〜 淑女の嗜み・紳士の嗜み 〜
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「婚約そうそう呼び付けてごめんなさいね。下がっていいわ。」
私の嫁、もとい私の息子の嫁が私室に入ってきたのでソファへと誘い、侍女たちを下がらせる。
先日世間を騒がせた寵愛の精霊だ。私の息子が寵を与える精霊であり、その精霊を乞い願った婚約騒ぎ。精霊というのはものの例えだが、物語に出てくるエルフ族のような配色であり見目も良く精霊と呼びたくなる気持ちもわかる。そしてあれは傑作だった。私ももっと近くで観覧するはずだったのに、開始早々とは恐れ入った。
「息子が強引に進めて悪かったわね。息子の嫁になることに躊躇いはないかしら?」
「王妃殿下が謝ることでは。確かに驚かされましたけど、どうやらウィリアムと共謀していた模様です。嫁というか……伴侶になることに異はないですよ。」
この淡い笑みが精霊にはよく似合う。
「……嫁になる覚悟はあるの?」
首を傾げるきょとん顔の精霊は何度でも拝みたい可愛さだ。
「そうね、言葉を選ばずに伝えましょう……息子に抱かれる覚悟はあるのかしら?」
そうよ、その顔が見たかったの。恥じらい頬を染める精霊に、もっと可愛がってあげたいと嗜虐心が疼く。
「これから覚悟を決めます……」
「そうよね、すぐには受け入れ難いわよね。弟君が固いガードであなたを守ってくれるとは思うけれど、その守護が及ばない時がないとも限らないわ。だから覚悟が決まるまでは上手く躱しなさいね。それに伴侶だからといってこれは義務ではないのよ。生涯身体を明け渡さないこともあなたの権利よ、忘れないでね。」
律儀に頷く精霊。
「まずはあなたを守るための忠告よ。昼でも夜でも場所を問わず、何かしら許可を求める発言には気をつけなさいね。安易に頷いてはいけません。裏まで読んだ上で判断すること。
あとは、あれね。よく聞くやつ。
万が一息子に迫られたら、"いや…"だとか"だめ…"、これは言ってはいけません。その場合は言葉ではなく暴力で息子を退けなさい。そういう場面で発せられる否定の言葉を、突発性難聴で合意と受け取るのが男の性なのだと、覚えておきない。本当に馬鹿馬鹿しい。」
呆気に押されながらも律儀に頷く精霊。私の嫁が素直で可愛い。アホな息子をふたりも持つ私の元へと降り立った恩恵であり、精霊そのものだ。
ソファに腰掛ける精霊の前へ進み出る。こちらを見上げ、見せるあどけない表情に愛しさがこみ上げる。すっとその顎下に人差し指を掛け、さらに上向かせる。
「そんな無防備なところも、息子には見せちゃだめよ……」
そこでばんっと扉を強く開ける音がする。
ふっと笑みが溢れてしまう。
「……お迎えよ。」
上向かせたままの姿勢で扉を見やる。息子の焦った表情を見るに、何か勘違いをしているようだ。兄の方もしっかり陛下の血を継いでいてアホなところがある。そこが可愛い。弟君も一緒に来たようだから、これを煽りとは取られずに済むでしょう。
遡ること11年と少し。
「あなたとは一度話してみたいと思っていたの。」
息子には内緒で呼び出した少年は、報告にあった通りの美しい銀髪をさらりと揺らし、きれいな一礼を見せた。
息子が彼と親しくするようになり、ふたりが王宮図書館に入り浸る癖が付いてから一年ほど。
「継承権を放棄したそうだけれど、何か困っていることはない?」
「はい、ありません。王宮図書館への入館を許可していただいているおかげで、ですが何も不足はありません。」
「あなたは学ぶことを止めないのね。……どうしてかしら?」
「私は、殿下にお仕えすることを目標しています。そのためには殿下よりも多くの知識を持っていた方がお役に立てると考えるからです。」
「忠誠心ね。……知識の他には?何か欲しいものはあるのかしら?」
「あります。武力です。知識だけでは殿下を守れません。魔法や剣術を極め物理的にも御守りできるようにと考えています。」
