行方不明
村から逃げた時、まだ春だったけれど、もう季節は夏になっている。
「あついねぇ」
斎木さんをいつも通り仕事に見送って、ダイヤと二人きり。いや、一人と一匹になる。以前までは斎木さんが仕事帰りに食材を買ってきてくれていたが、最近はお金をもらって、自分で買いに行っているのだが、流石に暑すぎる。
「暑すぎるよね、ダイヤ」
にゃあ、と同意するようにダイヤが鳴く。太陽が沈んでも、二十八度もある。村は割と涼しいところにあったから、東京というのはここまで暑いなんて想定外だ。クーラーをつけているのに、心なしかまだ暑い。外に出るのが億劫すぎる。昨日買った食材が残っているから、それで今日のご飯は作ろう。
「なにがいいかな」
ダイヤを膝にのせて、ソファで料理本を捲る。暑いから、さっぱりしたものがいい。卵とハムがあるから、冷やし中華にでもしようか。この前作ったら、美味しいと言ってくれたし。タレをアレンジできるらしく、そのページに目を通す。
「ごま油入れるんだって」
喉を撫でてあげれば、ゴロゴロと嬉しそうに鳴く。最初は怒っているのかと思ったが、斎木さんに聞いたら喜んでいるときの声らしい。いっぱい喉を撫でてあげれば、満足したのかまた膝の上で丸くなった。
村の宗教がニュースになってから二か月。ニュースは未だに、その話題で持ちきりだった。世間が思っていたより、危ない宗教だったらしい。
ニュースをつけると、夜のニュースが始まっている、明日の気温を知りたいところではあったが、案の定トップニュースは俺がいた村の話だ。捜査が始まって二か月経ち、村に住んでいる子供たちの生活が明らかになってきたらしい。ほとんどの子供が戸籍がなく、食事が質素で栄養が足りていない可能性がある旨をアナウンサーが読み上げている。
「まぁ、確かに」
最近、自分のお腹、太もも辺りに肉がついてきた。最初のころは俺の膝に載っても不満そうにソファに移動していたダイヤも最近では俺の膝の上にずっといる。
「子供たちはどうやって生きてくのかって言う話ですよね。学校にも通わせてもらえていない子が、働くなんて難しいですし」
「そもそも戸籍が無いって、どうするんでしょう」
テレビの中では、綺麗なスーツを着た人たちが話している。うるさい。助ける気なんて大してない癖に。消してもいいのに、斎木さんがいないと部屋が静かで、とりあえずつけっぱなしにしたまま料理本に目を戻す。
「また、村にいる人が一名行方不明になっていることが発表されました。名前は、清原真紀さん。十八歳で、背丈は百七十センチほど。捜査開始時の一か月前から行方不明になっており、未だ見つからないことから情報の公開が」
「え、」
なんとなく聞き流しながら、マヨネーズを使うアレンジを読んでいたけれど、違和感を得てテレビに目を向ける。そこには俺の顔写真と、俺の名前が表示されていた。写真は確か、十五の時に、一度大人が来た時に撮られたやつだ。あれ以外で写真を撮られたことなどない。
「なんで、」
行方不明だなんて。違う。俺は逃げたのに。あの、誰も助けてくれない、奉仕ができない人間はいらないとされる村から、逃げたのに。俺のことを、誰も知らないところまで、幸せになるために、逃げたのに。
行方不明ということは、探されているのだろう。誰が、何のために。また村に戻されてしまうのだろうか。膝の上で寝ているダイヤを思わず抱っこして、強く抱きしめる。起こされたことに不満そうな鳴き声だったけれど、俺が泣きそうなことに気が付いたのか、優しく俺の頬にすり寄ってくれる。
結局、頭がうまく回らず、特にアレンジを加えることもなく普通の冷やし中華を作って、並べ終わるのと同時に斎木さんがドアを開ける音が聞こえた。
