最低
「お疲れ様でした。お先に失礼します」
『お疲れ様でしたー』
聞き慣れた声。五時半終業が推奨されるうちの職場では、ブザーが鳴り始めると一気に帰りの空気になる。歩は机の下においたかばんを取り出すと、荷物をまとめてオフィスを離れる準備をする。
「おーい善崎、最近忙しそうだなぁ」
「すみません。今日は外せない用事があるので」
「なんかあったの?」
職場の先輩が気さくに声をかけてきた。優しそうな顔立ちをした小太りの男性で、彼は入社当時からお世話になっている人だ。結婚しており、最近子供が生まれたらしい。
歩は眉尻を下げ困ったような表情をつくる。
「ははは……すみません。また誘ってください」
「いいけどよぉ……これかあ?」
先輩は幸せ太りでふっくらした顔を福の神のように緩ませ、小指を立ててくる。歩はほおがひきつるのを必死に抑えながら、愛想よく言った。
「そんなんじゃないですって。あ、やっば早く行かないと」
「ほいほいおつかれさん」
「失礼しまーす」
そうだ。ありえない。自分に恋人はいない。彼女いない歴=年齢だ。先輩の追求をゆらりとかわしながら、かばんを持ってオフィスから出る。首に下げたタイムカードを入り口の機械にかざし退社すると、階段を使って地上に降りる。都内の複数の会社が詰め込まれたオフィスビルから抜け出すと、駅まで走り、急いで電車に飛び乗った。
この時間帯なら、そこまで混雑してはいない。歩の家から職場は近い。ひと駅乗ってから降りて、そこからまた走った。
そうする理由はたんに、時間が惜しいからだ。新しく始めたことに、早く体を慣らしたい。
駅から近い住宅街に足を踏み入れ、自宅のドア前まで一気に駆け抜けた。二階建ての一軒家のカーテンがかかった窓からは、光が漏れていた。
「えっと……鍵はここに……」
懐に入れた鍵を探していると、ひとりでにドアが開く。そしてそこから現れたのは――
「おかえりなさいア・ナ――」
「誰が旦那だァ!」
「ブッフォオォー!!!」
玄関先で抱きつこうとしてきたオーラを、歩はかばんを盾にして迎撃する。CGみたいに整った顔面に夢見心地な表情を浮かべ、口をタコのようにしていた彼女は容赦のない防衛にいろいろなものを吹き出して転倒した。
自宅玄関に大の字で倒れ込んだオーラに歩は言う。
「まだ約束の時間にはほど遠いぞ」
「せっかく……気を利かせて……新婚気分を演出したのに――ぃっ」
「私物を漁らないでくれないか」
泡を吹いて痙攣する超絶美少女に、歩は家畜を見る業者の目を向ける。ご丁寧にしまっていたお玉とエプロンまで装備してやがる。オーラは赤くなった顔を手でさすりながら、逆再生のような動作で起き上がる。
「いきなりひどいじゃないですかぁ! ――ってなんでそんなにたじろいでいるんですか?」
「そういうとこだぞ! 顔面以外のスキルポイントどこに振りやがった!」
黙っていれば世界でも有数の美少女だろうに、なぜ彼女の仕草にはこうも胡散臭さしか感じないのだろう? 体が自然にえんがちょのポーズをとっていた。でもなぜかそれをオーラは褒め言葉と受け取ったらしい。
「えっへん! 私はおばあちゃんから『天は二物を与えないって、あれ嘘ね』って言われるくらいのパーペキな美少女なんですから! この程度で驚いてもらっちゃ困ります!」
「確かに三物も四物も与えられてるけどそれ絶対褒め言葉じゃないぞ」
「嫉妬ですかぁ〜このこの〜」
「えぇい通せ! こんなところ誰かにみられとうない!」
真面目に返答するとマリアナ海溝並みの深淵に足を踏み入れてしまう気がしたので、程々にして家の中に入る。オーラは懲りずに「あぁんひどぅい」なんて言いながらまとわりついてきた。どうやらこのコスプレに則った言動を心がけているらしい。
リビングに入り、かばんをテーブル前の椅子に置こうとすると、彼女はかばんを歩の手から奪い取り、上目遣いに口を開いた。
「g――」
「ご飯にしよう」
「超高速!?」
落ちくぼんだ目でうらめしげに眺めてくる少女を無視しつつ、歩はネクタイを外した。
「っていうかなんでここにいるんだ? 待ち合わせの時間からはまだ遠いだろ? 向こうでなんかやってるんじゃなかったのか?」
向こう、というのは次元を隔てた先にあるオーラの世界のことだ。歩が尋ねると彼女は、かばんに顔半分を隠したまま、潤んだ瞳でちらちらとこちらをみて言った。
「あ……貴方に早く会いたく――」
「よーし嘘を言う口ははこれかー」
「あふぁっ!? ら……らめぇっ!? おくちがばがばになっちゃうぅっ゛!」
