「そして彼女はいなくなった 公判」 奥田光治 【本格推理】
……それから一か月後、俺は東京地方裁判所の被告人席に座っていた。あの悪夢の日、逮捕された俺はもはや抵抗する気も起こらず、彼女を殺害した事を洗いざらい白状した。もっとも、俺が白状しなかったところで証拠はもうそろっていたようだったし、それがなくてもあの榊原という刑事は取り調べで俺からすべてを引き出してしまっただろうけども……。
その榊原という刑事がジッと俺の方を見ながら傍聴席に座っているが見える。捜査責任者の奴は、これから検察側の証人として証言する予定なのだ。そしてその横には、俺が殺した彼女の遺族が鬼のような目でこちらを睨みつけていた。
検事席にいる検事はいかにもベテランという風で、怖い顔のまま黙って俺を見据えている。一方、俺を守るべき弁護人は頼りない若手弁護士で、時々あくびしている声も聞こえてきた。まぁ、そもそもが国選弁護人で、俺が罪を認めている関係上争点が量刑の増減でしかないのだから無理もないかもしれないが。
と、正面にいる裁判官が検察官に呼びかけた。
「では、検察官、起訴状の朗読を」
「はい」
ベテラン風の検察官は立ち上がると、俺を親の仇のように睨みながら鋭く起訴状を読み上げた。
「公訴事実! 被告人・伊山鶴夫は一九九五年二月十四日深夜十一時頃、自宅である東京都練馬区○○番地△△アパート二〇九号室において、当時付き合っていた被害者の利根山一菜さんと口論になり、室内にあったサンタクロースの置物で殺害。その後、事件の発覚を恐れて死体を近所のリサイクルセンター敷地内に遺棄したものの、『一年後の』一九九六年三月十日に警察により遺体が発見され、翌十一日に逮捕されたものである! 罪状、刑法190条・死体遺棄、及び刑法199条・殺人!」
……全ては検察官の言う通りだった。俺は彼女を殺害した後一年間も罪を逃れていたが、結局すべてがばれて捕まってしまったのである。
裁判は淡々と進んでいた。初めてこの裁判を見た法廷マニア辺りは事件の流れがわからず戸惑っているかもしれないが、すでにその辺のことを承知している裁判関係者は流れを止めようとしない。
起訴状朗読後、罪状の認否の確認があったが、俺は素直に罪を認め、弁護士も有罪無罪について争う姿勢がない事を示した。続いて検察官は証拠を提出していく。凶器の置物や各種物的証拠、俺の生い立ちや自白について書かれた調書……それら手続きが終わると、いよいよ証人に対する尋問が始まる。
しかし、検察官は本来の証言者である榊原刑事の前に、あえて彼女の遺族の証言を優先して行うように申請した。理由は、そうした方が事件の流れを理解しやすいからだそうだ。裁判官はそれを了承した。
「では、被害者の妹である、利根山二菜さん……どうぞ」
検察官に言われて、彼女の妹……利根山二菜が証言台に立ち、一瞬被告人席に座る俺の方を睨みつける。その女性は、あのクリスマスの夜……すなわち一九九五年十二月二十五日にあの繁華街で俺にコーヒーをぶっかけ、その後俺と付き合う「ふり」をしながら、俺を告発するための証拠を探していた、小柄で眼鏡の「彼女」その人だった……。
……何度も言うように、俺が彼女……利根山一菜を殺したのは阪神大震災が起こって約一ヶ月後の一九九五年二月十四日のバレンタインデーだった。付き合い始めてから殺害まで半年程度。二菜に会ったクリスマスの日に思いをはせていた「一年ほど前に半年付き合った後でいなくなってしまった彼女」というのが一菜の事である。だからこそ、あのバレンタインデーの日の俺の部屋には、クリスマスに一菜と一緒に買ったサンタクロースの置物が置かれていたわけである(当たり前だが、クリスマスに初めて出会ってその後付き合い始めた人間が、付き合い始めた後に季節外れのサンタの置物を買って来られるわけがない)。
俺は利根山一菜を殺した。妹の二菜と違って『背が俺と同じか少し高い』彼女だったので、大きく振りかぶったにもかかわらず、置物は一菜の脳天ではなくこめかみにぶつかる事となった(小柄な相手だったら脳天を直撃するはずである)。幸いだったのは、彼女が二菜と違って『眼鏡をかけていなかった』ので、置物がこめかみに当たっても眼鏡が割れるような事が起こらなかった事だ。実際、彼女のバッグには眼鏡をかけている人なら間違いなく入れているであろう眼鏡ケースもなかったし、彼女の目は本当に良かったようだ。もっとも、背の高さゆえにスーツケースに入れる時には抱え込むのに相当苦労する事になったわけだが……。