「斎木さん、」
「ただいま。……どうした、顔真っ白だぞ」
「その、なんか、探されてて、」
そんな、一目見てわかるほど血の気が引いた顔をしているのだろうか。斎木さんが帰ってきたら、行方不明だとニュースで言われていたことを伝えなくちゃ、と思っていたのに、いざとなると頭が上手く回らない。そんな俺を見かねた斎木さんがソファまで手を引いてくれた。
「それで、何があった? 」
「夜のニュースに、俺の顔映ってて、名前も、行方不明らしくて、」
「行方不明だって、真紀がニュースで言われてたのか?」
「俺、逃げたくて逃げただけなのに、」
「あぁ、知ってる」
斎木さんはそう言って、俺の目を見て頷くと、スマホで何かを調べ始めた。スマホなんて村になかったし、今も持っていないから、未だに見慣れておらず、斎木さんが操作する画面もどこを見ていいのかわからない。
「これか」
斎木さんがそう呟いた時、スマホの画面には俺の顔と名前が映っていた。
「これ、です」
「……信者は外部の人との接触が禁止だったせいで、捜査開始と同時にお前の親が子供が行方不明だと言ったらしい。二か月経っても行方が分からないから、多分、テレビとかこういうネットニュースで情報が公開されたんだ」
「……俺、もう十八ですよ」
「だな。本来ならあまり問題にならないだろうが、特殊な事情だから」
スマホの画面には十五の時の俺の顔と、「清原真紀」の名前。どうすればいいんだろうか。村に戻らないと、また罰を受けるのだろうか。見つからなければ、大丈夫なのだろうか。あの、雨の中話しかけてきた怖い景観が何人も、俺のことを探しているのだろうか。
「真紀は、逃げてきて、俺と今暮らしてるだろ」
「はい、」
「戻りたい?村に」
「え、」
村。好きな本も読めず、好きなものも食べられるず、大人の言うことを聞かないと罰を受け、何も、何も許されなかった。逃げなくちゃと思っていたけれど、逃げて、どれだけあの村がおかしかったのか分かった。あんな場所に、戻りたいわけがない。でも、戻らないと斎木さんに迷惑をかけてしまうのだろうか、
「戻りたく、ない、です」
「なら、このまま暮らそう。大丈夫だ、俺がどうにかするから」
ポン、と一度軽く俺の頭を撫でると、斎木さんは優しく笑った。ご飯を食べ終わったらしいダイヤがにゃあ、と鳴き声と共にソファに上り、俺の膝に乗った。
「ほら、ダイヤもいてほしいってよ」
それに相槌を打つようにまた、にゃあと鳴く。なんだか安心して、ぽろぽろ涙が出来て、ダイヤがその涙をそっと舐めてくれた。
「斎木さんには、迷惑じゃないですか」
「迷惑なわけないだろ。ダイヤの面倒も見てくれ助かってるし、ずっといてほしいと思ってるよ」
「なら、よかったです」
「むしろ、家事全部やってもらっちゃってて申し訳ないし。今度良い洗濯機買うか」
「良い洗濯機? どの家もあの洗濯機じゃないんですか」
「いや、いろんな種類があるんだよ。今は、わざわざ干してるだろ?」
「はい、そうですね」
なんなら村では、寒い日も暑い日も外で手で洗って、干していた。洗うところを機械がやってくれるというだけですごいのに、まさか
「乾かすところまでやってくれるのがあるんだよ」
「すごい、なんでもあるんですね……」
「今度見に行ってみるか。電気屋にでも」
「電気屋さん、ですか」
「まだスーパーしか連れていけてないからな。もうちょっとしたら落ち着くから、そうしたら行こう」
電気屋さん、という響きはよくわからないけれど。多分、いろんな種類の洗濯機が売っているんだろうと想像して、とりあえず頷く。漸く、ご飯を食べようとしたら冷やし中華が汁を吸いきってしまっていた。