「スクルージの密室 1」 庵字 【本格ミステリ】
第一に雪の上に足跡はない。それについてはいささかの疑いもない。機動捜査隊員も、鑑識も、捜査一課も、確かにそのことを確認した。
雪に囲まれた邸宅の一室で、江辺勝は死にきっていた。死体のそばには、被害者の頭を割ったガラス製の灰皿が転がっていた。
被害者の江部勝は六十五歳。個人で金融、不動産業を営む経営者であり、新潟市内の自宅から歩いて十数分の場所に事務所を構えていた。小さな事務所であったが、彼の会社(そして彼自身)が手にする売上げ金は、そのつつましやかと表現してもよい事務所の見てくれからは想像が及ばないほどだった。
第一発見者となったのは、彼の事務所に勤める(唯一の)従業員である橋屋茂之だった。
始業時刻を三十分も過ぎているというのに、被害者が事務所に姿を見せず、携帯電話にも応答しなかったのを不審に思い、彼は業務をほっぽって(江部勝の会社で「業務をほっぽる」など、天変地異が起きでもしない限りは本来あり得ない行動だった)被害者の自宅を訪れたのだ。
呼び鈴を押しても一向に応答がなく、玄関ドアも開かない(江部邸の玄関ドアはオートロックだった)ことから、橋屋は庭に廻り窓にカーテンの隙間をみつけ、室内を覗いた。そこで彼は、江部勝が倒れているのを発見した。仰臥したまま、ぴくりとも動かない彼の雇い主の頭からは赤黒いものが流れ出ており、ベージュの絨毯を汚していた。震える手で橋屋は110番通報をする。通信指令室の記録によると、午前十時五十分のことだった。
「灰皿で殴られていることに加えて、部屋にあった金庫が空けられていて中身が空っぽだったから、物盗りによる他殺と見て間違いないわね。死亡推定時刻は、昨晩の午後六時半から八時半の二時間の間」
「発見が早かったにしては、随分と幅を持たせたね」
「現場はストーブがガンガン焚かれたままで、真夏みたいな温度になってたからね。照明も点けっぱなしだったから、犯人は被害者を殺害して金庫の中身を奪うと、部屋の中の何もかもをそのままにして逃走したんでしょう」
「そういうことか」
新潟県警捜査一課の紅一点、丸柴栞刑事が、安堂理真に対して、ざっと現状の説明を終えた。
理真は室内ぐるりを見回す。私もその動作に倣った。十畳程度のスペースの中に、机、椅子、ベッド、テレビ、パソコン、書棚。生活に必要なものほとんどを詰め込むように配している部屋だった。
「で、通報を受けて駆けつけた警察が、最初に話した状況を確認したってわけ」
丸柴刑事の言葉に理真は頷いた。彼女が言う「状況」それは、「現場である江部邸の周囲に降り積もった雪には何者の足跡も残されていなかった」ということだ。死体の第一発見者となった橋屋は、江部宅を訪れた際、門から玄関まで一切足跡は付いていなかったと証言し、それに間違いはないと思われている。警察の調べでも、家屋の周囲に残っていた足跡は、被害者宅を訪れて死体発見をした際に橋屋が付けた、門から玄関までと、玄関から庭の窓際までを往復したものしか確認されていない。今しがた丸柴刑事が話した死亡状況から、被害者の死は事故死や自殺では有り得ないと結論づけられている。つまりこれは、いわゆる「雪密室」というやつだ。このことが、警察官でもない民間人女性二名、安堂理真と私、江嶋由宇が、殺人現場という非日常の舞台に呼ばれた理由だった。
私の隣に立つ、この安堂理真は新潟市在住の作家なのだが、彼女は作家の他に別の顔も持っている。その顔というのは「素人探偵」。世に言う「不可能犯罪」なる奇妙な事件が発生した際、警察に捜査協力をして解決に導くというあれだ。
そして、安堂理真の隣に立っているこの私、江嶋由宇は、理真の高校時代の同級生であり、また、現在は彼女が居住するアパートの管理人を生業としており、さらに、理真が「素人探偵」としての顔を使う際には「ワトソン」として同行する関係にあるのだ。「雪密室」という舞台は、素人探偵が出馬するに十分足る「案件」だと言えるだろう。
