非日常の壱ページ
連休に、家族で久しぶりの大移動をした。数年前のゴールデンウイークに旅行をして、大渋滞と大混雑に遭ってからというもの、連休の旅行は極力控えていたのだが、今回はどうしても欠席できない用事があったので、どうなのだろうと思いながらも出発した。
すると、なんと数年前のあの時よりもさらに酷い大渋滞が待っていた。高速道路に入って暫く走ると既に車が多くなり、そのままノロノロ運転が続き、時には止まったまま動かないこともあった。途中で休憩して昼食でもとろうと予定していたサービスエリアは、二キロほど手前から入り口への車線に列ができていたので断念した。結局、スムーズに行けば三時間ほどの距離を、約五時間かかってようやく渋滞を抜け出したのだった。それでもまだ、目的地まではさらに二時間ほどかかる。とにかく明るいうちに着きたいと思っていたので、昼食は後回しにすることにしたが、空腹を感じる余裕もなかった。それで、道路が空いてきた頃に見つけたコンビニで、パンを買って食べたのが午後三時過ぎだった。でも、そのおかげで何とか明るい間にホテルに着くことができた。
夕食は会席料理だった。家族がお酒類を頼むというので、私もお付き合いでノンアルコールビールを注文した。お酒が飲めない訳ではないのだが、いつの頃からか飲むと決まって、次の日に頭が痛くなるという体質に変化したようで、以来極力避けることにしている。でも、体質が変わる前は会食や宴会などでは必ず飲んでいたので、日本酒、ビール、ワイン、焼酎などの味と美味しさは一応分かっているつもりではある。しかも、その時々の気分で選ぶのだが、どれも皆とても美味しい。だから、正直なところ、夏の暑い日にはビールを飲みたくなることも少なくない。それで、試しに少し飲んでみることもあるのだが、やはり次の日は必ず頭痛に見舞われる。ということで、以後はまた禁酒に励むことになる。
このお酒と頭痛の関係について、本人は神の御加護ではないかと考えている。というのは、私の父はかなりの酒豪だった。私にもその父の血が流れているので、本来は飲める体質なのだろう。現に以前は問題なく飲めていたのだから。でも、女性で大酒飲みというのはあまり体裁が良くないだろうからと、飲めない体質に変えていただいたのではないだろうか。勝手にそんな風に解釈している。実際に私の妹は、夏でも冬でもビールに目がない。離れた場所に住んでいるので、普段はどれくらい飲むのかわからないが、我が家に来た時など、あまり大きな声では言いたくないほどの量を、いとも簡単に飲んでしまう。相当の訓練をしていないと、できない技だ。あれを見ていると、姉妹が揃って「のんべえ」なんてあまりカッコ良くないから、やっぱり私は飲めなくても良いと思わざるを得ない。
ところで、注文したノンアルコールビールを飲み始めたのだが、普通のビールにとても近い味がした。何度かアルコール無しのビールは飲んだことがあるが、これまでのものはそれらしい味はするが、やはりビールとは違っていた。ところが、今日のこれはビールだと言われれば信じてしまうくらいに似ている。そんな感じがして、改めて瓶に貼られたラベルを確かめてみるが、確かに「ノンアルコールビール」とだけでなく「この商品はビールではありません」とまで書かれてある。それでもなかなか信じられない。一口飲んではラベルを確かめる動作を、何度繰り返したことか。本当に上手く作ったものだと感心しながら飲んでいたのだが、次第に口当たりや味だけでなく、体中にほんのりと酔いが回ってくるような感覚になってきた。お酒が体中に行き渡ってくる時の、あの少し熱を帯びたような気怠い感じ。まさしく酔いつつある状態になってきたのだ。いよいよもって不思議なことだ。ノンアルコールなのに何故。頭の中に、はてなが幾つも浮かんでいた。ひょっとして、製造中のミスで、本物のビールが紛れ込んだのではとも考えたが、その場の誰も私の説を信じてはくれなかった。冷静に考えれば、酒類とそうではない飲料を同じ場所で製造する筈がない。
ほろ酔い気分になりながらも食事は進み、後はデザートを残すのみとなった。運ばれてきたアイスクリームの横に、一切れのフルーツが載っているのを見て「あっ」と思った。あることを思い出したのだ。そして「なーんだ」と思った。実は私はノンアルコールビールを飲む前に、本物のアルコールを飲んでいたのだった。それは、食前酒として出されたワインだった。係の人が山桃のワインだと紹介していて、小さい実そのものも入っていた。フルーツの一切れを見て、その山桃の実を思い出したのだ。我がことながら、思考回路が理解できないが、名前のとおり、食事の席について真っ先にいただいたので、その後の会話などに紛れてすっかり忘れていた。それに、いくらなんでも、食前酒で酔うことなど考えもしなかったから。こうなると、アルコールの入っていない飲み物をビールだと判断した舌も、既に酔っていたせいかも知れないから当てにはならない。