たしか彼女は歩が勇者探しに協力することを了承したあと、準備があるからと言ってもとの世界に戻っていった。この世界とオーラの世界は時間の流れが違うから、少し離れているだけで結構な時間の開きが産まれる。それを計算に入れて会う約束をしていたのだ。
オーラのほっぺたを開放した歩が疑問に思っていると、観念したオーラがほっぺたを押さえながらつぶやいた。
「アユムさんの役に少しでも立ちたくて……」
「……まぁ〜じぃ〜でぇ〜?」
「疑惑の視線!? これ以上ない疑いの表情!? ……うそです王宮でこのことを自慢してたらウザがられてヤバかったんで逃げてきました」
「自業自得じゃねーか!」
ジト目でみていたらあっさり白状した少女は明後日の方向に口笛を吹きながら知らんぷりをした。
「ま……まぁ専門的なことはともかく!」
(あ、こいつまたやるな)
「と・も・か・く! これを貴方に!」
後半はほとんど叫ぶように言いながら、オーラはかばんを投げ捨ててエプロンのポケットから黒い小箱を取り出して渡してきた。
受け取った歩は、それをじっとみつめてからぽつりと呟く。
「……爆弾?」
「なんで!? ……とりあえず開けてみてくださいよぉ!?」
これ以上いじめるのもかわいそうなので、言われたとおり歩は受け取った小箱を開く。箱の中には、三つの文字盤がある腕時計が入っていた。
「えっと、腕時計? これ」
するとオーラは胸を張って嬉しそうにうなずく。
「はい! これは世界の時間の流れを視覚化する時計です! 名付けて『世界時計』!」
(そのまんまだ……)
でも真面目に言っているから真実なのだろう。歩は小箱から時計を取り出す。上等そうな黒革のベルトがついた、メンズ用ビジネスウォッチ――と言われたら信じられそうだ。高級感のある重み。竜頭は三つ。三つの文字盤に対応しているのだろう。時計の文字盤にはそれぞれ一二までの数字が刻まれている。
(彼女の世界の時間も一二進法なんだな)
「どうですか歩さん! うちの時計職人の技は! かっこいいでしょう! 差し上げますよ!」
「うん。ありがとう。嬉しいよ」
自分の世界の技術力を誇るオーラは素直に可愛らしかった。新たな気付きとともに彼女に向かって笑顔で頷くと早速腕時計を巻いてみる。革ベルトは特殊な加工がなされていたようで、腕に巻いた瞬間勝手に長さが調節された。
「竜頭を押し込めば、波動を読み取ってその世界の時間の流れに時計が合わせてくれます。歩さんの時計の、いちばん上の竜頭に対応した文字盤にはすでにこの世界を登録してます。上から二番目には私の世界です!」
「至れりつくせりだな」
感心しているとオーラが自分の手首をこちらにみせてきた。怪訝な瞳で眺めると、そこに小さめな時計がはまっていた。彼女はドヤ顔で言う。
「しかも私とペアウォッチですよ」
「さーて今朝作った作り置きを温めるかなー」
「無視!? 超絶美少女の自己アピールを!?」
自分で言うなと思いつつ、キッチンに進み冷蔵庫から作っておいたおかずを取り出す。炊飯器に残っていた白米の量を思い出していると、ふと疑問が浮かんだ。
「あ、そういえばオーラはどうするんだ? ご飯」
尋ねると、何故か彼女はその場でもじもじしだす。
「それなんですけど……」
すると、言いかけた彼女の腹から、長い長い腹の虫の音が響いてきた。
それを聞いたふたりは硬直する。
「えっと……」
「あの……」
戸惑う歩に、オーラが蚊が鳴くような声で言った。
「ご……ごはん……いそいで出てきたから……!」
「あ、ああ……うん。多めに作ったから大丈夫だよ……?」
「代金は体で――」
「払わなくていいから」
初めての異世界探索は、微妙な空気で幕を上げた。
■■■■
歩は荷物を詰め込んだリュックサックを背負うと、リビングの床に置いた聖剣を手に持つ。服装は動きやすいパーカーとジーンズに着替えている。流石にスーツで行くわけにはいかなかった。そういえば、とりあえず行こうという話だったけど、どうやって勇者がいる世界とそうでない世界を見分けるんだろうという疑問が頭に浮かんだ。案外自分も後先考えていない事実に笑いそうになる。
歩はリビング中央あたりに置いた二人がけのソファーにだらんと寝そべるオーラに話しかけた。たらふく(歩の分も含めて)夕飯を平らげた彼女に、自発的な運動はほとんど見られない。
「星界図には勇者を探す機能もついてるんだよな?」
「……ぬぁあ? ……そーですねぇ〜……」
尋ねられた聖剣の巫女は、寝仏の格好でくつろぎながら答えた。空いた手で満腹になった腹をぼりぼりと掻く姿に釈迦ではなくゴリラを連想しながら、歩は色んな意味でため息をつく。
