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月の精霊~異世界って結構厳しいです~  作者: 鬼頭鬼灯
ガイナの神子─ 終章
108/112

呪詛

※残酷な表現を含みます。

小説情報に記載しておりますが、R15ですので、年齢が満たない方はお読みにならないでください。


 桜花蒼姫の支配人は連行から五日が経っても戻って来なかった。

 いつもは生き生きと方々へ嫌味を放っている番頭も意気消沈気味で、呼びつけたティナにぼそぼそと使いを言い付ける。

「庭の草取りは下男にさせるからもういい。一階の掃除が終わったら女中頭のところへ行きなさい」

「え」

 女中の仕事は当面無いとシャグナにいわれていた。番頭は疲れた顔を上げて口元を曲げた。

「すぐに女中には上げない。だが成年になったら上げるつもりだと旦那様とも話をしていた。お前に最初に支払った賃金はうちの従業員の給与と比較しても高すぎるんだよ。旦那様は三か月分というお話にされたが、本来ならうちは人を買うような店じゃない」

 仲介業の男の横にいたティナを見下ろして、彼は仕方ないと言った。あれはそういう意味だったのだ。本来人は買わないのに、彼はティナを買った。

「……はい」

 番頭は沈んだ声音で額に拳を当てる。

「私は嫌だったよ。この店は国の定めた法という牢の中で必死に形を留め、大きくなっていった店だ。聡明な旦那様だからこそ、お任せできる偉業なんだ。お前は女を売る店なんてという顔をしているが、それでも旦那様は従業員や遊女を大切になさっていらっしゃる。私はジ州一巨大で、高級なこの店を誇りに思っているんだよ」

「はい」

 番頭は俯いて額をこつりこつりと拳で叩く。

「なのに違法な人身売買まがいの男からお前を買い取った。遊女にするつもりもなく、ただ下女に置いてやるというだけの目的で。あれはただの慈悲だった。旦那様がどれだけの危険を犯したのか、お前は分かっていない。だから旦那様にも失礼な態度を取ったし、遊女たちを毛嫌いしていた。そんなお前が、私は許せなかったよ。桜花蒼姫を軽んじるなと腹を立てて何が悪い?」

 言われるとおりだった。自分は桜花蒼姫を軽蔑し、この店の従業員としてある自分を恥じていた。

 いつも笑って自分を許してくれたシャグナの懐の深さが、今更涙を滲ませる。

 買う必要のない子供を、仕方ないの一言で買い取った彼はどれだけその内で葛藤したのだろう。

 従業員や遊女を大切にしていることは、働き始めて直ぐに分かった。可能な限り最大限の施しを与え、決して理不尽に叱責し無い。叱責さえやんわりと穏やかに、傷つけることはなく。生意気なティナにさえ、気を使っていない体で何くれとなく手を貸してくれた。

 慈悲というただそれだけの感情で――。

「申し訳ございませんでした……」

 番頭は嘆息する。

「もういいけれどね……。お前は頭のいい子のようだから、女中としてもやって行けると思ったのは私だ。旦那様はお前に女中をさせたくはないご様子だが、給与に見合った仕事というものは必要だ。だから今から、女中の仕事も学んでもらう。いいね」

 ティナは深く頭を下げた。

「畏まりました……一生懸命、勤めます」

「そうしておくれ。ああ、戻るついでにこれを旦那様の部屋に置いて来ておいておくれ」

 番頭はどんな怒りものせていない平静な表情で、シャグナ宛ての手紙を寄越した。

 感情的で性格の曲がったこの番頭を、シャグナがずっと置いている理由が少しわかった気がした。



 板張りの廊下を歩いていると、ふと物音が聞こえた気がした。客の出入りの無い昼間、店の内は従業員が静かに廊下を歩く物音だけが響く。廊下の先から音が聞こえた気がしたが、厨房の音だっただろうかと首を傾げながら廊下を進み、玄関の方へ向かった。太陽の光が射しこむ廊下の左手にシャグナの部屋がある。その部屋の扉がかたりと動いた。

「……」

 中から物音がする。シャグナが戻って来たのだろうか。帰ってきたのなら店番の男が番頭に知らせに走りそうなものだが。それともシャグナの事だから、大事にするなと誰にも知らせないように言ったのだろうか。

