Case1:ハイドランジアの微笑3
時代劇の中で見たな、と感じるような表門の前までたどり着くと、中年の使用人――今時その表現もどうかと思うが――が出迎えてくれた。
「江角巡査部長でいらっしゃいますか」
「はい、そうです。こちらは特別協力人の春木です。一緒に捜査を担当します」
声をかけられて敬語で対応する江角に早くも春木は笑いをこらえていた。笑ってんじゃねーよ、との意味を込めて江角は春木を小突く。
「それはそれはどうもご苦労様でございます。わたくし案内を任されたました奥田と申します。奥で旦那様がお待ちでございますので、どうぞお入りください」
春木の家の本堂部分ほどあろうかという広大なリビングスペースに通されて、江角は今更ながら緊張してきた。隣の春木はといえば、のんびりと出された茶に口をつけている。公務員である江角は、すっかり出されたものに手を付けない習慣が身についていた。
「よく飲めるな……」
「ん? まあ、慣れてるからね」
幼少期から春木は自身の父とともに棚経で他人の家に行くことに慣れている。当時から檀家は高齢化が進んでおり、各家々で孫のように春木は歓待されて、それをそつなく受け取ることに長けていた。当然江角も同じ地域で育っているため、似たような扱いを受けているが、春木の比ではない。
「お待たせしてすみません、連絡いたしました中原と申します。今日はご足労いただきありがとうございます」
江角が落ち着きなく待っていると、家の奥から一人の男性がやってきた。大地主だということから勝手に年配男性を想像していたが、中原と名乗った男は四十代前後に見えた。
「こちらこそ、お気遣いいただきありがとうございました。UPIの江角と申します。こちらは特別協力人の春木です」
「春木です。一介の僧侶でございますが、このたびはよろしくお願いいたします」
二人で名刺を渡して頭を下げると、中原は「それは心強い限りです」と言って、恐縮したように頭を下げた。江角は春木に法衣を着せてきてよかった。と心の底から思った。
大きい事業を手がけ、財をなした人間は腰が低いことが多いが、中原も多分に漏れず謙虚だった。
「それで、さっそくではありますが、例の紫陽花はどちらに」
「はい。ご案内します」
中原は汗を拭きながら、家の奥に案内した。家に入るまでもたくさんの花が植えられているのを見ていたので、てっきり玄関の方へ戻るのだと思っていた二人は拍子抜けした。
中原を先頭に、くれ縁を歩いていく。ガラス戸越しに外の庭が見える。こちらもきちんと庭師を呼んで手入れしているのだろう。伸び放題になっている草木はないように見え、池の中も澄んでいるように見えた。
「あれだそうです」
中原はそう言って庭の隅にひっそりと植わっている紫陽花を指さした。他は庭師によって手を入れられているのに、紫陽花が植えられている部分だけややちぐはぐな印象を受けた。
じっと紫陽花を見るが、残念ながら江角の目には普通の青い紫陽花に見えた。
「……あの、つかぬことをお伺いしますが、中原さんご自身にはあの紫陽花が赤くは見えていないのですか」
伝聞形式で表現されたことに引っかかった江角が訊ねる。中原は「はい」と肯定した。
「ではどなたが」
「私の妻です。今日は体調が悪いので失礼させていただきましたが、このところずっとあの紫陽花を見ては……こう、気味悪がる、というよりは怯える、というのが近いような状態でして。その怯え方が尋常ではないので、ご相談をさせていただきました。昨年までは何事もなく、見ていたと思うのですが」
「そうですか……」
うーん、と江角は考える。昨年までは何事もなかったということは、この一年で中原家に起きた何らかの変化が原因であると考えられるが、それを考えるには材料が少なすぎる。江角は考察材料を集めるべく中原に訊ねた。
「奥様のほかに赤く見えると言っていた方はいらっしゃいませんでしたか。どなたでも構いません」
その問いかけに中原は腕組みをしながらしばらく頭をひねっていたが、「そういえば」とつぶやいた。
「以前うちに住んでいた親戚の女性と、ハウスキーパーとして雇っていた夫妻の女性も同じように赤く見えると怯えていたことがありました。彼女たちの夫には私と同じように青く見えていたようですが」
「なるほど」
となると女性に関係する何かだろうか、と江角は考察を進め――春木の見立てをうかがおうかと後ろを振り返った。
「春木からはどう見える?」
「うん、私には赤く見える。女性に関係するなにかだろうって推測してた江角くんには悪いけど」
