さよならくるくる(改訂版)
――パチンっ!
夢現で聞いたのは、幻聴か、現実か。
僕は寝返りをうって、再びシーツの海に沈み込んだ。
休日だけれど、早めに起きることにした。
妻の配慮だろう、遮光ではないカーテンは閉じられたままだったが、強すぎる夏の日差しは早朝から容赦なくカーテンを突き抜けて差し込んでくるし、なにより僕の安眠を妨害する一番の原因は暑さである。暑い、とにかく暑すぎる。今年の夏は去年よりも涼しいと、ニュースで爽やかな笑顔の女性アナウンサーが言っていた記憶があるが、うそだろうと思うくらい暑い。窓を開けているのに限りなく無風で、どれだけ窓を開け放っても入ってくるのは蚊くらいなものだ。
お腹にかけてあったタオルケットを畳んでダブルベッドの端に置き、床に足をつける。湿気で少しぺたっとしているものの、今日触れた中で確実に冷たい部類に入るフローリングが、足裏を伝って体の熱を吸い取ってくれるのが心地よかった。
「おはよ……」
昨夜の暑さのせいで、大量に出た寝汗でぺたりと身体に張りついたパジャマをつまんで剥がしながら、妻と娘のいるリビングに入った。妻はちょうど朝食を作り終わったとこらしく、対面型のキッチンで娘の様子を見ながら、フライパンを洗っている。一方、目に入れても痛くない愛娘は、ダイニングのベビーチェアに座り、右手にお気に入りのスプーンを握って、今か今かと朝食が出てくるのを待ち構えている。
「おはよー。早く着替えて……きゃあぁっ!」
「んなっ、何!?」
僕を見た妻の笑顔が引きつり、悲鳴が朝のリビングに木霊する。不意打ちのような高音の叫び声に、寝起きでまだ頭がはっきりしていない僕は、おもわずその場で小さく飛び上がってしまった。
「かっ、顔、血が出てるっ!」
濡れた手をエプロンで拭いながら走り寄ってきた妻が、泣きそうな顔で僕の頬に恐る恐る指を近づける。
「え、どこ? 全然痛くないんだけど」
そっと触れてきた指は、きちんと水気を拭き取れなかったのか、少し濡れて冷たかった。妻の細い指が、血がついているらしい部分を上下するが、おかしなことに痛みも引っ掛かりも感じられない。それは妻も同じようで、泣きそうだった顔はいつのまにか、不思議そうに眉を寄せ首を傾げていた。
「……血がついてるだけ、みたい……」
納得いかない、とありありと顔に書いてある妻は、それでも本当に傷がないのかを入念に確認するように、まだ頬を触っている。自分でも妻が触っている位置に手を伸ばすが、なるほど、どこにも傷らしき感触はしない。ついでに言うならば、痛みも何もない。ただいつもどおり、傷のない肌があるだけだ。昨日、怪我をしたような覚えもなければ、髭を剃るときに傷をつけた記憶もないから、当然といえば当然かもしれない。
「えぇ? 昨日、誰か怪我した?」
「ううん。あーちゃんだって、怪我なんてしてないはずよ……」
妻が首を振って否定すれば、必然的に残るのは娘だった。ベビーチェアに座って、朝食を食べる気満々でスプーンを握った娘の方に近寄り、二人で小さな体を隈無く点検していく。
前髪をめくっておでこまでしっかり見たが、顔には何もない。そのまま首、肩、腕、と順番に下りていき、しっかりと握っていたスプーンを放させて、僕は紅葉のような手のひらを見た。
「あ」
スプーンを握っていた右手の中央に、既に乾いた赤黒い血がこびりついていた。
「やだっ、いつ怪我したの!?」
それを見た妻が顔を青くして、小さな手のひらに顔を近付ける。傷がないか、目を皿のようにして、その手を見つめている。
「……あれ? 何この黒いの」
「え?」
「これ」
不意に真剣に点検していた妻がそう言って、指差された先にあったのは、手のひらの乾いた血の真ん中の黒い点。
よくよく見てみると、足があって、羽もあって、黒と白のしましまで。それは、ぺちゃりと潰れた……。
「これは……蚊、だな」
「……あーちゃん、パパのお顔、パチンしたの?」
すっかり拍子抜けした声しか出ない僕らが娘の顔を見ると、娘は訳がわからないとでも言うように僕と妻の顔を交互に見た後、かわいらしく首をかしげた。どうやらこの小さな娘が、蚊の被害から僕を見事に守ってくれていたらしい。
この際、この血が誰のかということを、気にするのはやめることにした。
その後、娘の手のひらと僕の頬を、少しぬるい水で洗い流した。
娘によって見事昇天した蚊は、くるくると渦をつくる水と一緒に、排水溝へと吸い込まれた。
三題噺として作成したものに、手を加えたものです。
題:パチ(パチンコ)、昇天、昨夜