 何かを床に落とす大きな音がした。探し物をしているような音だった。官吏に何かを提出するように言われたのかも知れない。

 ティナは戸を叩いた。

「旦那様、いらっしゃるのですか?」

 返事は無かった。だが中から物音はしている。ティナは変だなと思いながらそっと戸を開いた。

「……旦那様?」

 部屋の中に人がいた。男だと思った。シャグナが使っている箪笥の中身をひっくり返して、こちらを見やった男の顔は美しかった。漆黒の瞳がシャグナに似ていた。けれどその髪の色は似ても似つかない、翡翠色だ。女かとも思ったが、その首に浮かぶ喉仏や筋肉質な腕は男そのものだった。

 どこかで見た覚えがあると呆けたティナを見おろし、彼は笑った。甘やかな笑みは極上と表現するに相応しい色香を湛え、同時にその笑っていない漆黒の瞳は背筋をぞっとさせた。

 男は手を伸ばした。ティナが咄嗟に立ち上がって逃げようとすると、着物の襟首を無遠慮に掴み、強引に部屋に引きずり込まれた。戸がぱしりと閉じて、鍵が閉められた。

 畳の上に投げ捨てられたティナの腹の上に、男は跨った。

「久しぶりだね、僕の事覚えてる?」

 心臓が狂った鼓動を打ち、呼吸がままならない。綺麗な口元が笑っている。綺麗な指先が伸びて来て、ティナは声を忘れて目を閉じた。

「偉い、偉い。悲鳴とか上げたら速攻で殺しちゃうしかないもんね。賢い子だねえ」

 ぞっと全身に鳥肌がたった。男はティナの顎を掴み、空気を揺らして笑う。

「ねえ、目、開けてよ。怖いって分かんないでしょ?」

 意味が分からずそっと瞳を開けると、男は目を見開いて低く言った。

「――僕が」

 全身から血の気が下がった。この男は狂気しか持っていない。男は楽しんでいるのだ。ティナが恐怖で震える様を、興奮した眼差しで見下ろしていた。目じりに涙が滲んだ。

「いいね……いい顔……怖いんだね……すごい、嬉しい」

「や……や……」

 指が頬を撫でて首筋をなぞる。動脈の音を確かめるように、指が喉に押し付けられる。

「あー……生きてるね……君。まだ、生きてるんだねえ……いいねえ、この音」

 殺される。そう思った。悲鳴をあげたいのに、声は喉の下で震えて意味をなさない。大人しくしていたら殺される。悲鳴を上げても殺される。どうしたら逃げられる――。

 男は声を出さずに笑いながら、ティナの帯を解いて行く。

「大人しい子なんだねえ……もうシャグナには抱かれたの?」

「――」

 ティナは目を見開いた。シャグナ。この男はあの酒屋の館にいた男だった。シャグナの友人だと紹介された。綺麗な男だと思った。だけどあの時、この男の機嫌は悪そうで怖いと思った。怯えたティナを勘違いしたシャグナが、話を早々に切り上げて店まで一緒に帰ってくれたのを思い出す。

