ」
神子は足元に咲き乱れる八重の花に視線を落としながら、穏やかに言った。
「ねえ、アラン様。彼はどうして私に会いたいのかしら」
「知らん」
彼女は呆れたように笑った。
「お考えください。私のこの身ばかりを慮ってはなりません」
「それの何が悪い。お前を失うわけにはいかない」
彼女はひたと王子を見据えた。
「あなたが本当に失ってはならないのは、民でございましょう」
彼は苛立ちを抑えきれず怒鳴りつけた。
「そんなことは、重々承知している! 民の為に俺は有らねばならず、お前だって、有らねばならないんだ!」
彼女はにこりと笑んだ。
「そうですね。私も、あなたのためだけではなく……やはり、民の為にあらねばならぬのです。――神として」
王子は息を飲んだ。
神子は甘い笑顔で王子を見上げる。
「アラン様は優しい人です。貴方は私を人として見てくれます。貴方の前では、私は、私であることを許される」
「……」
彼女は昇り始めた月に視線を転じた。
「だけどね、アラン様。民は違います。民の前では、私はやはり……神であらねばならないの」
王子はしばらく言葉を失い、そして俯いた。
「……すまない。俺が、主であるばかりに……」
王子が手を伸ばすと、神子の周囲に舞っていた月の力は掻き消えた。彼の腕に包みこまれながら、彼女は淡く笑んだ。
「いいえ。ちっとも構いません。私は、あなたのお傍に居たい。……だけどアラン様、だからどうか私を許して下さい」
「……」
「私に会いたい人は……いつも、私に救いを求めているの」
「あの男も、お前に救いを求めていると言うのか」
恨めし気に、彼は神子を抱きしめる。
不遜にも神子を軽んじた数多の発言をした殺人鬼。それを許せる者は無く、腸が煮えくり返っている筆頭は王子だった。
「そうね……きっと、そうなんだと思う……」
彼女は花園の中に座り込んだ。
「あの人はとても怖かった。だけど、何かが壊れていた」
そして空を見上げる。黒い瞳はゆらゆらと揺れながらも、必死に何かを保とうとしているようだった。
「……彼が壊れるだけの、辛いことがたくさんあったということなのじゃないかしら。あの目は……。そんな人の瞳だった気がするのよ……」
王子は彼女の横に腰を据え、嘆息した。
「お前は本当に、民にだけは甘い神子だな」
彼女はただ笑んだ。
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花園の中に、彼女はいた。白銀の美しい髪を惜しげもなく花々の上に広げ、彼女は眠っていた。日中の熱が残る大地の上で、その温もりを楽しむように彼女は眠る。月の光が彼女を煌々と照らしていた。
花の上に足を降ろして、気付いた。自分の周りには数多の兵があった。そして眠る彼女の背後にも男がいた。その男は、彼女は自分のものだとでも言わんばかりに彼女を引き寄せた。
眠りから覚めた彼女は、男を見上げ、その視線を追ってこちらを見た。眉を上げた彼女は、驚いていた。
きりり、と弓矢が引かれる音が聞こえた。
自分がどうしたかったのか、思い出せなかった。彼女の瞳は漆黒だった。その漆黒の瞳が自分から逸らされて、空を見上げる。月を見たのだ。その瞬間、ちらちらと何かが煌めいた。金色の粒子が、彼女からあふれ出していた。同時に、彼女の瞳が金色に変色した。
彼女はその金色に輝く瞳をこちらに向ける。じっと自分だけを見つめている。
それだけで良かった。
自分を見てくれた。それだけで良かった。
彼女は立ち上がった。男が引きとめたが、彼女は男から手を離した。
私へと真っ直ぐに向かって来る。
虹色の光を反射して、彼女の衣が瞬く。
彼女は触れるほど近くまで寄ってきて、無防備にこの顔を覗き込んだ。そして笑んだ。酷く優しい笑顔だった。
「あなた、とても美しい顔をしているのね」
瞳から涙が零れた。この美しさが呪わしかった。こんな顔さえなければ、自分が苦しむことなどなかったのではないかと、何度潰そうと思ったことだろう。
けれど、この顔が無ければ金を稼げない。生きていくためには、この憎らしい顔が必要だった。
彼女が手を伸ばし、この顔にそっと触れた。白く穢れを知らない柔らかな手のひらが両頬を包み込む。
彼女は瞳から涙をこぼした。そしてそっと囁いた。
「ごめんね……。もっと早く……あなたに出会えればよかった……」
本当だよ。どうしてもっと早く、来てくれなかったの。口からは嗚咽しかもれない。
足から力が抜けた。どうしてだろうと、視線を落として分かった。自分の周りには血だまりができていた。
彼女はとても悲しそうに、涙を零している。
「わら……って……」
血の味が舌に広がる。声は喉で絡まる血の塊で掠れていた。聞き取りにくい、この声を聞いた彼女はまた涙を流して、そして息を吸い込んだ。
瞳を閉ざし、もう一度開いた時、彼女は極上の笑みを与えてくれた。
ああ、この世にこんなに美しい女がいたなんて。
本当に女神って存在するんだね――。
最後に、あんたに触れられて、とても幸せだ。
彼女は震える優しい声で囁いた。
「……もう……おやすみなさい……」
視界に影がさす。どす黒い闇が自分の世界を埋め尽くそうとしている。視界の中に斑紋が広がった。
彼女の白い手が瞳にかざされた瞬間、世界から闇が取り払われた。真っ白な世界を見た。
それが、最後だった――。
翌日、殺人鬼が討伐されたと報せが走った。
殺人鬼の死の話は回り回って不思議な結びで語られた。
神子の祝福の元、殺人鬼はこの世から消えた――。
女神の祝福が、殺人鬼の命を奪ったような物言いに、時折人は首を傾げた。
事実を知る者は誰もいなかった。