件の精霊
アラン王子の私城の、来客を迎えるための貴賓室で待たされていた官吏達は、いつまで経ってもやって来ない件の女性を待ちかねていた。やっと扉が開いたと思ったら、この城にいるのかいないのか分からない程に全く存在感を放たない、老齢の家令が穏やかな笑顔で顔を覗かせた。
「お待たせして……申し訳ございませんな……」
立ち上がった官吏四名は目的の女性が背後からやって来るのかと視線を巡らせたが、彼は首を振った。
「申し訳ございませんなあ……お嬢様はどうもこちらへは来たくないとおっしゃっておりましてなあ……」
「……それはどういった意味でしょうか」
お嬢様という表現に全員が違和感を覚えていたが、そこを追及するよりも顔を見せないことが問題だ。
彼らは今日、神子を出迎えるためにやって来ていた。アラン王子と宰相の間での所有権の移譲に関して採択をするための議会が、数時間後に迫っている。
アラン王子の私城に留めて最終的に神子を隠されては面倒だという、王の猜疑的な判断でもって、決する前に神子の身柄は王城へ移される予定だった。
彼はふっくらと笑んだ。
「アラン様のお部屋にいらっしゃいますので、ご案内いたしましょう」
「はあ……」
四人は互いに視線を交わし、おずおずと老齢の家令の後に続いた。
アラン王子の私室になど足を踏み入れる機会は一生の内一度もないはずだった彼らは、重厚な深い色の扉前に配された兵の目つきにとうとう身の危険を覚えた。この部屋へ来るまでの間、回廊という回廊に兵が配されており、アラン王子直属部隊の兵達の目つきは一様に尖っていた。城中が神経を張った状態で、たった四人の官吏は武官を門前に置いてきた事を後悔した。
兵がゆっくりと扉を開いた時、官吏達は目の前に飛び込んできた景色に背筋を伸ばした。
部屋の中央に設けられた長椅子の上に、彼女はいた。薄布を重ね合わせた独特の着物を身に付けた彼女は、長い髪を椅子の上に垂らし、横臥した状態で官吏を出迎えた。カサハを身に付けた状態でしか間近で彼女を見た覚えのなかった彼らは、彼女の素顔に目を奪われる。
華奢な体、光を弾いている長い白銀の髪、白い肌、赤い唇、長い睫に彩られた漆黒の瞳。これぞ女神であると言わんばかりのその姿に、彼らは自然と頭を垂れた。
「失礼いたします……」
官吏の一人が挨拶をするが、彼女の瞳は動かなかった。視線を巡らせると、彼女の背後にある机にアラン王子の姿がある。彼の表情は良くなかった。眉間に皺を寄せ、今まで読んでいたのであろう書類を脇に置く。
「わざわざ部屋まで済まないな」
「いえ……」
否定の言葉を吐きながら、状況が理解できなかった。彼女の両脇に控えている侍女たちは彼女の前に茶や菓子を振る舞い、更に官吏達にも椅子へ座るよう促した。
彼女の向かいの長椅子と、机の両脇にある一人掛けの椅子に丁度座れる数だったが、官吏達は身動きを許されていない空気を感じ、彼女の向かいに立ち尽くした。
アラン王子が溜息を落として席を立つ。
「ほら、迎えが来たんだ。いつまでも我が儘を言うな」
いかにも親しい間柄の人間がする言葉遣いに、官吏は密かに衝撃を受けた。彼らにとって神子は神であり、普通に話しかけられる対象ではない。
神子の顔にはどんな感情も乗っておらず、人形のような印象があった。赤い唇が小さく動いた。
「嫌って言ってるじゃない」
婚約式で聞いた、愛らしい声に官吏達は震えた。愛らしい声は完全な拒絶を示していた。
アラン王子は彼女が横臥している椅子の肘掛に腰を置く。
「仕方ないのだと言っただろう。今日の議会が終わるまで、お前は王城へ移るんだ」
「そして永遠にこの城には戻らないのよ」
「そんなことはないと言っているだろうが」
「アラン様は嘘がお上手ですもの」
これが神子か、と納得する。非常に気の強い女性だと全員が思ったが、侍女たちは心配そうに神子を見つめていた。これに官吏は普段から横柄な態度にも慣れているのだろうと思った。
「嘘ではない。俺はお前を手放すつもりはない」
「でも議会が所有権をはく奪したら、あなたは私の主ではなくなる」
官吏達はじりじりと肌を焼かれている心地だった。神子は明らかに今回の事態を良く思っていない。彼女の態度が心から不快であると言っている。彼女の勘気に触れるのは避けたかった。
アラン王子は苛ついた表情で、小さく舌打ちした。神子の肩が揺れた。
「――いうことを聞け」
強い物言いをされ、彼女は体を起こした。立腹すると思われた彼女は、予想外に暗い声を漏らした。
「じゃあ私は、ここから消えるわ」
官吏達の体が強張った。転移をされては捕まえられない。
アラン王子は溜息を落とし、片手で顔を覆った。
「お前のその奔放さを、王は良しとしなかった。俺がお前に甘いばかりに、招いた結果だ」
「……」
神子は俯いた。侍女の一人が神子に声を掛ける。
「ご安心くださいませ。きっと殿下は、すぐに神子様をお呼び戻しになられます」
もう一人の侍女も声を重ねる。
「そうですわ。王城へは私たちもお供いたしますもの。何もご心配される必要はございませんのよ」
神子はゆっくりと立ち上がった。アラン王子が目を向けるが、彼女は彼の顔を見なかった。
「分かりました……」
覇気のない声が最後だった。それを最後に彼女は何も語らなくなった。
「馬車には必ず一人は侍女を神子と同乗させるようにしてくれ。着替えの荷物があるから、一つこちらの馬車を付けるが、いいな」
「畏まりました」
アラン王子の采配を受け、迎えに来た官吏は二手に分かれた。侍女が素早く神子の頭にカサハを掛け、移動の為に用意された膨大な量の荷物を運び出した。それらを眺める彼女は人形のように身動き一つしない。
神子を乗せた馬車に官吏二名と、侍女一名が付いて乗り込む。城の車止めまで見送りに来たアラン王子が乗り込む神子の片手を掴み、顔を覗き込んだ。
「必ずお前を迎えに行くから、怯えるな」
「……」
その最後の時まで、神子はアラン王子に視線を向けなかった。
扉が閉ざされ、神子はまっすぐに正面を見据える。全く和やかでない、ひりつくような苛立ちが車の中に迸り、官吏達は視線を逸らした。窓の外を見ていた官吏は、堅牢な城壁と門で囲われた王子の私城に目をやる。黒い門がゆっくりと閉ざされて行った。
アラン王子の私城が見えなくなった頃、衣擦れの音が聞こえた。神子が身じろいだのだろうが、勘気に触れても恐ろしく官吏達は身動き一つしないよう心がけた。
「神子様……?」
侍女が気遣わしく声を掛けるので、官吏達は恐る恐る首を巡らせた。そして彼らは息を止めた。
神子は両手で顔を覆っていた。
車輪が煩く回る。
ひっと喉が引きつる音が微かに聞こえた。
彼女は密やかに泣いていた。声も立てず、嗚咽も漏らさないように懸命に堪える音が聞こえる。
ぽたりぽたりと指の間から涙が零れ落ちる。
神子は全身で、悲しいと言っていた。
これが神子か、と官吏達は彼女に静かな眼差しを向けた。