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月の精霊~異世界って結構厳しいです~  作者: 鬼頭鬼灯
ゾルテの精霊― 序章
1/112

1.月影の月

注)事前に小説情報キーワードタグのご確認をお勧めいたします。

この作品は、メリーバッドエンドです。ご了承の上お読みいただけますと幸いです。


※本作品の無断転載・翻訳はご遠慮ください。


 赤煉瓦の外壁に、アーチ型の玄関扉。窓を囲う格子は白色で統一されていて、可愛い。女性入居者を想定した、オーソドックスな単身者用アパート。

 ここに入居したのは、去年だ。全体的に清楚な雰囲気が気に入った。

 玄関の扉を開けると、五畳分のキッチンと、奥に八畳分のフローリングが一つある。一人暮らし用の部屋にしては珍しい二口コンロが置け、シンクの上下には大きな戸棚を設置しているところも入居を決めたポイントだった。

「ただいまー……」

 疲れ切った紗江さえの声に、返ってきたのは、しんと静まり返る空気だけ。

 どんな思い出もない、冷えた部屋を見渡し、紗江は溜息を落とした。靴箱の脇に、安いブランドのカバンを放り投げ、シンク横の冷蔵庫に向かう。

 冷蔵庫の中から目当てのボトルを取り、シンクうえに吊り下げていたワイングラスを引き抜いた。

 いつもいつも、空しい。何のために働いて、何のために生きているのか――。

 紗江は誰もが抱くそんな疑問を毎日頭の中で繰り返しながら、代わり映えのしない、退屈で、窮屈な日々を過ごしていた。


 紗江は足先で冷蔵庫の扉を閉じると、ベランダへ向かった。

 横切った部屋にある家具は、必要最低限のものしかない。

 一般人として必要な情報を得る道具である、テレビとパソコン。会社で恥じない行動をするための、礼儀作法関連の本と、同僚との会話に必要な、ファッション雑誌を入れる本棚。クローゼットには、最低限の着替え。そして、寝るためのベッド。

 一人暮らしを始めてからこの方、部屋を充実させたいなどとは、欠片も思わなかった。

 ベッドの脇に立てかけた姿見に、自分が映り込んだ。

 きりりと上がった眉毛に、黒く縁取った目尻。メイクは、雑誌に載っていた通りにしているだけだったけれど、改めて見ると、随分、気が強そうだ。

 理由もなくただ伸ばし続けた茶髪は、すっかり長くなり、腰まで届いていた。

 服は、春物のブラウスの上に、ショールをひっかけ、流行りもののタイトなパンツをはいている。

 どこにでもいそうな女が、つまらなそうな顔で自分を見返していた。

 紗江は鏡から視線をもぎ取り、ベランダへ向かう。

 何をしてもつまらない。その理由は、自分でもよく分かっていた。

 ――去年、母が死んだ。

 母は、紗江が短大を卒業すると、あっさりと逝った。

 心臓が悪いのだとは知っていたが、母は病気について詳しく教えてくれなかった。

 ――そんなに悪かったなんて、全然、知らなかった。

 父も祖父母も、紗江が生まれる前に死んでいる。紗江にとっては、母以外の家族がいないことは、極自然で、当たり前だった。

 けれど、母だけは――。母が死んでしまったことだけは、現実味がなかった。

 この世に生れ落ちて二十一年、傍にいるのが当たり前だった人を失った喪失感は、いまだ埋まりそうもない。

 ――あれから、自分の中の何かが、欠けてしまった。

 何もかも、どうでも良い。

 元々、この世で生きている実感なんて、大して持っていなかった。学校で過ごす毎日は、いつもどこか空々しかった。それでも、家に帰れば、笑って出迎えてくれる母がいた。母の笑顔を見ると、ああ――生きている。――自分は、生きていると、思えた。

