紙一重の愛
兄が邪魔だ。
ロティオはさめざめと泣き崩れ、愚痴を繰り返す兄を見やり、溜息を落とした。ジ州の第一区画に設けた私邸を兄が訪れたのは夜も更けた頃合いだ。書斎で仕事をしていた弟を気遣う気もなく、彼は酒を両手に抱えてやって来て、部屋の端にある椅子に横たわり管を巻いている。
「だって酷いだろう? やっと手に入ると思ったのに! あの坊ちゃんめ! 官吏を四人も籠絡するとは!」
ロティオは今回の議会の争点について知っていた。ほかならぬ王の事情聴取につき合わされ、更に普段の神子についてまで問われたのだ。業務を妨害する行為に甚だ苛立ちを覚えたものだ。
「もう諦めてはいかがですか。神子様は殿下のご婚約者です。兄さん如きには到底手の届かない高嶺の花なのでしょう」
兄は上半身を起こし、半目で窓辺の机で作業しているロティオを睨んだ。
「酷いよ、ロティ。お兄ちゃんだって、神子ちゃんに釣り合うよ! 王様の次に偉いんだよ!」
「はいはい、そうですね……」
アラン殿下はその内、国王になるので結局あなたよりも偉くなります。という言葉は胸に秘め、視線もくれずにおざなりに返事をする。兄は恨みがましげな声で愚痴を言う。
「そうだよ、ロティ。お前だって、酷い。どうしてあんな証言をしたんだい」
「あんな?」
要点がつかめず顔を上げると、兄は机の上に足を投げ出し椅子の背もたれに肘を掛けてこちらを睨んでいた。
「普段、アランが神子に外出しないよう強く言っていなかったなんて、良く言ったね。僕が知らないとでも思っているの。あいつはしつこく一人で街へ降りるなと神子に言っていたよ。神子はアランの言うことなど聞いていなかった」
「ああ……」
ロティオは鼻を鳴らしそうになり、寸前で止めた。
「嘘ではありません。確かに殿下は執拗に街へ降りないようにとおっしゃっておりましたが、本気ではございませんでしたよ。あの方が本気を出せば、神子様など震えあがって身動きすらできないでしょう」
「そこが争点だったんだよ!ちゃんと事実を報告しなくちゃ駄目でしょ!」
ロティオは失笑した。官吏としてではなく、弟として口を開いた。
「兄さん。僕はね、殿下から神子様を取り上げることに反対する側の人間なんだよ。議会で普段の神子様の態度について尋ねられるとして、どうして僕が神子様は殿下の言うことなんて聞いていませんでしたと応えないといけないの?」
「ロティい……」
兄が潤んだ瞳で見つめてくるが気持ちが悪いだけだ。
まだ解決を導けていない宝石商の売買情報の統計を出さないといけないというのに、邪魔だと思いながら笑う。
「分かるよ。神子様って可愛いよね。何も知らないし、知らないことを知ろうとしているところにも好感が持てる。でもさ、僕はあの人は怖い人だとも思うよ。膨大な月の力を抱え、それを悪用しようとすればいくらでもできる。あの人の気持ち一つで、人をころりと殺してしまえるんだ。彼女が暴走したら、きっと誰も止められないよ。彼女がその気になれば、王だって殺してしまえるって、兄さんは気付いているの?」
兄は皮肉気に笑った。
「あの子はそういう子じゃないからねえ……。そんなこと、考えるだけ無駄だよロティ。どこまでもお人好しな、慈悲深い女神様じゃないか」
ロティオは鼻を鳴らしていた。
「僕は想像するよ。だから彼女の主はアラン殿下でなければならないとも思う。殿下は盲目に彼女を愛しているわけじゃない。いつだって彼女を制御するために用意をしていらっしゃるし、あの方を斬り捨てる心づもりだってある。でも兄さんは違う。僕は兄さんにあの方の夫になって欲しいとは思わない。兄さんが本当に彼女を愛してしまったら、目の前で力を開放する様を見た瞬間に、彼女を牢獄に閉じ込めてしまいそうだ。失いたくない一心でね」