こうしてみると、あの姉妹は本当に容姿が違ったのだと実感させられる。実際、俺が一菜を殺してから十ヶ月後の一九九五年十二月二十五日に二菜が俺にコーヒーをかけてきたときも、俺は彼女が一菜の妹だとは全く気付かなかった。気付いたら他に色々対処できたのだろうが……今さら言っても意味のない話である。
もちろん、彼女……二菜がコーヒーをかけてきたのは偶然ではない。彼女はそれ以前から、俺が一菜の失踪に何か関係があると疑っていたらしいのだ。もちろん、一菜は約束通り俺との交際を秘密にしていたらしいのだが、当時二菜は一菜と同じアパートに住んでいて、誰かはわからなかったが雰囲気で姉に彼氏がいると感じたらしい。
そして、姉が消えた後、二菜はその名もわからぬ「彼氏」に疑いを持った。当然と言えば当然である。そして、二菜はそこから一年かけて、姉の「彼氏」を探す事に全力を注ぎこんだ。いくら秘密の付き合いだからと言って半年の間に一緒に出掛けたりする事はたくさんあったし(というか、例のサンタの置物も俺と一菜が一緒に買ったものであり、すなわち俺と一菜が一緒に買い物に行った事があるという話でもある)、その痕跡を完全に消す事は不可能だった。やがて、二菜は姉が付き合っていたのが俺ではないかという疑いを持つに至った。
しかし、確たる証拠があるわけではないし、仮に俺と一菜が付き合っていた事がわかってもそれがすぐに俺が一菜を殺したという証拠になるわけではない。そこで、二菜は正体を隠して俺に接近するという無謀な行動に打って出たのだ。
あの時、二菜が俺にコーヒーをかけたのは、もちろん俺に近づくきっかけを作るとか、純粋に俺に対する恨みなどの理由もあったが、最大の目的は俺のジャンバーを手に入れる事だったらしい。もちろん彼女に弟などおらず、色々言い訳を作って俺のジャンバーを手に入れた二菜は、家に残っていた姉の私物とジャンバーに残っていた俺の指紋を鑑定に出した。当然ながら、付き合っていた半年の間に俺が一菜の持ち物に素手で触れる機会は何度もあったわけで、家に残っていたそうした私物の中に俺の指紋が残っているかもしれないと考えた二菜は、俺のジャンバーの指紋とそれらが一致するかを確認してまずは俺と一菜が付き合っていた事実を明確にしようとしたらしい。結果、彼女が家に置いていた俺が処分した物とは別のハンドバッグに付着していた指紋が俺のジャンバーに付着していた俺の指紋と一致し、俺が一菜と付き合っていた事は決定的になったとの事だ(なお、二菜はこの段階ではまだ証拠が足りないという事で警察ではなく民間の科学調査研究所に依頼してこの検査を行っている。もしこの段階で警察に頼んでいれば、こんな無謀な事をしなくても前科者データに残っている指紋で一発だったわけだが……)。ちなみに、証拠になる問題のジャンバーはそのまま二菜が手元に置き、俺に返したジャンバーは二菜が用意した同じ銘柄のジャンバーであった。あの三日間という時間は、クリーニングではなく二菜が同じジャンバーを探すための時間だったようである。
そしてその後、彼女は俺が一菜を殺した証拠を見つけるために、俺との付き合いを続けた。しばらくして俺の部屋に入れるようになると、上辺だけは俺と仲良くしながらも何か手掛かりがないかと必死になって探っていたようである。そして、付き合い始めてから一ヶ月以上経過して、彼女はついに俺が見逃していたその証拠をつかむ事に成功した。
あの日、俺が彼女を殴ったのはちょうどテレビの前だった。事件後、俺は彼女に関係あるものや痕跡が残っていそうなものはすべて処分をしたが、そう簡単に処分できない調度品などは話が別だった。もちろん指紋などを拭く作業はしたつもりだったが、そんな中、二菜はテレビの裏の死角になっている場所にあるコードに血痕のようなシミが付着しているのを見つけたのである(今から考えると、血がそこまで流れていなかったので、俺も床を拭いただけでつい見逃してしまったようだ)。
二菜は俺の目を盗んでそのシミの一部を削り取り、そのサンプルを今度は自分の血液と一緒に再び分析に回して、姉妹関係の有無を確認した。結果、問題のサンプルは血痕であり、しかもそのサンプルの主と二菜が姉妹関係である事まで証明された。つまり、一菜が俺の部屋で血を流した事が、俺の知らないところで確実なものとなってしまったのだ。
そして、この時点で一菜は表向き俺との付き合いを続けながらも、これらの証拠を持って裏で警察に相談をし、正式な捜査をしてくれるように要請した。そしてその相談内容に興味を持ったのが、たまたま彼女が相談しに行った所轄署に設置されている別件の捜査本部に出張っていた捜査一課の榊原刑事だったのである。
「二菜さんから相談を受けて、あなたはどう思いましたか?」
