猫又はまた、人をかるのか
ねぇみんな、猫又ってしってるかい?
「徒然草」や「宿直草」にでてきた、あの妖怪の猫又。
猫又は昔から、山に住み人を食らうと恐れられてきた。
これは、とある日の、とある町の、とある人間の話。
人間と猫又の、出会いと別れの話。
蒼く高く茂る木々、薄くかかる霧、そして入り口のこれより先侵入禁止の看板。
それよりもずっと奥にその場所はあった。
「うわぁ…本当に高いな」
その場所にいたのは、大きな崖、足元注意の看板、その隣に立つ人間。
人間の服装は、まるで近所の公園に散歩をしに行くような軽装で、山登りにも、探索にも向いてはいない。
人間は崖の一番底を見ていた。結局、底は見えなかった。そこには、暗闇があった。
「もう終わらせてしまおう。もう、終わりだ」
人間は誰にも聞こえないような小さな声でそうつぶやいて、一歩前に進もうとした。
その時だった。
「オイニンゲンよォ、何してんだ?」
突然後ろから聞こえた低い声に、人間は驚き、そのまま後ろに尻餅をついた。
「ここは立ち入り禁止区域だろ?猫又が出るってことでよォ。オマエみたいなのが来る場所じゃねぇぞ?」
人間はこれを聞いて、見回りの人や山の所有主でも来たのかと思い、急いで立ち上がりつつ振り返る。
「あ…えっと…すんませ…」
人間の言葉はそこで途切れてしまった。
話かけてきたのは、見回りの人でも所有主でもなかった。
二本足で立つ真っ黒な猫。体格はがっしりとしていて、しっぽは二本に分かれている。
「寓意草」に登場した猫又ほどではないけれど、立った姿は人間と同じくらいの大きさだった。
紛れもなく、この山に住むと言われた猫又だった。まさか、本当にいるとは思わなかった。
人間はその姿を見て、声も出なかった。ただただ、開いた口が塞がらなかった。
「なんだよ、そんなに驚かなくたっていいのに。大丈夫、人なんて食いやしねぇよ。」
猫又が気の抜けた声でそう言い終わった時、人間はやっと我に帰った。
「え…猫又…?」
「そうだが何か問題でも。」
猫又は当然のことのように答える。
「それよりオマエ、オレが話かけてなかったらこっから飛び降りてたろ。その後片付けするのはオレだぞ?仕事増やすなよなァ」
「片付けるって…食べんの!?」
人間が言うと猫又は呆れた顔で答える。
「やっぱり、オマエらニンゲンって何か勘違いしてんじゃねぇの?そんなまずいもん食わねぇよ。他の猫がどうなのか知らんが、オレは肉はあんまり好きじゃないな。」
その言葉は、人間にとって驚きでしかなかった。この辺りの大人たちは、この山の猫又について聞けばみんな口を揃えて、「あの猫又は人を食べて生きているんだ。たまに町に忍びこんでは、街に災難をもたらす、悪しき怪物だ」と言っていた。
人間は、ふと疑問に思ったことを口にしてみる。
「じゃあ、何を食べているの?」
「オレはしょっちゅう魚を食ってるな。この近くには綺麗な川があってな。そこの魚がすごく旨いんだ。」
確かに、耳をすませば川の水の流れる音が聞こえる。
「とにかく、死ぬのはやめてくれよな。仕事は少ない方がいいだろ?」
人間は困ってしまった。まさか、ここまで来て止められると思わなかったからだ。
それも、今あったばかりの猫又に。
奥に隠していたはずの記憶が頭をよぎる。
怒声と笑い声が、聞こえてくるような気がした。
「おら、お前全部運んどけよ!先生くるまでに運びきれなかったらこの前の罰ゲームな」
「お、この前のかぁ、いいねぇ」
「おい、進みが遅いな!絶対に間に合わせろよ!」
「痛っ...」
「こんだけで弱音吐いてんじゃねぇぞ変人っ」
「ははは、変人ねー、確かにそうだ。」
「新たな称号もらえて良かったねーw」
「やめてよ...」
「あ?」
「やめてよ、もう。僕に関わらないで...」
「は?声がちっっっっさくてきこえねーよ陰キャく~ん」
「もう、僕に関わるな...」
「は?お前が俺に命令とか1000年早いぞコノヤロー。んじゃお前今日この後は発酵牛乳の刑な。あと家すぐ帰ったら駅に来い。いいか?すぐだからな。このことを誰かに言うんじゃねぇぞ。俺の言った通りにできないやつは死んじまえ」
…
「オイ、オーーーーーイ。何ボーっとしてんだ、話終わってないぜ。」
人間はハッとした様子で、また暗い顔をした。
「町に戻ると何かあるのか」
猫又の言葉に、人間はゆっくりとうなずく。