力を使いすぎたが最後、月の精霊は異界へ消えてしまう。そういう女性を妻にして、兄が本当に幸せになれるとは思えなかった。
「……」
兄は頬杖をつき、ぼんやりとこちらを見ていた。きつく言いすぎただろうか。目をやると兄はにっこりと笑った。
「ロティは優しい子だね。僕の事をそんなに思ってくれているなんて、知らなかったよ」
ロティオは天を仰いで、大きく溜息を吐き出すしかなかった。
「もう、いい加減にしてよね。第六区画の買占めをしている宝石商の不正摘発をしないといけないんだから、書類の準備が大変なんだよ」
「大きく摘発するのかい?」
ロティオは片眉を下げ、机に向かう。
「そうだよ。玉水溢という大店が、最近第六区画を完全に買占めている。第五区画もほぼ買占めされていて、動きが見えにくいんだ。だけど多分、モノ州の大店へ宝石を横流ししている。正規で売るよりもずっと儲かるからね。採掘権にまで手を出し始めているから早く抑えないと、面倒になる」
「……玉水溢ね……。この間玉水溢の中間管理職が殺されていたね。例の殺人鬼に」
「え? そうだっけ?」
殺人事件よりも、宝石商の方に専念していたためあまり記憶に残っていない。兄は酒を飲み下しながら視線を虚空へ向ける。
「桜花蒼姫の宴の帰りだったみたいだけれど。着物だけ残っていた男だよ。玉水溢の坊ちゃんは殺されずに済んだのだなあと思って、不思議だった。きっと運が良いのだろうねえ。あの坊ちゃんは男色で有名だから……殺人鬼にも声を掛けていたようだったけれど。結局殺人鬼に声を掛けたのは部下だったようだ」
「桜花蒼姫?支配人を拘束しているから聴取に使おうかな。何か知っているかも」
兄は口角を上げた。
「いいんじゃない?あと赤萄嵐の若旦那……じゃない。姉だったかな。たしかあの一族は酒以外にも手広く事業を広げていた。あそこの娘は宝石店の主人じゃなかったかな。何か知っているんじゃない?」
「……赤萄嵐の娘?」
「正確にはシェスマン家の娘だけれど。化粧品と宝石を合わせて売って大きく事業を広げていたはずだよ。ほら、香露とかいう口紅のようなものを開発したりしている……幻華堂という店だよ。商品の開発に随分昔から関わっていた娘が最近、経営する側に回ったとか。赤萄嵐の坊ちゃんの関係で呼べるんじゃない」
「ああ、そうだね……」
ロティオは忘れないように書面に記録を残し、仕事を再開した。兄はしばらく大人しく酒を飲んでいたが、おもむろに言った。
「確かに僕は神子の夫には相応しくないのだろうね……」
「そうだね」
ようやくわかったのかと顔も上げず頷く。彼は虚ろな声で言った。
「神子を失う恐怖を覚えたら……ね。彼女を愛していたら……」
兄は自嘲するように笑った。
「……きっと僕は……この手で殺してしまうよ……。自分の女は……誰にも渡したくないからね……」
ロティオは呆れて眉を下げた。
「そうかもしれないけれど、どうせ兄さんは夫になんてなれないんだから想像するだけ無駄だよ。今日は飲み過ぎじゃない?もう寝たら?部屋を使っていいから」
「ロティ……お兄ちゃんは今、傷心なんだよ……」
どうやら本気で神子が欲しかったらしい。ロティオは無慈悲にも再び鼻で笑った。
「早く寝なよ、兄さん」
「あの殺人鬼もさ……神子様殺しちゃいたいんだってさ……」
「はあー?」
あり得ない情報に顔を上げると、兄は長椅子に横たわって安らかな寝息を立て始めていた。
今ここで寝ろとは言っていない──。