「丸姉、家の玄関ドアはオートロックだから、邸宅自体についての密室は考慮しなくてもいいわけだよね」
理真が訊いた。彼女のフランクな呼び方は、探偵と刑事という関係を取り払っても、二人が親しい間柄であることを物語っている。
「そうね、鍵も部屋で発見されたし」
「じゃあ、昨日の降雪時間は?」
「気象台に確認したけど、昨夜の降雪は、午後七時半から午後十時までの間と記録されてるわね」
「確かに、そんなくらいだったかな」
理真に顔を向けられたので私は頷いた。昨夜は冷えるな、と感じてカーテンを開けてみたら雪が振っていたのだ。時間は午後八時過ぎくらいだったと記憶している。もう窓から見える公道の黒いアスファルトは、一面白く塗りつぶされていた。
「でも、丸姉、被害者の死亡推定時刻が六時半から八時半で、降雪開始が七時半てことは、犯行が六時半から七時半……いや、七時四十五分くらいまでの間に行われていて、犯人もその時間内に現場からの逃走を果たしていれば、これは『雪密室』でも何でもなくなるわけだよね」
「そうね」
丸柴刑事は首肯した。
理真の言ったとおりだ。犯行が完了して犯人が逃走してから雪が積もったのでは、「雪密室」も何もない。理真が降雪開始時刻の七時半から十五分間、逃走可能リミットを引きのばしたのは、そのくらいの時間であれば、まだ雪が降り始めたばかりで犯人の付けた足跡も必然浅くなるため、後から降り積もってくる雪が足跡を掻き消してしまうこともあり得るだろうということだ。
たまに、雪が降っている時間内であれば、ついた足跡は後から降り積もる雪で埋まって消えてしまうと考える人がいるが、それは間違いだ。ある程度降り積もった雪に一旦足跡が付く、つまり雪面に穴が空いたような状態になれば、その穴はまず消えない。穴(足跡)を埋めるように、そこだけ余計に雪が積もることなど有り得ないからだ。雪は地表にあまねく均一に降り積もる。無論、足跡の採取は不可能になるが、「何者かが歩いた」という痕跡はくっきりと残る。「雪を踏んだ足跡を、後から積もる雪で完全に掻き消せる」というリミットは、雪の程度にもよるが、昨夜の振り方であれば、理真の言ったとおり降雪開始から十五分くらいが限界だろう。
「まあ、『雪密室』の話は少し置いておいて」丸柴刑事は手帳を開くと、「理真、実は容疑者がいるの。しかも、とびきり強烈な」
「誰?」
「被害者の甥。江辺則彦さん。二十八歳。フリーター、ていうか、今はほとんど無職状態みたい。殺された江部勝さんは両親はすでに他界していて、ひとりだけいた弟も病で早くに亡くしてるのね。で、弟のひとり息子である則彦さんが、唯一の血縁者なの」
「被害者が金持ちで、唯一の身内が無職。これは事情が見えてきたぞ」
「お察しのとおり。則彦さんは裕福な伯父さんを頼って、何度かお金の無心に来ていたらしいの」
「それが原因で揉め事になって、あるいは最初から殺意を持って被害者宅を訪れて、殺害に至った可能性もあると。じゃあ、その甥の則彦さんのアリバイは?」
「問題はそこなの」丸柴刑事は、はあ、とため息をつくと手帳のページをめくって、「則彦さんは、昨日の午後六時から九時まで、ずっと市内のカラオケ店にいたというアリバイが確認されてる」
「カラオケ店。個室がいっぱいあるような店ね。そのカラオケ店から現場までは、どれくらいかかるの?」
「徒歩で片道四十五分くらいかな」
「徒歩でそれくらいなら、車を使えば十分かからないでしょ」
「それは駄目。則彦さんは運転免許を持ってない。しかも、この辺りにはバス路線も入ってないしね。則彦さんが、そのカラオケ店からここまで往復するには、足を使うしかない」
「そういうことか。じゃあ、往復で九十分、つまり一時間半。犯行やら何やらで現場で十五分消費したとしても、一時間四十五分か。六時に受付を済ませて、即カラオケ店を出て現場に向かえば、犯行を終えて現場を逃走した時刻は午後七時。降雪前だから、雪密室は成立しないね。で、店に戻る時間は七時四十五分」