すると猫又は、人間の方をしっかりと向いて、言った。
「じゃあさ、オマエはオレが、守るから。」
何故そんなことを言ったのか。人間は猫又が分からなかった。
「オマエさ、この山の猫又の平均寿命知ってっか?五百年だぜ。ほんの暇つぶしさ。お互い、「winwinのかんけー」ってやつさ。さぁ、行くのか?」
人間の疑問に答えるような猫又のセリフを聞いて人間は、少し間を置いてうなずく。今度は、さっきよりもしっかりと。
人間が顔を上げるのを待たないうちに、猫又は森の出口へ向かって歩き出した。
しかし、人間には気がかりなことが一つ。
「猫又が町に居ることがばれたら、どうなるか分からないよ。この前、ニュースで見たんだ。この町の偉い人が、猫又と猫又に関わった人は殺してもいいことにするって...」
「その時はその時だ。一応オレは色んな術が使えるんだ。早く町に行こうぜ。」
そう答えて猫又は歩き出した。どうやら森の中がどうなっているのかしっかり頭に入っているようで、あっという間に山の出口についてしまった。
近くに人がいないことを確認して、道路に出る。
猫又は人間からのびる影にもぐるように隠れた。らしい。
辺りはもう真っ暗で、どこからが人間の影なのか、よく分からなかった。
家は山から十五分程なのに、なぜかすごく遠く感じた。
登下校の時と違い、リュックはすごく軽い。それもそのはず、中に入っているのは、ノート、ペン、生徒手帳の三つだけ。スカスカのリュックが、歩くたびに音を立てる。
慣れない夜の町を、暗闇に怯えながら歩く。その時、猫又の声が聞こえた。
「危ねぇっ」
声と同時に鈍い音が聞こえ、少しあとに自転車が倒れる音がする。人間は驚いて、咄嗟に振り返った。
「何したの!?」
「こん人がオマエのリュックに手ェ伸ばしてたからよォ、ふっとばしてやったぜ」
猫又は少し後方の暗闇を指さす。
そこには少し大柄な人が倒れていた。
「あー...ひったくりかー、最近出るって言ってた。大丈夫、このリュック、大したもの入ってないから。でもまぁ、ありがとう」
「へへへへ、どーもどーも」
照れくさそうに笑う猫又を見て人間は、単純だなーと苦笑いした。
「でも、この辺りは不良が多いらしいから、気を付けて」
人間はそう忠告したのに、猫又はまるで聞いていないようだ。
「さーて、さっさと行こうぜ」
そう言われ、再び歩き出す。
「おい待てクソガキッ」
「?猫又、何か言った?」
「いや何も」
猫又は小さく答える。
猫又でないなら、残る可能性は一つ。
「待てって言ったよな?」
さっきまで倒れてたはずの人が、もう起き上がっている。
「ありゃー、手ェ抜きすぎたかな」
猫又が呑気なことを言っているが、聞こえていないようだ。
そのまま猫又のそばの人間を睨み付け、近づいてきた。と思ったら、気づいたら姿が消えている。代わりに、頭だけ出した猫又が居た。よく見ると、ひったくりの人は再びふっとばされている。
人間はやはり驚いて、猫又を見つめていると猫又は、
「安心しろ、峰打ちだぜ」
と、どこかで聞いたことのあるような気がするセリフを言った。
果たしてどうすればいいのやら分からなくなった人間は、もう一度進行方向へ体を向ける。
いつもより心なしか早い足取りで、帰路につく。
帰ったら帰ったで、良いことなんて何もないのに。
人間はしばらく無言で歩いた後、一軒の家の前で立ち止まった。
その家は二階建てで、前に暗い色の車が止まっている。二階の窓が少し開いていて、風に煽られたカーテンが暴れていた。
猫又は表札に書かれた文字を読もうとしたが、漢字が難しかったようで、すぐ諦めてしまった。
「あそこが僕の部屋だよ」
二階の窓の開いた部屋を指さして人間は言った。
「先に窓から入ってて」
「あいよ」
猫又は門を飛び越えて、ふわりと飛んで軽々と中に入っていった。
「何か...猫又ってすげー」
そんな事を人間は呟く。今はそんな事言ってる余裕なんてないのに。
人間には未来予知の能力なんてない。でも、家に帰ったらどうなるか想像できてしまって、怖くて、泣いてしまいそうになる。
ここまで来たからには、もう引き下がれない。出来るだけ音を立てないように玄関まで行き、戸を開ける。
誰もいませんよーに。そんな人間の願いも空しく、リビングからは光が漏れていた。部屋に行くにはリビングを通るしかない。大丈夫、さっさと二階に行けばいいだけ...