 母を失った紗江は、あっという間に一人きりになった。

 もはやこの世への執着など、何も――。

 鬱々と考えながら、ベランダへと続く窓を開け、空を見上げた紗江は、ふと笑んだ。濃紺の空に、完全に満ちた月が、煌々と輝いている。

 何もないわけでは、ない。

 ――一つだけ、執着できることが残っている。

 紗江は、冷蔵庫から出したワインボトルとグラスを、ベランダに据え置かれている、小さな机に並べた。慣れた手つきで杯を満たすと、白いベンチに腰かけ、月を見上げる。

 紗江にとって月は、一日の穢れを払ってくれる――救いだった。

 月影を映しこんだワインを眺め、その月影を飲む。実際には月影を飲むことはできなかったけれど、これは大事な儀式だった。

 幼い頃、母に教わったおまじないだ。

 母は、美しい人だった。濡れたような黒髪、漆黒の瞳、澄んだ白い肌。甘い香りを常にまとっていた母が、いたずらっ子のようにはにかんで教えてくれた。

『紗江ちゃん。お月様が出た夜は、お庭で紅茶を飲もうね。お月様を映し込んだ紅茶に、はちみつを入れて、スプーンで月影と一緒に紅茶に溶かすの。それを飲むとね……お月様の力があなたの体を綺麗にしてくれるわ。』

 ふふ、とほほ笑んだ母の輝いた瞳はとても愛らしく、彼女のような女性になりたいと思っていた。

 紗江は、ワイングラスを揺らして月影を溶かす。

「まあ、紅茶じゃなくてお酒だけど」

 ストレスを発散するためには、紅茶よりも酒の方が効果的だった。

 母のおまじないは、所詮おまじないに過ぎない。それに毎夜飲み下す酒も、月影を落としこめば、どこか清いものになる気がした。

 ほんのりと暖かかい、春の夜。月夜に酒を楽しむには、ちょうど良い気温だ。

 黄みを帯びた白い光が、闇に沈んだ世界を見下ろしている。

 肩口にかけたショールをかけなおし、いつもと変わらない空を見上げた時、紗江は眉を上げた。

 完全な月の中に、ぽつりと、黒い染みが浮かんだ。

「……」

 紗江はとりあえず、ワイングラスに口をつける。

 こくりと、ワインを飲み下している間に、月の中に浮かび上がった黒い染みは、その大きさを変えた。

 紗江はぽかんと口を開く。

 黒い染みの形が変わる。点は徐々に翼を広げた鳥のような形を取り、更に十字架のような形に伸びた。大きさは確実に巨大化している。

影は、布が揺れているようにうごめいていた。縦に伸びた線の形は──まるで人影だ。

月光を背に受けた、漆黒の影は、確実にこちらへ向かって来ていた。

「……人……の、はずない」

 人が空を飛べるはずが無い。紗江は無理やり視線を外した。もう一度見れば影なんて消え失せているに違いない。

 ──けれどもし、影が大きくなっていたら?

 そんな言葉が脳裏をかすめた時、紗江の指先は血の気を失った。

 布がはためく音が──鮮明に聞こえる。まるで、コートが風に揺れているような音が、すぐ傍で聞こえた。

「う……」

 視線が上げられない。耳が拾う生々しい音を信じられず、グラスを机の上に置く。

 かつん、と固い音が聞こえた。

「……」

 俯いた視界の端に、黒い影が入り込んだ。ベランダの手すりに見えたのは、漆黒の革靴。いいえ、そんなあり得ない――。

 頭では否定しながらも、心臓の音が乱れる。紗江は、恐る恐る、視線を上げた。

 そして唇から、空気が抜けるような音が漏れた。

「へ……?」

 手すりの上に、重力を感じさせない安定感で、人間が立っていた。月の光が強すぎて、顔が見えない。影は、首を傾げた。首を傾げると、月明かりが影の輪郭を明瞭にした。

 同い年くらいだろうか。銀色の髪。水色の瞳。高い鼻筋。陶器を彷彿とさせる白い肌。二階のベランダに届きそうな身長。ベランダの手すりから降りても、きっと紗江よりも十二分に背が高いだろう。

 生ぬるい風が、男の背後から吹き上がる。

「わ……っ」

 どこから入りまじったのか、水滴が風に乗って額を打った。思わず目を閉ざした紗江の耳に、低い声音が聞こえた。

「――お前が、ツキノミコ?」

 額についた何かを拭う。指先を見た紗江は、眉根を寄せた。金色の何かが、指先で輝いている。親指でこすり合わせると、指先から淡い光が粒子になって、煌めいた。

「……なあに、これ」

「ツキノシズクが反応した。お前が精霊か。随分齢を食った精霊だな。だからこそ神子なのか?」

 さっきから、意味の分からないことばかり話す男だ。

 紗江は眉根を寄せて、男を見上げる。

 男は、着物のような服を着ていた。着流しと狩衣の袖を合わせたような形だ。白地の布に、金と銀の細かな刺繍が施され、袖口から、だらだらと幾重もの飾り紐が垂れている。男の額には瑠璃色の宝石がついていて、その周りを呪文のような文様が彩っていた。

 ――コスプレ……?

