格差拡大とか言われつつも、若年層の生活満足度は上がっているらしい。
こんな記事を目にした。
格差拡大、貧困増大…それでも「若者の生活満足度」が高いこれだけの理由
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/87009
この記事によると近年の若年層は「期待値」が低く、努力しても報われないと最初から思ってしまえば、報われなかったとしても不満感はさほど募らないそうだ。
これを、皆様はどう思われるだろうか?
自分は正直、「アリ」だと思う。
というのは、過度な期待を厳しい現実にボロクソに砕かれたそこが、本当のスタートラインだと思っているからだ。
以前、
『「書籍化したから(したら)、仕事をやめよう!」と考えている方がいたら、ちょっとお話を聞いてほしいのです。』
というエッセイを書いた。
印税収入でやっていくのは大変だ、という内容だったが、あれはかつての自分自身が突きつけられた現実そのものだった。
「取らぬ狸の皮算用」をし、膨らませまくっていた期待が一瞬で崩れ去った。
現実は自分の想像よりも圧倒的に厳しい。
時には、心ない他者に傷つけられることもあるし、予測不可能の事態に突然襲われたりもする。
それでも、自分が生き抜く道を模索し続け、それが見つかった時。
あと一歩で堕ちそうな崖っぷちや土俵際で踏みとどまれた時。
人生もこの国も、それほど悪いものじゃないと感じてきた。
そしてそれを繰り返すうちに、何事も期待をむちゃくちゃ低く見積もったり、考えうる最悪な状況を想定するクセがついたのだが、おかげで心の平穏はものすごく保たれている。
なので、最初から期待値を低くすること自体は、どちらかというと肯定派だ。
むしろ、自分が長い時間をかけてたどり着いた境地じゃないか、幸先いいスタートが切れるじゃないか、とさえ感じた。
だが、そこはあくまで「スタートライン」。
そこを「ゴール」にしてほしくない、とは思う。
「最初から期待値を低く持っておく」、この考え方は賛成だと言ったが、自分自身で様々な「経験」を経た上でのそれと、ネットや人の話で見聞きしたりして悟っただけのそれとは、違うと思う。
繰り返すが現実は厳しく、心の防御策としても、期待値を低く持つことは機能する。
実際、自分もよく使っている。
だが何か一つでも、ほんの些細なことでもいいから、「自分の力で成し遂げた」という経験と自信を得ていく、それを積み上げていく。
時代や価値観がいくら変わっても、それが人間の成長の本質なのではないだろうか。
その本質さえも捨て、期待値の低さを「やらない理由」にしてしまうのは、ちょっと寂しく感じる。
RPGの世界にある、「経験値」という言葉。
すごく良い言葉だと思うし、現実でも自分を成長させてくれるのは紛れもない「経験値」だ。
さらにはRPGと違い、現実では戦闘に勝っても負けても経験値が入る。
10代の後輩ミュージシャン達とも関わりがあり、よく話もするが、正直いって「目先の結果(勝利)」にこだわりすぎている。
やる前から意味がないと決めつけたり、望む結果が出なかったら無意味だった、時間が無駄だったと言い切ったり。
その時々の結果はもちろん大事だが、何かに取り組む中で様々な経験や学びをすること(経験値)自体がとても大事であり、それが自分をレベルアップさせていく。
そもそも、経験値は自身が戦闘に望まないと得られない。
音楽センスほぼゼロの両親の間に生まれ、学生時代は劣等感の塊だった自分が作曲家なんてやれてるのも、幾多の「惨敗」も含めた経験値の積み重ねがなければ、なし得なかったことだ。
最初の記事の中には、「高齢層ほど不満が高い」という話も書いてあった。
自分も高度経済成長期についてのエッセイを書いたが、「山登りをしていた時代」の感覚や常識を今の時代に持たれても、それは不満が募るばかりだと思う。
若年層の犯罪率は低下の一途にあるのに対し、高齢層の刑法犯は増加しているそうだ。
そういう意味でも、期待値を低く持つことにはメリットがある。
生活満足度が高いのも、良いことだ。
だが、最初から何もかも諦めてしまうのは、どうなのだろう。
何もかも思い通りにすることはできないが、何もかも思い通りにならないこともない。
経験値を積みレベルアップしていけば、思い通りになることも増えていく。
生活の全てを注いでとか、他の全てを捨ててまで何かを頑張れなんて言う気は毛頭ない。
低いハードルでいいし、簡単なことでいい。
きつかったらやめていいし、途中で逃げてもいいから、やってみたいことや興味のあることは挑戦してみる、その気持ちはなくなってほしくないなと願う。
そして、結果ばかりに固執せず、失敗してもその経験が成長に繋がることを、自分も忘れずにいたい。
たった一度の小さな勝利や、悔しくて夜も眠れないような敗北が、運命を変えるかもしれないのだから。
そんな思いを抱いた。