最小限の幅に戸を開いて、一歩踏み出した、その瞬間、本当に瞬間、
「このバカモンがぁぁぁ!」
耳がおかしくなるくらいおおきな怒声が家に響く。
「何故もっと早く帰ってこなかった!?塾の後はすぐ帰れと何度も何度も何度も何度も言っているだろう!俺の権威が傷ついたらどうするつもりだ!お前らがこうして食っていけるのは誰のおかげだとおもっているんだ!いい加減反省しろ!あぁもう、さっさと二階行って勉強しろ!」
大量の感嘆符と共に、顔を真っ赤にして怒鳴られたと思ったら、今日は部屋に戻してもらえた。
もう言っても意味がないと思ったのだろうか。諦めるならもっと早くしてほしかったな。
みんなが思ってるほど、僕はよくできていない。
人間はそう小さく小さく呟いた。その呟きは闇に溶けてどこかに行ってしまった。
これが誰かに届いていたとしてもきっと、「何言ってんだ、イヤミかよ」と妬まれるか、「遊んでばかりいるからだ。今日もパソコンばかりいじっていただろう?動画?ゲーム作り?絵?それが良い高校に行くのに有利になるのか?その時間を削って勉強すればいいじゃないか。」と言われるかどちらかだろう。もう、どうでもいいや。
その様子を猫又は階段の上から見ている他何も出来なかった。
人間が部屋に入ると、あの猫又の姿はなく、勉強机の上に黒猫がチョコンと座っていた。
「猫又?」
「そーだよ」
黒猫は猫又が化けているらしい。確かに、猫又の雰囲気は少しだけ残っている。でも、他の人が見たらどう見たってただの猫だ。
「もう寝たらどうだ?今日は疲れたろ。」
猫又にそう言われ人間は急にこれまでの疲れが出た。すぐに寝る用意を済ませて、ベットに横になる。近くにあったリモコンで電気を消すと、上に猫又が乗ってきた。猫又は、聞いてもないのに、
「ここが落ち着くんだ。」
と言って寝てしまった。
猫又にも、人に飼われていた時期があったのだろうか。猫又は、長く生きた飼い猫が飼い主を食い殺して山に住み着いた怪異だと、いつだったか本で読んだ気がする。もう、この記憶が正しいのかも分からない。
そんな事を考えていたら、段々ものすごく眠くなってきた。
窓から入る風がゆっくりと頬をなでて、心地良い。
人間はいつの間にか眠っていた。
部屋には、静寂が訪れた。
誰が何を願おうと、何度だって朝はやってきて、日は上る。
カーテンの隙間から伸びた光の筋が人間と猫又を照らす。
光の眩しさに人間が細く目を開くと、目覚まし時計が鳴った。が、音はすぐに止められた。母親が起きてしまわないように、毎朝そうしている。
父親はとっくに仕事に出かけていていない。人間は、素早く学校の準備をして家を出る。猫又もそれについていく。人間は意外そうな顔で、
「学校にも来るの?」
と聞いた。猫又は、当たり前だ、という顔でうなずく。人間と黒猫は外に出て、カギを閉め、学校へと歩き出す。
周りの人が見たら、中学生に黒猫がついていっているように見えているだろう。そうでないと困る。
しばらく無言で歩くと、学校につく。
今日は、何人かの生徒が休みだった。どうしてかは聞かなかった。
下校の時間になった。人間は、他の生徒がみんな帰るのを待ってから、一人で帰る。そのほうが気が楽だ。
誰も、その人間には話しかけない。みんな、日常が壊れてしまうのが怖いから。人と違うということは、思っているよりもずっと心細いし、わざわざ自分からなる必要がないから。だから、みんな話しかけない。
付和雷同。これは、集団で溶け込む上で不可欠なものなんだろう。
それが出来なかった人間は、一人で誰もいない門をくぐった。それに猫又もついていった。