 詳しく知らないけれど、どこかで人気のキャラクターの格好だろうか。

 そう考えると、妙に白けた気分になる。こんな時間に、変質者の相手をしている暇はないのだ。

 紗江は、ちょっと冷たく、見知らぬ男に声をかけた。

「そんなところに立ったら、危ないよ」

 紗江の部屋は、アパートの一階にある。その気になれば、ベランダにもよじ登れた。きっと酔ったか何かで、いつの間にか登ったのだろう。

 ベランダに出た時は誰もいなかったし、よじ登る姿なんて見ていない。更には、明らかに上から舞い降りたような足先を見たところだけれど――そういう事にしておこう。

 男は水色の瞳をわずかに見張る。紗江はあえて視線を逸らし、グラスを持ち上げた。

 ワインをもう一口飲み下すと、一抹の不安がよぎる。大して飲んでいないのに、人間が空から降ってきたように見えるなんて、頭がどうにかなってしまったのだろうか――。

 紗江は、現状を口にしてみる。

「こんな夜中に、コスプレした変質者が不法侵入……」

 ――あり得ない。

 声に出してみると、より一層その異常さを感じた。

 もう一度、視線を上げてみる。ごきゅり、と変な音を立てて、ワインが喉を通り抜けた。

 ――まだ居る。

 男は、手すりの上で微動だにせず、紗江を凝視している。

 そうだ、話が分からないんだわ、と今度は英語で言ってみた。目の前からこの男がいなくなれば、全ては元通りになる――という、根拠のない思い込みのもと、頑張って英語を絞り出す。

「えっと、ゴーアウェイ、プリーズ! アイドンハブエニィマニィ。ドン、バザーミー。アイワナウォッチザムーンライト!」

 とりあえず、しがないOLなので、お金はないと主張しておいた。

 男は眉を上げる。あ、今度は通じたみたい――と、瞳を輝かせたところ、ぐらりと男の体が揺れた。紗江はほっとする。やっと立ち退く気になってくれたのね、と頬をほころばせた紗江の気持ちを裏切り、男はベランダの床へ舞い降りた。

 ふわり、と。まるで体重がないような、軽やかな着地。安いプラスチックの床材は、歩くだけで音を立てる。だが男は、着地だけでなく、一歩、一歩と近づいて来ているにもかかわらず、音が立たなかった。

 紗江は目を見開いた。

「なに……あなた、体重ない……っの……!?」

 言葉の最後で、紗江は息を飲んだ。男は既に目前に迫っており、紗江の手からワイングラスを奪い取った。

「ひゃっ」

 水色の瞳に、剣呑な雰囲気が宿っている。

「……どこかへ行けとは、ご挨拶だな」

「あれ、日本語通じるの?」

 てっきり外国人かと思っちゃったと呟いて、はたと口を閉ざす。よくよく思い出してみれば、最初から、この男は日本語を話していたのだ。割と冷静なつもりだったけれど、かなり混乱しているようだ。

 男は紗江から奪い取ったワインを、一気に煽る。

「ああーっ」

 それは少しお高いワインなのに、一気飲みなんて勿体ない。非難がましい喚き声をあげた紗江に、男はにやりと笑って見せた。

「随分甘い酒がお好みなんだな、月の神子様」

「つ、月の……みこ?」

 本能的に体が縮こまる。男は、紗江の鼻先に触れるほど近くまで顔を寄せ、低く甘い声音で囁いた。

「ああ……やっと見つけた。――お前はこれから、我らのものだ。」

「え、え?」

 どういうこと、と紗江の口が言葉を紡ぐや否や、筋肉質な腕が二の腕を強引に掴みあげた。体が椅子から持ち上がるほど強引に引っ張られ、痛みに声が上がった。

「いぁ……っ」

「良い声だな」

「はな、離して! 引っ張らないで……っ」

 絶対に手放さないという、強い意志を感じる。筋肉なんてお愛想程度しかついていない、紗江の細腕では、抵抗らしい抵抗もできなかった。腰にもう一方の腕が回って、抱き上げられる。男の腕は力強く、もがいているが、まったく意味がなさそうだ。