だが、理真の推理を聞いた丸柴刑事は浮かない顔をして、
「ところがね、理真、則彦さんは何度か飲食物のルームサービスを頼んでいて、届けに来た従業員が間違いなく部屋にいた姿を目撃してるのよ」
「何時のこと?」
「七時と七時半」
「ルームサービスか……でも、ああいうカラオケ店の個室って、たいてい照明を暗くしているから、似たような体型で同じ服を着た替え玉を用意すれば、店員の目くらい誤魔化せるんじゃない?」
「そうだったとしても、証拠がないわよ。則彦さんの知人にも話を聞いて廻ってるけど、ことごとくアリバイがあるか、なくても女性だったり、則彦さんとは似ても似つかない体型だったり」
「入館時と退館時は? 受付をするレジは明るいから、顔まではっきり見えるでしょ」
「それは間違いない。応対した店員に訊いたけど、入館と退館、どちらもレジに来たのは確かに則彦さんだったと確認が取れてる」
「最初と最後にカラオケ店にいたことは間違いないわけか。で、ルームサービスを頼んだ七時と七時半、そのどちらも本人だったと仮定すると……」
「そう、則彦さんが勝さんを殺しに行って戻ってくるなら、七時半のルームサービス直後に店を抜け出すしかない。その三十分前の七時にもルームサービスの目撃証言がある以上、それより前だと現場への往復時間が取れないからね。で、そうすると店に戻るのは八時四十五分。七時半のルームサービス移行は、退館するまで則彦さんの目撃証言はないからね」
「でも、それだと……」
「そう、ここで『雪密室』の問題が出てくるってわけ」
「うーん……」理真は腕組みをして、「雪が降る前に犯行を終えたなら鉄壁のアリバイがある。アリバイのない時間の犯行だと、雪密室の問題が出てくると」
「そういうこと。替え玉説が正しいとするなら、その証拠を見つけないといけない」
「則彦さんの他に容疑者はいないの?」
丸柴刑事は首を横に振って、
「従業員の橋屋さんをはじめ、取引先の人なんかに話を訊いたところ、殺された江部勝さんっていうのは相当な倹約家というか、吝嗇家で有名だったそうだけど、商売に関しては誠実というか、あくどいことは一切していなかったみたいね。これといって恨みを持つような人物は浮かんでこないわ」
「吝嗇家、つまり、江部勝さんはケチだったと」
「うん。被害者の人となりを訊くと、異口同音にまずそれが出てきたわね。何でも、陰では『スクルージ』っていう渾名で呼ばれてたんだって」
「『スクルージ』って、『クリスマス・キャロル』のね」
「そう」
二人とも納得したような顔をしているので、
「ケチだったっていうだけで?」
私は訊いた。「スクルージ」はもちろん知っている。英国の作家、チャールズ・ディケンズの小説『クリスマス・キャロル』に登場する主人公の名前で、ケチな経営者だ。確かに被害者と共通点はあるが。
「由宇」と理真が、「被害者の名前は、江部勝さん」
「うん」
私は頷く。
「歳は六十五歳。十分『お爺さん』といってもおかしくない年齢だよね。だから『勝爺』と呼ぶことにする。で、『すぐるじい』、つまり『スクルージ』ってわけ」
くだらねー。殺人事件に関する事柄でなければ、間違いなく私はそう口にしていた。理真の推理で正解だったのだろう、丸柴刑事も、うんうんと何度も首肯している。
「だからね、理真」丸柴刑事はため息をついて、「犯人は甥の則彦さん以外に考えられない状況なのよ。最初に言ったように、犯行現場の金庫が空けられて中が空っぽになってたわ。江部さんは極端に人付き合いがなかったそうで、家に友人を呼ぶなんてことなかったらしいのよ。だから、本人以外に金庫の番号を知り得るのは、何度かお金の無心に訪れていた則彦さんだけだと思われてるの。凶器の灰皿はきれいに拭かれていたけれど、部屋のあちこちから則彦さんの指紋も出てるからね。彼のアリバイを崩すか、雪密室のトリックを解いてよ」
それを聞くと、今度は理真がため息を吐いた。