思考が現実に戻ると、すでに二菜に対する尋問は終わっていて、予定通り榊原刑事に対する検察側の尋問が始まっていた。榊原刑事はそれに淡々と答えている。
「正直な所、二菜さんには申し訳ありませんが、これだけでは立証は難しいと思いました」
「なぜですか?」
「確かに、そのテレビのコードの血痕があれば一菜さんがあの部屋で血を流した事までは証明できますが、その血が殺害の結果付着したとは必ずしも言えないからです。もしかしたら、単に室内で何らかの理由で怪我をした時についた血なのかもしれませんし、被告人もそのような反論をしてくる事が想定されました。結局の所、彼女の死体が見つからない限り捜査を進める事は不可能というのが当時の私や所轄署の見解でした」
「そして、あなたはどうしたのですか?」
「彼女の言う事もわからないでもなかったので、少し考えてみたのです。仮に……あくまで仮にですが、二菜さんの言うように一菜さんがあの部屋で殺害されたと考えて、その場合、被告人はどこに一菜さんの死体を隠したのだろうと思いました。彼が車や免許を持っていない事は調べたらすぐにわかりましたから、遠くに隠した可能性はありません。そこで少し調べてみたら、事件当時、問題のアパート近くでリサイクルセンターの土台工事が行われていた記録を見つけたんです。他に目ぼしい候補もなく、本当に被告人が殺人を犯しているなら、死体を隠す場所はここしかないと考えました。なので、目下のところ調べるべきは被告人のアパートではなくリサイクルセンターの方だと思ったんです」
そう……あの時はリサイクルセンターが理想的な隠し場所だと思っていたが、今思えばあまりにも理想的すぎて、自分が犯人であると疑われた時点で死体を隠し場所の候補がほぼ特定されてしまうというデメリットがあった事に気付いていなかったのだ。そして、一度疑われてしまえば、警察の捜査能力の前では床の下に埋めた死体などまったくの無力だった。
「私は一度リサイクルセンターを調べてみる必要があると提案しました。もちろん、この段階では本当に殺人事件なのか疑わしい状態でしたから、万が一何も出なかったら警察はこの事件に対するそれ以上の捜査は二度とできなくなってしまいますし、それを主張した私もただでは済まなくなるでしょう。私は二菜さんにそのリスクを冒してでもリサイクルセンターに対する調査をしてほしいかと尋ねました。そして、二菜さんはイエスと答え、私は自分の責任でリサイクルセンターを調べる要請を上に出す事にしました。もちろん、アパートにいる被告人に気付かれないよう極秘に、ですが」
「結果はどうでしたか?」
「事件当時、リサイクルセンターでは土台工事をしていた事から、私は犯人が死体を隠すとすれば土台工事の下の地面に埋める以外考えられないと思いました。犯人の心理的にもそれ以外の隠し場所はあり得ません。また、これも犯人の心理的に考えて、地面を掘るときに人目につく可能性がある外縁部は避けるはず。となると、条件は『二月十四日時点で地面が露出していたリサイクルセンターの内縁部』となり、そこを中心に超音波を使ったエコー検査を行ったんです。結果、リサイクルセンター中央部の床下の辺りに大きな埋蔵物の痕跡が見つかり、このままでは建物自体の強度にも影響が出るかもしれないという事でセンター側の許可をもらってその辺りの土台を破壊して掘り返した結果、キャリーケースの中に詰まった女性の白骨死体が見つかった、というわけです」
その後の事は俺もよく知っている。一緒に入れておいた凶器の置物から俺の指紋が検出されて、それを根拠に警察は俺の逮捕と家宅捜索に関する令状を取った。部屋の捜索の結果、問題のコードからは二菜の証言通りの血痕が見つかって、それもさっき検察官が提出した証拠の中に入っている。そして取り調べの時点で、俺は初めて、付き合っていた彼女の正体が一菜の妹であるという事実を知ったのだ。誰にもばれるはずのなかった俺の犯行がばれた理由……何の事はない、被害者の遺族が俺に気付かれないようにして証拠を探していたからというのがその答えになるだろう。俺以外に、この事件にそんな人間が存在していたという事実に気付ける人は果たしてどれくらいいるのだろうか?
彼女は傍聴席から俺の事を冷たい目で見つめていた。ふりだったとはいえ、彼女のあの太陽のような笑顔を見る機会は俺にはもう二度とないだろう。まさか、こんな形……一方が他方を殺人者として告発するという形で彼女と別れる事になるとは思わなかった。俺は榊原刑事が淡々と証言する声をバックに彼女が冷たい視線を浴びせる中で、あの偽りの幸せな日々が徐々に色あせていき、この先に待つ判決という冷たい現実が重くのしかかってくる感覚を嫌というほど味わう事になったのだった……。




