Case1:ハイドランジアの微笑2
翌日。
早速春木に連絡をするはめになり、江角は悪態をつきながら再び約八十段の石段踏破をさせられていた。なお、春木の家(並びに江角の実家がある場所)はS県の県庁所在地であるM市の端に位置するため、県警本部から車で三十分ほどかかる。
春木の家は基本的に人がいる時間は鍵がかけられていないため、勝手口の方から「入るぞー」と言って引き戸を開ける。開けた先で私服の春木に「たいちゃんいらっしゃい」と出迎えられ、江角は閉口した。
大変残念なことに昔から春木には私服のセンスがなく、制服をずっと着ていた方がマシ、法衣を着ていた方がマシ、私服全部ジャージに統一しろ、と言われ続けてもうすぐ四半世紀である。
「……おい」
「なに?」
「オマエ、オマエな、ほんと、その私服センスどうにかならねーのか」
指摘するのは春木が着ているスカジャンである。まず見た目が暑そうであることには目をつぶる。次に、背中に堂々と普賢菩薩を背負っているのはいい。いいが、今の春木は剃髪したうえ、細い金属フレームの丸眼鏡をかけており、一見するとヤクザものである。頼むから己の見た目を考えた上で私服を選んでくれ、と出かかった言葉を江角が飲みこめたのは奇跡に近い。
「? かっこいいでしょ?」
「いやそもそもここの本尊は普賢菩薩じゃねえだろうが! それと坊主頭でスカジャン着てるとヤクザもんにしか見えねーんだよ! オレの職業を考えろオレの職業を」
一気に言い切った江角に春木はにやにやとしながら答えた。
「不良警官ね」
「違えよ! 真面目な警察官だっつの! オレが不良警官ならオマエは生臭坊主じゃねえか」
「あ、いいのかな、そんなこと言って。国屋さんにチクってやろ」
「クソッ、卑怯だぞ!」
UPIの組織長が交代した際には各地の寺院および神社に伝えられるため、国屋の名前は誰もが知っている。上司に変な言いがかりを伝えられるのも困るため、江角は大きく深呼吸をして、怒りを鎮める。
「とにかくスカジャンはやめて、せめて作務衣にしてくれ。話を聞きに行く相手はオマエのとこの檀家じゃねーんだ」
「仕方ないなあ」
たいちゃんの横で浮かない服を選んだつもりだったのに、とさらに付け加えられ、江角は「いつか覚えてろよこの野郎」と呻くことしかできなかった。
――クソッ、こっちが下手に出ているからって調子に乗りやがって。
「ふーん、真っ赤な紫陽花ね。変なの」
スカジャンから法衣――見た目のはったりが利くためである――に着替えさせ、移動用の車に乗せたのち、江角が担当することになった事件概要を説明したあとの第一声である。
通常紫陽花の色は植えられている土壌のpHによって決まる。酸性であれば青色になり、塩基性であれば赤紫になる。なお白い紫陽花はそもそも色素であるアントシアニンを持たないため土壌に関係なく白くなる。
そしていくら赤みを帯びると言っても〝薔薇のように〟赤くはならないのが紫陽花だ。
「変だからオレたちが駆り出されてんだよ」
「これってみんな赤く見えるって言ってるの? それともたいちゃんや私みたいな〝見える〟人が赤いって言ってるの?」
江角が春木を特別協力人として選んだのは気安い関係だから、というのもあるが、江角よりも〝見える〟――要するに霊感や第六感と言うべき感覚が強い――人間だからという理由の方が大きい。なお僧侶や神官だからといって全員がそのような能力を持つわけではなく、現に春木の父はごく普通の人間である。
「それがわかんねえんだよな。地主夫婦は赤いって言ってんだけど、その娘さんにはごく普通の青い紫陽花に見えるらしい。ちなみに三人とも特段能力はない人たちだ」
赤信号に引っかかってブレーキを踏む。手元の書類から目も上げずに春木は、
「もっと見た人のデータがほしいね」
と言った。
