出勤前に異世界へ
「まさかとは思うけど……」
都内の中小企業に務める冴えない二三歳の会社員、善崎歩は呆然とした表情で呟く。
朝起きて出勤しようとしたら、見知らぬ場所に立っていた。
顔を洗い、髭を剃り、歯を磨き、時間がないので朝食抜きで家を出ようとしたときだった。足元に光りかがやく魔法陣が出現し、気がついたら豪勢な装飾の施されたホールのような場所に立っていた。そしていま、見知らぬ大勢に取り囲まれている。
細身の体を黒のスーツに包んだ黒髪黒目の平々凡々な容姿の青年はいきなりのことに呆然となる。
暫くそうしていると彼の耳に威勢のいい声が飛び込んできた。
「せ……成功した……!」
周囲から漂ってくる声。
成功、まさか――? 嫌な予感がして声のするほうに顔を向けると、金髪碧眼の美少女が、口に手を当て、瞳を大きく見開いて、今にも泣き出しそうな顔で呟いていた。その声色には、喜びの感情がにじみ出ている。布に例えるのなら、喜びでひたひたに濡れていて、持ち上げると滴り落ちそうなくらい。
「本当に成功したんですよ! 皆さん!」
そのままは、飛び上がりそうな勢いでこちらに近づいてくる。反射的に、歩は体をのけぞらせた。
西洋的な顔立ちをしたやけにきれいな女の子が、なにやら泣き顔と笑顔をミックスさせた表情で近づいてきたのだ。あまりの情報量に、体が無意識に理解をこばんだ。中世ファンタジーの世界の中で。彼女だけが古代ギリシャみたいな服装をしていることも相まって、みているだけでここが現実なのか不安になる。
「うわぁあぁっ!?」
編み込みハーフアップアレンジした長髪と、その身を包むゆったりとした服装をふわふわ揺らしながら、少女は歩の二の腕に抱きついてきた。
歩は身長や体型から、彼女のことを自分より遥かに年下だと感じる。でもそんなこと吹き飛ばして見とれてしまうほどの美貌に、気がつけば歩はなさけなく叫んでいた。
でも謎の美少女はそれを聞いてなぜかニッコリし、みっともないくらいの勢いで周囲にまくし立てた。
「星界図に記された目標に寸分違わず狙いをつけ! この私が召喚したんです! それも適正クラストリプルS! やったんですよみなさん! 世界を救ってくれる勇者が! いまこの世界に降臨しました! できたらもうちょっとイケメンが良かったですけど、そうは言ってもいられませんよね!」
彼女の言葉は喜ぶにしてはやけに欲にまみれていて、胡散臭かった。でも少女の声を聞いて二人の周囲に陣取っていた多数の人間――ファンタジーでよく見る上等そうな、色とりどりのローブや、鈍色の甲冑を身にまとっている――が歓声を上げた。
顔がCGみたいに整っている美少女と周囲の盛り上がりに、歩は全くついていけない。瞳を白黒させていると、少女が視線に気づき、こちらに満面の笑みを向けた。
「すみません、これは一体どういうことなんですか?」
「あ、そうでした。説明と紹介がまだでしたね。私はオーラ。この世界、テーロスを守る役目を負った、聖剣の巫女です! そしてここは、テーロス最大の軍事国家『グラーフ王国』です」
「あ、うんありがとう」
「聞いてきたわりに反応薄っ!?」
なにやら一言言ってからオーラがこちらの手を握った。状況が飲み込めたようで飲み込めていない歩は脳内で少女の言葉を反芻しながら、周りをぐるっと見回す。周囲の人たちはまるで神の降臨に立ち会ったかのような感動の視線を自分たちに向けていた。手を合わせて何かを呟いている人までいた。
「愚民どもなんてどうでもいいから私だけを……じゃなかった……私達の世界を、お救いください! 『勇者様』!」
「この子いま愚民って言ったよ!?」
彼女は道を開けるように人だかりに向かって手を振る。幻想的な美しさを持つ美少女なのに、妙に仕草が胡散臭い。
――うわっ! おばさんくさっ!
「誰だ今おばさんくさいって言ったの!? ――とにかく私達の世界は、世界を蝕む脅威、魔王に脅かされているんです!」
人だかりをとりあえず壁際に移動させたオーラが、視界に現れた玉座を前に説明を続ける。前半は般若のごとく、後半は猫なで声で。
歩が立っている場所は、王族――というか王に謁見するための場所だったようだ。玉座には、これまた豪奢な服装に身を包んだ偉丈夫が――眉間に指を当てて頭痛を和らげるような仕草をして座っていた。王は、疲労のこもった視線を巫女に送っている。
「貴方はそのためにこの世界に、私に呼ばれたのです!」
「ねえあれいいの? すごい顔してるけど」
「あれじゃありません! 貴方がいま指さしている方は、この国の王様なのです!」
「いやそうじゃなくて!」
歩はそれを伝えるためにオーラに視線を送るが、彼女は王を背にしているせいで、彼の顔に刻まれる皺に気づいていなかった。
「私のハーレム建設計画のため……じゃなかった。この世界のため、魔王を倒すのにお力添えをお願いしたいのです! 勇者様!」
途中から話が通じなかったのでうんざりしながら眺めていると、オーラはなにを勘違いしたのか、聞いてもいないことを喋りだした。
「……あれ、なんでそんな面倒なものをみるような目を? 私、超美少女だって近所のおばあちゃんから言われてるんですよ? 恋しちゃってもいいんですよ?」
――女子力ゼロのくせに
「あぁん!? 誰だいま女子力ゼロって言ったやつ!」
聞かなかったことにした歩は、とりあえず玉座に座る王様をみた。一流の彫刻師が作り出した彫像のような、芸術的とまで言えるほどに整った精緻な美貌に明らかな疲労の色が浮かんでいる。バックに流した艶のある黒色の頭髪も、心なしかハネ始めている気がした。
「……すまない」
きっちりした黒の礼服を着ているからか、余計疲れているようにみえた。彼は歩が自分をみていることに気づくと、玉座に座ったまま、しっかりとした謝罪を口にした。
「あ、いえどうも……お構いなく……」
とりあえずわかったのは、自分が異世界に転移したということと、この女の子からの説明は聞かないほうがいい、ということだった。