春木の言葉の中身よりも〝江角くん〟と呼ばれたことに鳥肌が立つ。人前であだ名で呼ぶのはやめろと言ったが、あだ名で呼ばれた方がまだいいかもしれない。江角が内心真剣に検討をしていると春木が中原に向かって口を開いた。
「私からも一つよろしいでしょうか」
「もちろんです」
「昨年から今年にかけて何かこの家で変化したことはありませんか。間取りを変えたとか、庭の石を動かしたとか、ご不幸ごとがあったとか。何でも構いません」
春木が〝ご不幸ごと〟と口にした瞬間、中原の顔がこわばるのを江角は見逃さなかった。伊達に警察官として働いているわけではない。
「どなたか、お亡くなりになったのですね」
江角が確認すれば、中原は素直に肯定した。
「……はい。ただ、それ以上はご容赦いただけませんか」
中原がそう言うのを聞いて、そこから先を春木が引き取った。改めてスカジャンではなく、法衣で連れてきてよかったと江角は思う。
「ええ、お話されるのはおつらいですね。ただ、私でよければいつでもお話を聞きます」
宗派が違っても死者を悼み、供養するのは私ども坊主でございますから、と春木は自身が若住職を務める寺の方の名刺を中原に渡した。
「これはどうも」
「いえいえ。遠くはございませんし、いつでもご連絡ください。お話することで少しでも心が軽くなるなら何よりですよ」
にこやかな菩薩スマイルで対応する春木に江角は内心、うさんくせえ、と思っていたが、誰かを亡くした人相手には春木のこの顔と言葉がよく効くのだろう。中原はかなり感激した様子であり、演技だとは到底思えなかった。
ふとその場にスマホの着信音が響いた。どうやら中原のもののようで、彼は「ちょっと失礼します。すみません少々お待ちください」と言ってその場を離れた。
「たいちゃん」
「なんだ?」
中原の足音が遠のいてから、春木が声を潜めて江角を呼んだ。
「あの紫陽花、本当に赤いだけかな」
「オレには見えねえからなんともわからんが」
「私には、紫陽花の花……あ、正確には萼か。それから赤い液体が滴り落ちているように見える」
「……ますますわかんなくなったな」
中原の妻をはじめとするこの家にいた女性は赤い紫陽花を見て怯えていたと言う。ここまではいい。彼女たちに何かしら共通点があるのだろうと推測できるが、問題は春木である。
春木は男性であるにも関わらず、紫陽花が赤く見えると言い、女性たちよりもグロテスクな様相が見えているらしい。
「利生、一応訊いておくが」
「何訊かれるかわかったから先に言うけど、正真正銘男だからね。たいちゃんもよく知ってるでしょ。何回一緒に風呂入ったと思ってんの?」
「だよな」
さすがにないか、と己の思考の短絡さを江角は恥じた。そんな江角を見ながら、春木は静かに口を開いた。
「私にはひとつ、思い当たることがあるんだけど……中原さん自身も言いたくなさそうだったからどうしたものかなあ」
「思い当たることって?」
江角が訊ねると、春木は逡巡していたが、腹をくくったのだろう。ぐっと声の大きさとトーンを落として言った。
「――水子供養」
「あ」
不幸ごとがあったこと、中原の妻が体調を崩していること、春木以外に見えていたのはみな女性であったこと、そして春木に見える理由。
それら四つがつながる要素が水子供養だった。
「私も先日供養したばかりだったんだよ。あ、私の、という意味ではなくて」
「わかってるよ。寺の仕事だろ」
ただ、可能性としてはかなり高いだろう、という結論を出したところで、中原が戻ってきた。仕事が入ったので、今日はここまでにしてほしい、と言う彼に江角と春木は是と返事をした。
「後日改めてお伺いするかと思いますが、その時はまたよろしくお願いいたします」
「はい、もちろんです。今日はお呼び立てしたにも関わらず、中途半端になってしまい申し訳ございませんでした」
中原は使用人である奥田を呼ぶと、江角と春木を表門まで送るよう指示をした。一瞬奥田に、家の事情を訊ねることも考えたが、この男が簡単に口を割るようにはどうしても思えず、おとなしく表門まで案内してもらうことにする。
「本日はありがとうございました。またお待ちしております」
「いえ、こちらこそ。何か変化があったり、気になることがあったりしたら、遠慮なくご連絡ください」
そう言った江角に奥田は深く頭を下げた。
江角と春木は無言のまま車に戻る。核心をつかむだけの根拠がないことがもどかしい、と江角は思った。