振り返ってみると、これ以前で最後にアルコールを摂取したのが八カ月ほど前だった。その前は一年ほど飲んでいない。この数年間でこの二回だけしかお酒類を飲んでいないことになる。それだけ遠ざかっていると、少しのアルコールに対しても体が敏感に反応するのだろう。
となると、次の日の頭痛が心配になるが、さすがに食前酒の量のアルコールではそれはなかった。
二日目の夕食も会席料理だった。ホテルや旅館の食事はだいたい、バイキングか会席料理のどちらかであることが多い。余談だが、バイキングとビュッフェは元々は違うものだったようだが、今では同じ意味で使われているようだ。旅行会社の説明で「お食事は毎回ビュッフェスタイルになっております。」などと言われたりする。食べ放題なので「好きなものを、食べたいだけ食べられる」のを喜ぶ人も多いようだが、とっくの昔に育ち盛りを過ぎてしまった者にとっては「好きなものを、食べられる量だけ食べればよい」スタイルだと解釈している。この「食べられる量だけ」というキーワードは重要だ。
というのも、私は会席料理のシステムが苦手なのだ。煮物、焼き物などの料理を一品ずつ、係の人が運んで来てくれる。向こうも頃合いを計って持ってきてくれるのだろうが、なかなか次に進まないこともある。洋食の場合は、ナイフとフォークの置き方で、その料理を食べ終えた意思をアピールする方法があるが、私の知る限りでは和食にはないようだ。だから、次の料理を運んでもらうタイミングを伝えにくい。あまり好きではないものでも、無理をして食べなければいけなくなることもある。とにかく目の前の食器が空になれば、次の料理が運ばれてくる筈だから。そうなると、ほんの少しずつの量でも、次第にお腹に溜まってくる。そして、時間が経つにつれて、それがどんどん膨らんでくる。少食という訳ではない私だが、そうなってくると、もう次を食べるのが苦痛にしか思えない。しかも、順番からすると、メインの料理は真ん中辺りまで待たなければならない。
以前に行った旅先でも、それで大変苦しい思いをした。五品ほどいただいた頃には、もう満腹に近い状態になっていた。その後はもう拷問のように苦しい思いをしながら、なんとか最後まで食べ終えることができたのだった。そして、残念なことにその苦しさが、その旅の最も印象深い思い出となってしまった。
そんなわけで、一日目の会席料理を無事に完食できたことには、内心ホッとしたものだ。ところが、二日目の今回はどう考えても無理だった。やはり、八品ほどをいただいた頃から苦しくなってきた。お品書きを見てみると、まだまだ後に五品もある。それも、普段は食べられないような特産品を使ったものだったり、高価な料理ばかりだ。でも、既にいただいたものが、お腹の中で何倍にも増えていていかなるものも入る余地はない。九品目は魚の煮物で、付け合わせの牛蒡と筍もとても美味しそうだったが、ちょっとお箸をつけただけで一口も食べられない。最後の方に控えているご飯物なんて、とてもとても。これがまたその地の名物を使った、私の大好物の炊き込みご飯だったのだが…。
面白いことには、私だけでなく家族も皆同じ状態に陥っていた。数分間の話し合いと葛藤の後、今回はついに決心した。通りかかった係の人に、残り四品の内の三品をパスしてもらえないかと訴えた。デザートだけはいただきたいので、それ以外は省いて欲しいと。係の人はちょっと驚いたような様子も見せたが、すぐに了承してくれた。暫くしてデザートが運ばれてきた。ようやく、やれやれと安心していただくことができた。
本当は全部残さず平らげたい気持ちが山々なのだ。作ってくれた人にも悪いし、第一勿体ない。それに嫌いなものでもなく、どちらかと言うと大好物ばかり。滅多に食べられないものも多い。でも、満腹の場合はどうしようもない。食べたものが時間と共にお腹の中で膨らむという現象を、どうにかできないだろうかと時々思う。選ぶことができる時は決まってバイキング形式の宿にするが、今回のようにそうはいかないこともある。
そんなこんなの二泊三日だった。同じような毎日を繰り返していると、たまには非日常を味わいたくなる。でも、いざ非日常に身を置いてみると、何の変哲もないありきたりな日常に戻りたくなったりする。見慣れた風景、使い慣れた家具や食器や寝具が恋しくなる。勝手なものだ。
今回も車の窓から見える景色の中に、この季節の花々が咲いているのを認めるにつけ、家の近所や近くの公園で、自分のもののように観察している花や木はどうなっているだろうかと、そんなことが気になったりした。