「それだけ?」
「………はい。」
「息子を大切に思ってくれて嬉しく思うわ、母としてお礼を。それからこれは国を共に支える臣下としての助言よ。守るために最も必要とされるのは情報よ。量、鮮度、速度。確度は言うまでもないわね。」
王妃という格上の者と一対一でも怯むことなく対峙していた彼の冴え冴えとしていた表情は変わらないまま、その眼差しだけが歪む。それを待っていたの。
「情報収集能力はね、剣術なんかと同じで鍛えることができるのよ。……あら?興味があるのかしら?」
私の誘導に彼は抗うことなく従い、私専属の暗部の者に新人として彼を預けることになった。甘やかさずに扱き倒して貰わなければ。
「王妃の座は危険がいっぱいだもの。身を守る術はひとつでも多く持たせてあげないとね。」
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
私たちは“殿下と側近様を見守る会"の存在を知り自然な振る舞いで入会するに至ったと自負している。それは校閲と情報統制のためである。決して私的な目的のためではない。
おふたりの沽券に関わることや国家機密に触れかねない内容があれば即座に情報を修正したり抹消したり。それが私たちに与えられた真の任務である。そして普段は王太子殿下の離宮付きのメイドとして日夜研鑽に励んでいる。
「どなたか彼女の状況の説明を。罰を与えているのですか?」
先程休憩室へ向かう途中の通路から、厨房の裏口に放置されているメイドを見かけた。ぽつねんとひとり椅子に掛け遠くを仰ぎ見ているようだった。だが罰にしては斬新であり非効率的である。いじめに遭い寄る辺ない姿といった方がこちらの心象にも近い。それは見逃せない。
休憩室に居たのはメイドが5人と侍女がひとり。侍女に説明を任せたいようでメイドたちはちらちらと侍女を見ている。その視線を受け観念した侍女が眉を下げる。
「私が管理を怠っていました。そこに彼女が誤って手を伸ばしてしまって……今は身体を冷やしてもらっているところです。」
万が一倒れてもすぐ誰かに見つけて貰えるように表からは見えず使用人の目にはつきやすい場所に連れて行きました、と。あの場所に彼女が居たことは理解しました。
「左様ですか。彼女は火傷を負ったと。配属から日は浅くとも能力に問題は無いのですよね。ただ少しだけ抜けているところに懸念がありますね……」
そこに侍女が徐に一冊の本を手渡してくる。まさか。
「彼女、メイドのテクニック本だと思って読んでしまったんです。」
〜縄の跡はクラヴァットに隠して〜
「これは娼館や賭場を裏で預かる新興商会の会長と賭場に間違えて足を踏み入れた年若い貴族子息のお話ですね。歳の差、身分の差、性癖の苛烈さに悩み苦しみながらも心を通じ合わせてゆくお話……僕には縄の跡がくっきりと残りました。思い出すたび軋んで今にも砕けそうです。けれど貴方には何の跡も残らなかったんですね……あのシーンは特に切なく、私は読む手を一度止めてしまうほどでした。」
「さすが侍女長、履修済みでしたか。あんなに飄々としていた会長の方が実は…っていう胸の熱くなるシーンでしたね。」
切ない関係性に想いを馳せる。ふたりが幸せな結末を迎えたことを頭では理解していても、思いを馳せるたび蘇り襲いかかってくる切実さと緊迫感にふたりはほうっと息を吐く。
「彼女、気付かずに読み進めてしまったみたいで……2回目の出会いで子息が緊縛されるところまで読んでしまったんです。鼻血ってあんなにたくさん出るんだなって思いました。」
「最初は会長がただ遇らうだけのお遊びで、なんの感情も入らないただの激しい行いでしたね。彼女には早すぎたわ。火傷では済まないわね。」
重症であろう彼女に冷えたタオルと冷たい牛乳を差し入れるようメイドに伝える。