 逃げられないなら、せめて携帯電話で警察を呼びたい。机の上に携帯電話を置いていなかっただろうか、と視線を落とした紗江は、びくん、と体を跳ね上げさせた。

「……な……っ!?」

 地面が、そこにはなかった。

 安物のプラスチックの床も、草が生えた大地も、無い。

 そこにあるのは――漆黒の闇。

 何かの間違いだと、目を凝らすと、明かりが見えた。さっきまで自分がいたベランダが、遥か下方にある。

 紗江を横抱きにした男は、面白そうに笑った。

「離していいのか? 今、手を離せば、お前はただの肉塊になるぞ」

 確かに手を離されると、地面に激突して、潰れる。紗江は、思わず男にしがみついた。男は喉の奥でくつくつと笑っている。

「そうそう。最初からそうやって素直になれば良いんだ。俺と一緒に来たいよな?」

「え? うわっ」

 大事なものを扱う手つきで、紗江を腕の中に抱え直す。目の前で微笑む男を呆然と見上げ、紗江は震える手のひらを握りこんだ。

「えっと……なに……? どういう――」

 ――状況なの?

 宙に浮いている。男に抱えられて。混乱する。人間は空を飛べない。

 男は、腕の中の紗江を、満足げに見下ろした。

「思ったより、老けていないな。肌が綺麗だ、うん。ツキノシズクを浴びせれば、もっと艶が出るだろう。ようやく俺も、ツキノミコを手に入れられた」

「…………?」

 ──何を言っているのだろう、この人。

 『ツキノシズク』だの、『ツキノミコ』だのと、聞き慣れない単語ばかりだ。

紗江は、「あれ?」と顎に指先を引っかけた。

 ――『ツキノシズク』――『月の滴』?

 記憶の端に引っ掛かるものがあった。紗江は、それらの言葉を聞いたことがあった。

 どのおとぎ話だったろうか。

 母は、おとぎ話が大好きだった。夜ごと繰り返される不思議な話は、無数に溢れ、子供の記憶では、整理しきれないほど。それらは、記憶の中で混ざり、混沌としている。

 まあ、思い出したところで、詮無いことだ。紗江は細く息を吐き出す。

「夢の中で真剣に考えたって、意味ないものね……」

 紗江は今現在、見知らぬ男に抱えられて、空を飛んでいた。非現実的な状況は、夢として納得することにする。

 自分を抱いている男が、見下ろしてくる。水色の瞳は不満に満ちていた。

「夢じゃねえ」

 紗江は口をとがらせる。――認めがたい。

「納得できないわ。だって、人は空を飛ばないもの」

 男は目を座らせた。

「俺は特別なんだ。そしてお前も、特別なんだ」

 なんという超理論……。

「私は特別じゃありません!」

 突っ込みどころはあったものの、状況を打破するべく、拳を握って力強く宣言してみる。しかし、男は鼻で笑った。

「そんなに『月の力』を満たした体して、よく言うぜ。あーあ。しかし、どうせなら反論もできねえガキなら良かったんだがなあ。こんなに齢食ってちゃあ、素直じゃなくて面倒だぜ」

「わ、私、まだ二十一歳だよ……?」

 社会人になりたての、とってもフレッシュなお年頃だと主張すると、男はひどく落胆した。

「ああ~やっぱりなあ。せめて十代だったらなあ。」

「なによ、幼児性愛病者なの?」

 彼は間髪入れず、返答する。

「そんなわけねえだろうが。月の精霊ってのは、幼い人間がなるもんで、お前みたいな歳食ったやつが、まだ精霊のままでいるっつーのが異常なんだよ」

「……意味が分からない……」

 紗江はぼんやりと、視線を下へ向ける。テレビや映画でよく見る、上空からの見事な夜景が広がっていた。昔から、ややこしそうな内容を聞かされると、集中力が消え失せる。ついでに、やる気もなくなる。――勉強は、嫌いだ。

 男は紗江の変化に気付かず、前方に視線を向けたまま、口を開く。

「……お前たち『月の精霊』は、こっち側で月光を浴びて作られる」

「……」

 説明をしてくれるようだ。そして、長くなりそうだ。――無言をどう解釈したのか、男は言葉をつづける。

「人間の体に月の力を溜めるのはすごく大変だ。毎月、満月の光を浴びなくちゃいけない。それも、何年間も続けないといけない。上手くいくと、十一、二年で月の力が満ちるが、こっち側の月は、毎日出るものじゃない。雨の日もあれば曇りの日もある。そうして月の光を浴びない月が増えると、溜まった月の力が、消えていく」