「まったくだ。情報が少ないと調査も一苦労なんだよなあ」
「だからとりあえず本物身に行くってこと?」
「ああ、そこにまとまってるデータよりはまだマシだろ」
信号が青に変わる。左折ウインカーを出しながら江角は滑らかにハンドルを切った。
「ねえたいちゃん、一つ質問していい?」
「なんだ」
「UPI職員はそれぞれ武器を支給されるって聞いたけど本当?」
「あー……半分本当だな。本人の適正によって変わる。オレのはそれ」
江角は前を見たまま後部座席を左親指でさした。どれどれ、と後部座席を見た春木は腹を抱えて笑い出した。
「おい笑うな、オレにはあれがいいんだよ」
「たいちゃん、野球好きだねえ! まさかバットだとは思わなかった」
「だから笑うなって! 便利なんだよ。道具粗末に扱いたくねえけど、近距離なら直に殴れるし、遠距離ならノックの要領でボール飛ばせは当たるし」
「そのボールも支給品?」
「おうよ。某神社で祈祷された霊験あらたかな野球ボールだ」
その言葉にさらに春木は笑い転げた。
「笑ってるけどオマエはどうすんだよ。いざとなっても多分助けらんねえぞ」
笑いすぎて咳き込んでいる春木に江角はうなるように訊ねた。目元ににじんだ涙をぬぐいながら春木は答える。
「まあまあ私のことはいいじゃないか。能ある鷹は爪を隠すというやつだよ」
「そのことわざ自分のことに使うやつにロクなやついねえよな。うさんくせえ!」
「とりあえず逃げ足とスタミナには自信がある」
「そうだろうよ」
江角と春木のつきあいはおむつをはいていた幼少期から高校生まで続いており、それ以降は江角が就職、春木が進学したことにより断続的なつきあいに変化した。とはいえ、生まれてからこれまでの人生において、親の次につきあいが長い人間が互いである。
「あのさ、覚えてる? 高三のときのマラソン大会」
「オレとオマエで一位争いしたやつな」
元野球部の江角と元陸上部長距離専門の春木で下級生を差し置いてトップを独走した話は有名である。引退した先輩に負けるとは何事か、と各運動部に現役で所属する下級生が顧問教員に叱られたという話を聞いて二人で大笑いした出来事だった。
「あれは笑えた」
「笑ったらかわいそうだよ」
「オマエも顔が笑ってんだよ」
くだらない話に花を咲かせているといつの間にか目的地まであと少しのところまでやってきていた。春木は「もう一つ訊きたいことがあるんだけど」と言った。
「なんだよ」
「この車って、警察車両なんだよね?」
キラキラとした目で訊ねる春木が次に何を言うのか――。なんとなく察した江角は苦虫をかんだような顔をして「一応な」と答えた。春木はわくわくとした表情を崩さないまま口を開いた。
「緊急事態だと、サイレンって、」
「鳴らせるけど、オマエが乗ってるときは鳴らさねえからな」
「チッ」
「チッ、じゃねえんだよ。だめだっつの」
ちょっとまじめな話したかと思ったらこれだよ、不良はどっちだ、この不良坊主、と思いながら江角はなめらかにハンドルを切って、砂利が敷かれた空き地に侵入した。タイヤが砂利をこするゴロゴロ音が車内に響く。駐車場として使ってください、とあらかじめ通報者である地主から許可を得ている場所である。
〝バック駐車をしてください〟という看板に従ってギアをRに入れ、トラシマロープで区切られた簡易的な駐車区画に車をとめる。
「ここね」
「なんかわかるか?」
車から降りた春木は軽く目を細めたが首を横に振った。
「ここでは何も感じない。特に何もないと思うよ。たいちゃんは?」
「オレも利生に同じく。何も感じねえし見えねえ」
やっぱりここから建物内に入るしかないのか、とややうんざりとしながら江角はちらり、と横目に地主の住まいを見た。
――地主の名にふさわしく、寺院部分を含んだ春木の家が三つは入ろうかという広大な土地に、これまた広大な家屋が堂々と建っていた。