オーラは緩慢な動きで立ち上がると、面倒そうに星界図を取り出した。
「わかってますよぉ〜……みせりゃいいんでしょみせりゃ〜……どっこいしょっと」
「大丈夫か……?」
「心外ですね、これでも巫女の仕事はきっちり――うえっぷ食べすぎた……ぁ」
「もうやだぁ……」
嘆く歩の隣に立ったオーラは星界図を起動する。二人の周囲に世界の分布図が現れる。その映像を前に、オーラは呪文を唱えた。
「星界図よ、聖剣の巫女に勇者を指し示し給え……うぇっぷ……死にそう……」
「台無しだよ!」
でもそれはちゃんと呪文として認識されたようだ。映し出された映像に変化が訪れる。星界図に記されているきらめく異世界たちの一部の色が、白から金色に変わり始めたのだ。
数え切れない数の異世界のうちの一部、変化した星の数はまさに膨大と言っていい。歩は目の前に現れた『勇者候補』たちがいる世界をみて、感嘆の声を上げた。
「こんなにいるんだ……これならすぐにみつかるんじゃ?」
でもそれを聞いたオーラは、喜ぶどころか暗い表情になって吐き捨てた。
「まぁ勇者候補なんて? 死ぬほどいますけど? へっ! まぁ呼び出せないと意味ないんですけどね! ハッ!」
「そこは喜ぼうよ!?」
「へっ! どうせ私なんて……」
「あ、あー! どの世界行くー? オーラさーん!? 戻ってきてー!」
嫌な思い出を刺激してしまったらしい。歩はやさぐれて体育座りしてしまったオーラに必死で呼びかけた。すると、
「……すん」
過去を思い出して涙目になっていたオーラが鼻をすすり、ひとつの光点を指差す。星界図の隅っこにある異世界だった。歩は勢い良くそれを確認すると、しゃがんでオーラに向き直る。
「そこに! そこに行きたいんだな!? 分かった! 連れてくからオーラも準備して! ほら早く!」
「……うん」
まるで捨てられた子犬だった。飼育員のお兄さんになった気分でオーラを玄関まで連れて行くと、彼女はぐすぐす言いながらサンダルを履きはじめる。一体どんなひどい思い出だったんだろうと思ったが、聞く勇気はなかった。
歩は力を使い、オーラが示した異世界がどこにあるのかを確認する。
この力を使って転移するときには行きたい世界を強くイメージするやり方と、頭のなかの星界図を参照して転移するやり方がある。大雑把に跳ぶなら前者だが、正確に跳ぶなら後者。今回使う転移方法は後者だ。
歩は転移する世界の時間の流れと大まかな様子を能力で確認すると、安堵の息を漏らす。
――よかった、この世界とそれほど時間の流れが違うわけじゃない。
日常生活を崩さないのも、勇者探しをする条件に含まれている。これなら大丈夫と表情を晴らした歩は、オーラの方をみる。相変わらず彼女はうつむいてなにかをぶつぶつと呟いていた。
歩はそんな少女に向かってむっとした表情になると、腕を伸ばして彼女を抱き寄せた。
いきなりのことに、オーラは驚いた顔を向けてくる。そんな彼女に向かって、歩は言った。
「これからお前の世界を救いに行くんだから、そんな顔するなよ」
「あ、アユム……さん」
「ほら、ちゃんと掴まって。魔法陣くぐれないだろ。落とすわけにはいかないんだ」
そう言って強く抱き寄せると、オーラは落ち着いた声を出した。
「はい……すみません」
(うっわあなんか変な感じ……)
背中にムズ痒さを覚えながら、力を使う。指先で描いた光の円を足元に飛ばすと、それがふたりを囲むくらい大きな光円に変化する。今回の転移ゲートは安全を考慮して足元に作成した。
「なにがあったのか知らないけど、そんな顔したやつに頼まれたって誰もOKしてくれないと思うぞ」
「あ……」
「ほら、スマイルスマイル」
「そう、ですね……」
すると、オーラの方も抱きつく腕に力を込めた。なんとなく大丈夫な気がした歩は、円を魔法陣に変化させ、本格的に転移を開始する。
「じゃあもう移動するぞ!」
「はい! ――アユムさん!」
声を聞いてオーラの方をみると、彼女の顔から影は消えていた。懸念の一つが消えた歩の顔にも、笑顔が灯る。彼女はいつもどおり? の明るい声で、歩に言った。
「頑張りましょう!」
「ああ! 喋ってたら舌噛むよ!」
だがそう言った矢先、オーラは大きく息を吸い込む。なにをするつもりなのか眉根を寄せた歩をよそに、転移する瞬間にオーラは大声で叫んだ。
「イケメンに会えますようにぃいぃぃいいぃいいっ!!!!」
「最低だあぁあぁあっ!」
叫ぶ二人は上昇する魔法陣をくぐって、この世界から消えた。