 案外、理解できた。

 月が好きな人間は割といる。満月の光だけなら、意外にたくさんの人が見ていそうなものだ。

 紗江は首を傾げる。

「それくらいの条件なら、その、『月の精霊』?というのは、結構いそうだね」

 男はこともなげに頷いた。

「あたりまえだ。月の精霊は、順次生産されなくちゃいけない。俺の国では、お前たち月の精霊が作る『結晶』と、『光の恵み』がないと困るんだからな」

 またも意味が分からない言葉が繰り返されたが、説明を聞くのも面倒なので、もっとも重要であろう部分を尋ねる。

「……こんな風に、勝手にさらわれたら、行方不明者が続出だね」

「そんなわけあるか。月の精霊が珍しくはないとはいえ、見つけられるのは数年に一人だ。運が悪いと、数十年見つけられなかったりする。『り人』の人数にも限りがあるし、探せる範囲は広大じゃない」

「……ふうん」

 また知らない単語が出たが、同じく聞き流した。

 連れ去られる人が、数年に一名なら、確かに行方不明者がいても不思議はない。

 理解できたような、できなかったような、不完全燃焼な感じだ。でも聞き返すのもなんだし、と風で乱れた髪を耳にかけなおすと、頭上で溜息を吐かれた。

「だから、要するに……『月の精霊』は、満月の光をたっぷり浴びて、月の力を体の中に溜めた人間のことだ。お前はこっちの世界じゃただの人だけど、向こうに行くと奇跡を与えられる。向こうは『月の力』が強いから」

 どうやら分かっていないと気付かれたらしい。聞き返すまでもなく、説明を続けてくれる。

「……『月の力』っていうのは、お前たちの世界で言うところの魔法だ。魔法はお前たちの世界なら、何も無いところから起こす奇跡だが、俺達の世界では、月光の加護を受けないと使えない。向こうの人間は大体、魔法を使えるが、魔法を使うときにお前たち精霊が助けてくれると、物凄く力が増すんだ。だからみんな、精霊が欲しい」

「魔法かあ……」

 昔から聞かされてきた、おとぎ話の影響だろうか。やはり自分は、夢を見ているらしい。

 男の瞳に、丸い月が映り込んだ。

「俺の国に戻ったら、月の滴でお前を浄化する。浄化されたら、お前たち精霊は、三国の各地で可能な範囲内の恵みを与える。精霊ごとに力の強さが違うから、どれだけ助けられるかはまだ分からないが。」

「……」

 男は紗江を見下ろすと、綺麗な水色の瞳を細めて、やんわりと笑った。

「まあ稀に力が強い奴が出ると、争奪戦がすごい。そういう強い奴が、国政の人間に選ばれると、月の結晶をつくって大地を清浄に保つ仕事を受けたりする。……それ以外も、受ける」

 彼が言っている内容は、やっぱり、今一つ理解できなかった。

 紗江は瞬きをして、目的地を尋ねた。

「どこに行くの?」

「月」

「ん?」

 男は、空に浮かんだ、煌々と輝く月を見上げる。紗江は片眉を下げ、若干申し訳なく思いつつ、否定の言葉を吐き出した。

「あの……月は、現代では解明されつくしてて……。あの月は、光を反射するだけの不毛の地で、生物なんて存在しないし、私は人間だから……空気のない宇宙空間に連れて行かれると、確実に数分で死んじゃうんだけど……」

 男は、心の底から馬鹿にしたような顔つきで紗江を見下ろし、口元を歪めた。

「誰がお前の言う月になんかいくか。俺の言っている月は、ここに映り込んだ月の中だ」

 『ここ?』と呟いた時、目の前に膜が張った気がした。

 はっと正面を見る。はるか上空に見えていたはずの月が、目の前にある。視界に映しこめないほどの、巨大な満月が、濃紺の夜空に生まれた。膜だと思えたのは、その表面が、少し揺れているから。

「……え?」

 紗江は、背後を振り返った。

 月に向かっているとばかり思っていた、紗江は目を見開く。闇夜のずっと高い場所に、もう一つ、月が輝いていた。

「月が……」

 二つ──?

 呟く言葉は、闇色の膜の中に飲み込まれた。

 膜が揺れる。とぷりと水音を立てて、膜は紗江の体を飲み込んだ。

 闇夜に浮かぶ膜は、しばらく揺れた後、また元の正常な闇夜へと姿をなじませ、溶け消えた。


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