門を出ると、すっかり見慣れた道。もう七年間も毎日この道を通っていることになる。
でも今日のこの道はいつもと雰囲気が違った。なんだか固くて、引きつっているような感じがして、すごく居心地が悪い。その理由は、辺りを見たらすぐに分かった。
いつもより警察が多い。元々この地域には見回りの警察が多く来るのだが、それにしても多い。
自然と人間の歩みが速くなる。この場所から一刻も早く抜け出したい。
猫又もそれに合わせて足を速める。
「ちょっと君―」
話かけてきたのは警官。返事をする暇もなく、警官が話し始める。
「突然済まない。最近猫又が出没すると聞いてな。その黒猫、調べさせていただく。」
警官は許可も取らず一方的にスタンガンのような物を黒猫に押し付ける。その何かからは電撃のようなものが出て、黒猫の体に当たった。
「ギニャァッ」
痛々しい声を上げる猫又をよそに警官は今度はナイフを突き付けて、
「やはり猫又だったか。猫又は山にいなければならないという公約だっただろう?私は長様に。猫又とそれを匿った者はすぐに処すように命じられているのだ。その罪の重さ...」
「逃げるぞ」
警官の話の途中小声でそう言って猫又は走り出す。人間もほぼ同時に走り出した。
「おい待てっ!人の話は最後まで聞けと習わなかったか!」
警官が必死に止めるも止まるわけもなく、人間は走り、その後ろに猫又が走る。そしてさらにその後ろで警官が走る。
「おい、逃げても無駄だ、諦めてつかまれぇぇ!」
警官が叫ぶ中、猫又のスピードが落ちてゆく。先ほどの電撃が効いているようで、足元がふらつき、今にも倒れそうだ。すかさず警官が電撃を当てる。
猫又は白くなって消えてしまった。
「猫又、何故此処に来た。お前の望みはもう二つ聞いたぞ。」
「わかってますって神サンよォ、「もう二つ」じゃないだろ?そこは「あと一つ聞く」の方が正しいんじゃねぇのォ?」
「何の用だ。」
「そのあと一つの望みを言いに来たぜ。」
風で神の髪がなびく。
「では、望みを言え。」
「そんじゃあ、オレの望みは―――――――」
「その望み 叶えたぞ」
森の中を走り続ける。ここなら誰か、猫又のような人外がいると思った。
ここは、猫又と出会った、月入の森...。
でも、誰もいなかった。
当然、先を走る人間より、警官の方が足も速く体力もある。
もう捕まるのも時間の問題。
風で木々が揺れて、草木が音をたてる。
低木からガサガサと聞こえる。恐らく、この森に住む生き物たちの生活が、この近くで行われているのだろう。もう何度もこの音を聞いてきた。
でも今回は森の生き物ではない。黒いカゲが、木陰から飛び出してくる。
人間と同じくらいの大きさで、どこか見覚えがあった。
黒いカゲはこちらに近づいて、
「逃げるぞ」
と聞きおぼえのある声で言った。それは、猫又の声。
でも、その声の主を見ると、猫ではなく少年だった。
黒いパーカーを着た、人間と同じくらいの年の少年のはずなのに、雰囲気や、声や、動き方はまるっきり猫又だった。
少年は、ヘロヘロになった人間を背負って、森の中を疾駆する。森の中を完全に理解していて、生い茂る木を上手く使い、あっという間に警官を遠ざけていく。
霧も出て、とうとう警官は見えなくなってしまった。
たどり着いたのは、大きな崖の傍の、廃屋の屋根。耳をすませば、川の音が聞こえる。
少年は人間をおろした。そして、人間の方を向く。
猫又のような顔だった。
少年は肉球のない紛れもない人の手を出して、
低くて、少し語尾が伸びた、あの声で、言った。
「オマエはオレが、守るから。」