第一章 穂村正志 (1)
いつもと同じ時間に会社に着き、あまり多くはない社員のデスクの間を抜け、何事もなく自分のデスクに座る。僕の名前は穗村正志、二十五歳。入社三年目。
この小さな会社に入ったのにも特に大きな理由は無い。ただたまたま運が良く就職活動で内定が通っただけだ。そんな会社だから、愛着など一つもない。
特に給料が高いわけでも、親しい人間が居るわけでもない。ただ自分の最低限の生活を維持するために通っている。仕事は楽しいかと聞かれれば、絶対に首を縦に振ることは無いだろう。自分がやりたかった仕事ではない。だが、自分がやりたかった仕事は何かと聞かれても、今の僕に答えることはできない。
本当はこの現状から抜け出したいと心のどこかで思っている。かといって、他にやることがあるのかと言えば、何もないのだからどうしようもない。
ただ与えられた二十四時間を消費するだけの毎日。昔は絵を描くのが好きで、画家を目指していた頃もあったのに、もう数年間筆をとっていない。
他人からの評価と言えば、「暗い」とか「つまらない」などと陰口を叩かれるくらいだ。付き合いが悪く、極力人と関わらないようにしているのだから、当然だ。
背は低くないはずだが、猫背なのが余計そのような印象を与えるのだろう。散髪にもしばらくいっていない。僕は邪魔な前髪を指で横にどけるとデスクの上の仕事に取り掛かる。すると間もなく、後ろから粘っこい声が聞こえてきた。
「穗村君、またそんな顔をして。君のおかげでこの部屋の空気はいつも濁っているよ。まったくありがたいことだね」
いつものように始まる課長の文句。彼のストレス解消のターゲットにされた僕は毎日のように彼の執拗な言葉の嫌がらせを受けている。
他の社員は自分に矛先が向かないように、遠巻きに僕と課長の関係を見ているだけだ。だが僕はそれを甘んじて受け入れる。誰かに助けてもらおうとは思わないし、誰も僕のような人間を助けようとはしないだろう。課長のサンドバックに優しくするようなお人好しはここにはいない。
「すみません」
僕は愛想笑い一つ浮かべずに答える。それが気に障ったのか課長は僕の机の上に書類の束を乱暴に叩きつけた。
「それ今日中にやっといてね。給料泥棒とは違うってところを見せてほしいよ」
そこまで言うと、課長は満足したのか、ふんと鼻息を鳴らして自分のデスクに戻って行った。
いつからだろう、過ぎていく毎日が色を失ってしまったのは。脳に焼きつくような鮮明な記憶が最後に残ったのはいつだったのか、それさえも思い出せない。
大人になるということは、こういうことだったろうか。
僕には、もう分からない。