外に放置されている彼女は、素質はあるがまだこちらも日が浅く徐々に慣らしている最中だったのだ。タイトルから内容を推し量る技術を最優先で習得させ彼女の身と心を守らねば、と今後の指導スケジュールに修正を掛けておく。
メイドに伝えはしたが、やはり彼女の容態が気に掛かり私たちも裏口へ向かう。
お騒がせして申し訳ありません、と彼女が気丈にも振る舞う。これも飲んでおきない、と鉄分補給用の丸薬を手渡す。
「私、会員なんです。そこで出会うお話はキラキラと眩しいばかりで、勝手に全てが同じように楽しげなものばかりだと思い込んでしまっていたのです。それに縄にこんな使い方があるだなんて知らなくて……」
彼女は両手をきつく握りしめて指先が白くなっている。
「そうですね、キラキラと輝く清いものから、一粒の火の粉が徐々に周りを燻らせ、いずれ全てを燃やし尽くしてしまうようなものまで何でもあります。ただあなたが手に取るには少し…いえかなり早かっただけです。落ち込む必要はないのですよ。」
労わるように白くなってしまった手を包み込む。
「ここに配属されているのは、男性に興味がない女性か、母親経験者、"行くつもりがないだけ!遅れてなんかないんだからね!な女性"が殆どで、あなたみたいに"結婚適齢期、だが支援者!"として配属される子たちに、私たちの配慮が足りていなかっただけですよ。ね、侍女長?」
「肯定したいのに肯定しずらい紹介がなければ良かったんですが……概ね合っています。配慮が足りていなかったのはこちらの落ち度です。申し訳ありませんでした。」
浅く腰を折ってまで謝罪してくれた侍女長。
この職場には尊敬できる素敵な先輩方ばかりです。仕事ができるばかりではなく、親身になってくれる優しい方ばかりです。そんな先輩方のようなメイドに、縄さえ巧みに扱うことのできる淑女に、私はなってみせます!
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「おい、あれどーした?」
料理長が訝しげに訊ねてくる。
「あー、あれね。ちょっと休ませてくれって椅子持参で来たんですよ。」
在職歴はそこそこ長いがまだまだ若い男が答える。
「怪我とか衣服の乱れとかは無かっただろうな?」
「ありませんでしたね。具合が悪いって感じなんすけど、それならここじゃなくね?って思いますよねー。それにあの椅子、そこいらの子女が片手で持って来ちゃまずいタイプのガチの椅子です。座面にしっかり布張があるタイプ……椅子っつーかひとり掛けのソファっすね。」
呆れながら調理師が解説してくれる。
「何があったか知らんが、念のため様子は都度確認しておくように。」
「了解っす。」
今日まで長いことこの離宮には年頃の女性の配属はなかった。それが最近になってちらほらと見かける程度にメイドの中に適齢期なお嬢さんが混ざるようになった。そのひとりなのだろう。尋常ではない様子だが、まだ観察程度でいいだろう。
そう思っていると、古参のメイドがタオル片手に厨房に入ってくる。そして牛乳を一杯所望した。使用人用に主人用とは別に冷蔵庫を用意してある。そちらからならば何もお伺いを立てずとも持って行ってくれて構わないのに、律儀なやつだ。そしてそのメイドは外に放置されている彼女の元へと向かい、それらを手渡し立ち去った。
もしいじめに遭ってるなら見過ごせないが、ちゃんと心配してくれる先輩が居てあのお嬢さんも安心だな。
すると今度は侍女長と侍女がふたり連れ立って厨房裏口へ回るではないか。すぐさま手を止め窓に寄る。
「どうなってる?」
全ての作業を中断し自らも椅子を引っ張り出し観察していた若い調理師に声を掛ける。
「さっきのメイドさんがタオルと牛乳を差し入れて、今度は侍女長ですね。やっぱり何かやらかしたんすかね?」
いや、違う。侍女長は彼女の手を両手で温めているようだし、まるで母が子を宥めるような表情に見える。それに応えるメイドの表情が、お母様、お姉様と言わんばかりに尊敬に満ちた眩い笑顔になってゆく。
「やっぱ侍女長、いいっすね……」
