月夜
戻る場所など、ここ以外にはない。
元の世界になど、戻りたくない。
ここには母が生きていた。そして今、父がいて、大切な人がいる。身勝手にこの力を使い切ってしまおうなんて思ってもいなかった。力を失い切らないよう、ぎりぎりで動いていた。それでもこの体は力を満たしておかなければ、動かなくなる。
この世にありたいのなら、力を溜め続けろと月に監視されているようだった。月は言うのだ。力がないならお前なんかいらない。
この世は残酷だ。力が無いのなら、排除されるのだから。
この世から消えることを恐れたテトラ州の精霊の恐怖が、今更分かった。この世に大切な人ができてしまえば、戻ることなど望めない。あり続けようと努力するしかないのだ。
「……っ」
泣き声が聞こえた。密やかな泣き声はしばらく続いた後、ぴたりと止んだ。衣擦れの音が、扉が閉まる音と共に消えた。辺りは静まり返った。
誰が泣いていたのだろう。
ゆったりと開いた瞳に月が映りこんだ。眠っている間は雪が降り積もるようだった力が、滝のように体中に注ぎ込まれていく。瞳に月の光を映し込むと、力の吸収は止まらなかった。空っぽの空洞を埋めるためか、怒涛の勢いで水が体に注ぎ込まれる錯覚を覚え、呼吸が苦しくなった。
「く……っ」
紗江は瞳を閉じて、上半身を起こした。胸を押さえ口を開くと、苦しそうな息が漏れた。鼓動の速さが尋常でない。この体はどんどん変わっていく。この世で過ごせば過ごすほどに、月の力の吸収力が上がっている。昔は月の力が体に溜めきれず零れ落ちることなどなかった。
――怖い。
漠然と恐怖を感じた。力を吸収していく体。かつてよりも早く、力を吸い込んでいく。その負荷を感じる。心臓が無理をしていると言っていた。
力を失いすぎてはいけない。力を失えば、心臓に負荷がかかる。これ以上の力を使ったあとの吸収では、心臓が弾けるのではないだろうか。あり得ないと思いながらも、呼吸が苦しい。声も出せない状態で、それを笑う気持ちにはならなかった。
紗江は布団に顔を押し付ける。体が勝手に力を吸い込んでいる。こちらの方がずっと楽だった。
瞳を閉じて力の補充を感じていた紗江は、ずいぶん経ってから扉が開く音に目を開けた。
夜着に身を包んだアランが、紗江の顔を見て立ち尽くした。疲労の濃い目の下の隈が可愛そうな顔だった。
「紗江……」
誰も知らない弱い声を上げる。紗江は精一杯甘い笑みを浮かべた。
「おはようございます」
アランは笑んだ。
「もう夜だぞ」
「何日目の夜ですか?」
「……一年」
「え!」
驚いた声を上げると、アランは傍に来ながらはは、と笑った。
「嘘だ。二日だよ。眠りすぎだ」
寝床の脇に立ち紗江の頬を大きな手が撫でた。目の下を撫でて、瞼の上を撫でる。冷やりとした感触に、眉を上げた。
「濡れてる……?」
アランはそっと言った。
「ずっと泣いていた……」
「誰が?」
きょとりと見上げる。そう言えば、寝ている間に泣き声が聞こえた気がした。傍で誰かが泣いていた。
アランは酷く優しい眼差しで紗江を見つめおろした。
「お前だ」
「……」
紗江は目を見開いた。
「嘘」
また嘘かと思ったが、彼は苦笑する。紗江の横に腰をおろし、体を抱き寄せた。
「ずっと泣くから、どこか痛いのかと心配だった。医者に見せてもどこも悪くないと言う。じゃあなぜ泣くのだと怒鳴りつけてしまった」
「……本当に?」
「怖いと言っていた。もう怖くなくなったか?」
彼は紗江の体を抱きしめて、笑い含みに尋ねる。彼の胸の中で、紗江は目を見開いた。戻りたくないと、ずっと夢を見ていた。そんな寝言を言っていたとしたら――。
恥ずかしい。
真っ赤に染まった頬に唇が落ちた。
「あ、の……」
他に寝言を言っていなかったか確かめたかったが、アランが酷く甘く見下ろすので、言葉を見失ってしまった。
「お前もこの世にあり続けたいと思うのだな……」
「──!」
かっと血が上った。とっさに開いた口から、情けない空気が漏れる音が上がる。寝言は言っていたらしい。しかもアランはしっかりと聞いている。
彼はにっと笑った。
「お前が泣くのが気になって眠れんかったからな。寝言も全部聞いていた。何度も何度も名を呼ばれ、悪い気はしなかった」
「き……聞いていないふりをしてくださいっ。ひどい……っ」
紗江は両手で顔を覆って俯いた。零れた髪の間に覗いた首に口付けが落ち、体がびくりと跳ねる。
「だが俺が好きだろう?」
恥ずかしさに紗江は悲鳴を上げた。楽しそうに彼の手が腹を撫でる。
「えっ」
首筋に顔を埋めたまま、アランの大きな体が紗江を押し倒した。
「待っ」
「別にいいだろう。もう悲鳴をあげられるくらいには元気なのだろう?」
「だめ! 色んな意味で駄目です!」
二日も寝たままだなんて、絶対に無理ですと叫んだ時、悲鳴を聞きつけた侍女が駆け付けた。
「神子様、ご無事ですか!」
ルーアの焦った顔が、瞬時に真顔に変わった。紗江の衣はほとんど意味をなしていなかった。ルーアの後に続いたルキアが眼鏡の下で冷たくアランを見据えた。
「殿下……」
「冗談だ、冗談」
冗談だと言いながら、手は動きを止めない。二人の目を全く気にした様子も無く、合わせの中に顔を埋め、胸元に口付けを落とす。
「ひゃう!」
紗江が声を上げると、ルーアが怒鳴った。
「殿下! 神子様はまだ目を覚まされたばかりですわ!」
「わかった、わかった」
物足りなさそうな表情で紗江の着物をかき合わせると、彼は堂々と唇を重ねた。視界いっぱいに広がる赤い目が潤んでいる。驚いて確かめる間もなく、彼はそっと唇を離すと濡れた紗江の唇をもう一度吸い、立ち上がった。
「アラン様……?」
雰囲気に違和感を覚えて声を掛けると、彼は艶のある笑みで耳元から首筋を撫でおろした。思わず目を瞑ってしまう。
「……っ」
彼は軽く笑って離れて行った。
「湯あみでもなんでも好きにしてくれて良いぞ。用意が済んだら呼べ」
意味深な物言いに硬直した。ルーアがぷりぷりと怒る。
「数日はお控えくださいませ! 全く、これだから殿方は……」
「や……あの……」
「一先ず医者をお呼びいたしますね」
慈悲深い微笑みを浮かべた侍女に、紗江は言葉も見つからずただ頷いた。