 男は色香溢れる吐息を漏らし、唇を舐める。

「シャグナは上手いだろう? あいつは女の体をよく分かっているから……どんな女もあいつに抱かれたら虜になる……」

「……私、そんな、じゃ……っ」

 怖気が走った。シャグナと女の睦みあいなど想像もしたくなかった。綺麗な顔をした彼が、汚されたようで腹が不快に淀んだ。

 彼は目を見開き、至極面白そうに笑った。

「あっは。嘘。抱かれてなかったの? あんなどろどろの目で見てたのに、手もだしてないんだ、あいつ。笑える」

「やっ!」

 男は笑いながら解き切ったティナの腰帯を、乱暴に引き抜いた。同時に口を大きな手が覆った。冷徹な感情の欠片もない暗い瞳がティナを睨み下ろした。

「声出すなよ……殺すよ。今、死にたいの?」

「……っ」

 瞳一杯に涙が溢れ、零れ落ちた。怖い。この男は怖い。人を殺すことなんて、全然平気だと思っている顔だった。

 彼の顔が近づいて来て、赤い舌が涙を舐める。体が拒絶反応を堪えるために大きく跳ねた。

「じゃあ、あんた無垢なままなんだね……」

「う……っう……」

 涙を辿って舌が耳の中まで撫でる。味わったことのない悪寒が背筋を駆け抜け、ティナは顔を背けた。

「いいね……あんたは、幸せで」

 耳たぶを強く噛まれ、痛みに喉から悲鳴が上がりそうになった。男は口に手を回して悲鳴を押さえ込んだ。

「僕がさあ……初めて抱かれたのは、売られて直ぐだったよ……」

 ティナは目を見開いた。視線を向けるのが恐ろしく、横を向いたまま耳をそばだてる。

 彼は耳元で囁くように話した。

「子供相手にさあ……容赦ないんだよね……。おぞましくても逃げる力なんかないしさあ……口減らしで売られた僕に、帰る家もないしね……」

 思わず目だけを向けていた。彼は笑っている。

「可哀想でしょ。こういう話すると、女って直ぐに貢いでくれるし、足も開くしで簡単だよね。あんたも足開きたくなった?」

「――」

 口を押えられたままのティナは何も応えられなかった。どこまでが彼の本心なのかよく分からなかった。

 彼は空いた片手をティナの腹に乗せる。びくりと肌が跳ねると瞳の色が妖しく変化した。

「触られたことのない肌だね……。処女って、人に触られるの慣れてなくて、反応がいちいち可愛い……。あいつがあんたに入れ込むのも分かるよ。あんたは穢れを知らない。僕達みたいに、穢れた奴にとっては綺麗すぎる」

 手のひらが腹を撫で上げていく。ぞくぞくと肌が泡立ち、ティナは目を瞑った。くくく、と喉で笑う音が聞こえる。

「綺麗なものは……汚したくなるもんね……」

「やめてください……」

 腹に意識を奪われた男の手が外れ、ティナは小さな声を出した。男は顔を上げる。手のひらが頬を撫でて喉に降りる。

「いいじゃない。僕に頂戴よ。あんたの初めても、命も。全部頂戴」

 本気だ。黒い目は感情の欠片もなくティナを見ている。どうして殺されなければならないのか、ティナには分からなかった。

「嫌です……」

 気付いたら、心のまま言葉を発していた。男の腕がぴたりと心臓の上で止まった。恐怖で心臓の音が早くなる。男もそれに気づいているのだろう。だが彼は無表情になっていた。

「どうして……? 嫌なんて……初めて言われた……」

 言ってから、彼ははっと目を見開いた。彼は虚空を見つめ、唇を震わせる。

「お願いです……放してください」

「嫌だよ……」

 首が機械のようにぎこちなく動き、ティナの顔を見下ろした。ティナは涙をこぼしながら、首を振った。

「私、まだ生きたい……」

「どうして? こんな世界、生きてたって面白くもなんともないよ。僕に殺されちゃったほうがずっと、気持ちいいよ」

 意味が分からなかった。殺されることは決してティナにとって快楽ではなかった。

「いや……」

 彼の目が見開かれた。そして乱暴に着物を引き裂いた。

「僕を見ろよ! どうして僕を見ないんだよ!」

「ひ!」

 首筋に男が噛みつき、激痛が走った。生暖かい感触が肌を伝い、肌が掻き切られたのだと分かった。

 男の体が押し付けられる。血で濡れた舌が、肌を舐め上げた。

「殺す……絶対に殺してやる……」

 かちゃり、と何かがかかったような金属音。光を挿す、男の向こうの扉。

「――」

 もう無理だった。ティナは限界を超えて、悲鳴を上げていた。

 男の瞳孔が開いた。そして大きな手が心臓を狙って力を込めた時、男の体は消えた。机が跳ね上がり、辺りにあった陶器が高い音を立てて割れ砕けた。

 ふわりと香りが鼻を掠める。見覚えのある青灰色の着物。灰色の長い髪。男と同じ、黒い瞳。けれど感情のある、優しいその瞳。

「だん……な、さま……」

 シャグナだった。シャグナは僅かに息を乱していた。荒れ散らされた荷物の中から、物音が上がる。男は無表情で立ち上がった。

「もう止めておくれ……」

「邪魔するなよ」

 シャグナは眉根を寄せてティナの前に立った。

「もう、およし」

「善人振るなよ! お前だって同じだろうが! お前だって、僕と同じ運命を味わっただろう! この見てくれに狂った、屑どもに良いようにされて、殺したいと思ったくせに! 殺さなかったのは、お前が弱いからだ!」