「おい、お前彼女は既婚者だぞ。手を出したらお前の方がクビになるんだ。馬鹿なことは考えるな。」
こいつ掴みどころのない軽薄なやつだと思っていたが、頭も軽いやつだったのか。だが女を見る目は悪くない。
「違うんすよ、なんか、こう……ああいうの見てると心がぽかぽかになるんすよ。そうなる時は大体侍女長がその場にいるんで、きっと侍女長の癒し効果なんだろうなって思ってたんすよ。」
頭が軽いことはやはり断言するしかなくなったが、その気持ちがわかるだけに自然唸ってしまう。
「まぁ、わからなくはない。同僚が仲良くやってる姿ってのは悪くないよな。」
有耶無耶にしておく。
「侍女長が母親、メイドが娘、そして姉ひとりが慎ましく互いに支え合いながら仲良く暮らしている……そんな光景が浮かびますね。」
「誰だよ。」
「侍従です。休憩なので食事を貰いに立ち寄ったんですが、素晴らしいタイミングでした。ご馳走様です。」
侍従だと名乗った男は、調理師と同じくらいの年頃に見える。
「きっと娘ふたりは嫁に行きません。お母様といる方が幸せだから、と。涙ぐましい家族愛ですね。」
わかってしまうのか調理師が神妙に頷く。
「私のおすすめもいいですか?淡白そうな侍女が妹たるメイドを溺愛していて、心配だから勤め先も同じところを選び、寮の部屋もふたりで一部屋を……ですね。」
「次は誰だよ。」
「庭師ですよ。私は裏口にある堆肥を貰いに来たんですけどね、予感がありましてこちら側へ潜み入ったんですが。なるほどこれは。」
さらに増えた傍観者に先のふたりも頷く。
「見ましたか、あの姉の表情。妹が心配で心配でたまらないといった感じです。それに姉……あの侍女は普段は淡白な態度しか見たことがありません。表情が出るところも見たことがありませんよ。」
庭師の言葉に、確かにそうだと私も頷く。
「淡白な侍女さんはとても仕事ができるんですよ。侍女長からの信頼も厚い。彼女は侍女長と歳も割と近いですし、付き合いも長く……つまり長く戦場を共にしてきた尊敬する先輩が、ぽっと出の娘を庇護していると……これは妬きますね。」
侍従が新たな側面を切り出してきた。
「あ、だめっす、きゅっ!ってなりました。」
調理師が情けない声を出す。
「あー、なるほど。それもありますね。」
理解できたらしい庭師も苦い顔で頷く。
そんな彼らの柔軟な思考に理解が追いつかない私を見咎めた侍従が、私に躙り寄る。そして他のふたりにも耳を貸せと目配せをした。いやな予感に後退りしそうになったが、窓際のカウンターにすぐに腰を打ち逃れられないことを悟った。先程より狭まる男4人の空間。
「彼女たちを見てください。あの場は狭い部屋の一室。時間は朝食前。奥に見えるのはベッドでしょうか。しどけない朝の姿の彼女たち。メイドの髪を梳る侍女長。次は私なんだからと待ち侘びる侍女。えぇもちろんと優しく応じる侍女長。」
侍従以外の全員が両手で顔を覆った。
「料理長にも見えたようで何よりです。」
揶揄うように爪先立ちで私の耳元に口を寄せ、わざと小声で囁いた。その反応を楽しむように満足気に笑って立ち去った。
「お前たち、仕事に戻れそうか?」
手で顔を覆ったまま訊ねる。
「ちょーっと時間が欲しいっす。もしくは野郎を拝めば治る気がするっす。」
調理師も手で顔を覆ったままだ。
「私は、今すぐ堆肥の臭いを嗅ぎたいです。」
その言葉に私と調理師も、はっとし3人で慌てふためきながら堆肥を求め飛び出した。
あの侍従、態度と口調だけは紳士だったが思考が全く紳士じゃない。離宮で働く全ての女性たちが危険に晒されているのかもしれない。あいつの毒牙が彼女たちに向かないよう私が性根を叩き直してやらねば。
そのフラグが美味しく調理されてしまう日が、来るとか来ないとか。
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お読みくださりありがとうございます。