 シャグナの瞳が苦しそうに細められる。

「そうだよ……私は、人を殺せないよ……ケイ」

「欲しいものも、欲しがらない。お綺麗な顔をして、見ないふりをして!お前はいつもそうだ!なんでだよ!」

 男は感情を爆発させ、近くにあったガラス張りの戸棚を割砕いた。高い金属音が上がり、血がぼたぼたと畳を汚す。

「欲しくたって……心がなければ、手に入れたことにはならないんだよ……」

「理想論ばっかり立てるなよ! 欲しいものは、手に入れないと意味がない!」

 シャグナが男を睨んだ。

「命を奪って、何が残る……。お前は、心から誰かを愛したことのない男だよ」

「……愛なんか、語るなよ……」

 男の目が見開かれたまま、焦点を失う。唇が震え、その口から笑い声が上がる。

「あの人が……僕を愛するはずが、ない……んだから」

 シャグナは視線を逸らした。

「……誰のことなの」

「……」

「……神子様の瞳は、優しく、慈悲深い。当たり前だよ……あの方は、民の全てを受け入れる運命を背負った……女神なんだから……」

「……」

「……神子様の何を知っているの。何も知らないだろう……。お前は……神子様なんか見てないよ……」

 男の目が潤んだ。

「でも……欲しいんだ……」

「お前が欲しいのは、神子様じゃない。お前が欲しいのは……肉親の……」

「――やめろ」

 憎悪に染まった瞳がシャグナを睨み据えた。

「お前に何が分かるんだよ」

 シャグナは、彼の殺意に満ちた瞳を悲しげに全身で受け入れている様子だった。怯えるでもなく、怒るでもなく、彼の瞳を正面からすべて受け入れて言う。

「分かるよ。私は……お前の友だもの」

「――」

 彼の瞳が愕然とする。

「ずるいよ……お前だけ……お前だけ……見つけるなんて……」

 ぎこちない動きで、彼の瞳がティナを見る。

「僕だって……欲しいんだよ……僕だけの……」

「それは神子様じゃない」

「でも、神子のせいだ」

「ケイ」

 彼の瞳に感情が戻る。それは憎悪であり、正気とは言い難かった。

「神子がもっと早くこの国に来てくれていたら、僕は売られなかった。雑技団に売られて、昼は躍って、夜は抱かれて。そんな毎日を過ごす必要はなかった」

「ケイ……」

「僕だけ、僕だけ苦しかった。僕だけ、泣いて、殴られて。病気で熱があったって、吐いたって、誰も助けてくれなかった」

「……」

 黒い瞳がシャグナの向こう側を睨み、呪詛を吐く。

「いつまでも、薄汚い奴らの手が僕の体を這いまわる。気持ちが悪いあいつらの目に晒されて、いつまで僕は踊らないといけないの。いつまでこの体を売れば良いの。いつになったら、僕を助けてくれるの」

 ティナの瞳から涙が零れ落ちた。なんて残酷な世界だろうと――それだけを思って。

 彼はティナを見下ろして、首を傾げた。

「僕の為に泣いてくれるの?」

「ケイ、やめて」

 伸びかけた手から隠すように、シャグナがその腕の中にティナを抱え込む。

 彼は笑う。

「僕の為に泣くなら、僕と一緒に死んでよ」

「――」

 ぎゅっとシャグナがティナを抱きしめると、彼は真顔になった。そして彼の口からは奇妙なほど穏やかな声が漏れた。

「……シャグナ。お前はさ、知ればいいと思うよ。……僕が知らない、本当の……」

 言いかけたまま、彼は開き切った戸口から出て行く。外回廊から空を見上げ、彼は飛翔した。彼は一度たりとも後ろを振り返らなかった。彼の顔にはどんな感情も浮かんでいなかった。

「……ごめんね」

 風に乗って、彼のものなのかどうかもわからない、微かな声が届いた。

 ティナを抱きすくめたシャグナの吐息が、震える。

 見上げると、彼の黒い瞳から涙が零れていた。

 ――ああ、神子様。

 どうしてもっと早く、この国へ現れて下さらなかったの。

 思ってはならないことと分かっていながら、そう思わずにはいられなかった。

 ティナの頬を涙がいくつも零れ落ちた。



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